安倍路線の破産と新朝鮮政策

『世界』 2007年12月号





 昨年九月はじめ、私は本誌十月号に「拝啓 安倍晋三様」とはじまる一文を発表した。そこで安倍氏が二人の祖父のうち岸信介氏のみを継承し、安倍寛氏を無視していると指摘し、安倍氏の右翼的歴史観にもとづく政治活動を概観した上で、次の質問を呈した。

 「第一は、安倍さんは、総理におなりになったら、村山談話を堅持すると誓約されますか。第二に、安倍さんは、総理におなりになったら、慰安婦問題での河野談話を堅持され、歴代総理が署名された慰安婦被害者に対する『お詫びの手紙』の精神を継承されますか。第三に、安倍さんは、総理におなりになったら、日朝平壌宣言を堅持されますか。」

 そのときの私の気持ちは、巨大な反動の流れをこの三つの基本文書で押しとどめ、日本の国の立場を守りたいというのに近かった。『世界』のこの号が本屋に出たのは九月八日のであるが、その前日、総裁候補安倍氏は村山談話を踏襲するかと訊かれて、曖昧な答えをしていた。『朝日新聞』九月八日の社説「村山談話を葬るな」は安倍氏の態度を批判した。

 

 

 安倍晋三氏は議員初当選の翌年、一九九四年に奥野誠亮会長の「終戦五十周年国会議員連盟」の事務局次長となった人である。右翼的な歴史観から戦後五〇年国会決議、村山談話、河野談話に反対したかぎりでは、党内の傍流にすぎなかったが、一九九七年から頭角をあらわし、小泉首相の後継者に指名されて、右翼政治家のプリンスとして、主流派にのし上がった。まさに拉致問題での強硬論、北朝鮮バッシングが社会の右翼的な空気の土台となった一〇年が安倍氏の政治的上昇の時期であった。そして、総理大臣となった安倍氏は、「美しい国、日本」を目標に、「戦後レジームからの脱却」をめざし、「美しい国創り内閣」の目標の中心に憲法改正を置いたのである。それは保守の道ではなく、右翼的な革新の道であった。安倍内閣成立の三日後、首相を本部長にし全閣僚からなる拉致問題対策本部が発足した。「美しい国創り内閣」のもう一つの顔が拉致問題対策内閣であった。

 だが、安倍首相は、小泉首相がつくりだした靖国神社参拝の強行による中国との関係悪化にとりくまなければならなかった。自らのイデオロギーを押し隠して、靖国神社を参拝しないことを暗に約束することで、対中関係改善の道をとらざるをえなかった。靖国神社参拝せずとは明言したくない安倍氏は村山談話を継承すると日中首脳会談で表明することを決断した(読売、一〇月三日)。

 一〇月二日、所信表明演説に対する代表質問に答えて、安倍首相は村山談話を踏襲する発言をおこなった。もとより、それだけではすまない。予算委員会では、一〇月五日、菅直人氏が村山談話に加えて、河野談話の継承についても迫った。安倍首相は河野談話も「政府として出され、現在の政府にも受け継がれている」と答えざるを得なかった(朝日、六日)。ここにまでいたると、驚きが走った。毎日新聞のコラムは安倍氏の「変節か」と書き(九日)、朝日新聞の社説は「拝啓 安倍晋三様」「君子豹変ですか」と揶揄した(一二日)。安倍首相は志位和夫氏の質問に、慰安婦の連行について「狭義の強制性」を「事実で裏付けるものは出てきていない」と留保をつけたが(東京、七日)、この印象は変わらなかった。

 八日からの中韓訪問の途中で、北朝鮮の核実験がおこなわれ、安倍首相は北朝鮮に対する新たな制裁措置を決定した。この得意分野での対応は大方の国民に支持されたのだが、安倍氏のブレーンたちは河野談話を継承した首相に不満だった。中西輝政、岡崎久彦、櫻井よしこ、西岡力、島田洋一、葛西敬之、八木秀次氏らの中には「失望した」とはっきり言う人が出てきた(読売、一〇月二二日)。たまりかねて安倍氏の同志、下村博文官房副長官が一〇月二五日、河野談話について「もう少し事実関係をよく研究し」、再検討する必要があると講演した(読売、二六日)。この発言は閣内不統一という批判をうけたが(毎日、二六日夕刊)、安倍首相は「問題ない」と弁護したのである(毎日、二七日)。

 一二月一〇日は、北朝鮮人権侵害問題啓発週間の第一日であった。全国紙六紙に政府は安倍首相の大きな写真入りで意見広告を出し、「拉致問題はわが国の最重要問題です」と打ち出した。三日後、自民党内の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長中山成彬元文科相)が活動を再開した(産経、一四日)。一五日には教育基本法の改正が実現した。

 年が明けて本年一月五日には首相の信任あつい漆間巌警察庁長官が記者会見で、「今年勝負に出なければならないのは北朝鮮による拉致問題だ。残る一一人の拉致被害者の帰国をサポートできるよう捜査に力を入れたい」と述べた(共同通信、五日)。北朝鮮に圧力を加えるため、在日朝鮮人、朝鮮人団体がらみの捜査、立件に全力をあげるという方針の表明であった。他方、アメリカのヒル国務次官補は一月中旬ベルリンで金桂冠外務次官と会談して、BDA問題を解決して、六者協議を正常にもどすということで合意した。対北朝鮮政策を転換したブッシュ政権と安倍政権の進む道がここで分かれることになった。

 そこに出てくるのが、マイケル・ホンダ議員提出の慰安婦問題の決議案である。これは一月三一日に提出された。この決議案は、前年九月下院外交委員会で採択された決議とはまったく異なった内容のものであった。「慰安婦の苦難について、こころからのお詫びと反省を表明した」河野談話を評価し、その「内容を薄めたり、撤回したりすることを願望する旨表明している」日本の公務員や民間の要職にある者の動きに反対し、アジア女性基金の設立と活動を評価し、それが三月三一日に解散してしまうことを憂慮して、安倍内閣が謝罪の公式声明を出し、慰安婦問題を否定する主張に反論するように求めるものであった。河野談話とアジア女性基金についてこれほどの評価が示されたのははじめてであり、日本政府のこれまでの努力を安倍首相が継承するということが信じられない、継承するというなら、いっそう明確な公式声明を出せというのがこの決議案の意味であった。誰が用意したかわからないが、政治的に考え抜かれた、安倍首相の急所を打つ決議案であった。

 二月一三日六者協議では初期段階の核施設停止にかんする合意文書が調印された。初期段階の措置に日本は不参加を表明し、孤立した。このとき、「考える議員の会」は、河野談話見直しの提言を月内に首相に提出することを決定した(毎日、一〇日)。

 三月一日安倍首相が日本軍による「強制性を裏付けるものはなかった」とあらためて発言した(毎日、二日)ことが火を燃え上がらせた。安倍首相が河野談話見直しの動きを支持しているとの印象をうけた米国のメディアは強く反撥した。安倍首相は、さらに五日には、「官憲が家の中にまで入って連れて行ったという強制性はなかった」、「米下院の決議案は客観的な事実に基づいていない」とまで答弁した。八日には「考える議員の会」がついに慰安婦問題の実態の再調査と結果の公開を申し入れしたのをうけて、安倍首相は「資料の提出、提供で協力していく」と約束した(産経、九日)。

 三月上旬ハノイでおこなわれた日朝作業部会は議論にならずに終わった。圧力政策はいかなる効果もあげていなかった。そして、ついにアメリカから決定的な批判が出た。“Shinzo Abe' s Double Talk” (安倍晋三の二枚舌)と題された『ワシントン・ポスト』紙三月二四日号の社説である。この社説は、六者協議での最強硬派は日本であり、拉致被害者について情報がでないかぎり、関係改善の「いかなる協議も拒否する」としている、他方で、「奇妙で不快なことは」、安倍が第二次大戦中、「数万人の女性」を慰安婦にしたことの「責任を日本が受け入れたことを後退させるキャンペーンを並行して行っている」ことである、と述べている。この社説は安倍首相が拉致問題で北朝鮮の加害を糾弾しながら、慰安婦問題での日本の加害責任からのがれようとしていることを「二枚舌」と批判した。安倍氏の対北朝鮮政策と慰安婦問題に対する態度がアメリカの一部では密接にからめて取り上げられるにいたったのである。

 四月は憲法改正のための国民投票法案が衆議院で強行採決され、参議院にまわされた。ほぼ一ヶ月間、日本人女性と在日朝鮮人の夫との間に生まれた二人の子供が北朝鮮の父のもとに連れて行かれた二〇年前の出来事を拉致事件として捜査立件する警察のうごきが連日新聞に載った。それは北朝鮮に圧力を強める安倍首相と漆間長官の作戦だった。

 四月末安倍首相は訪米して、ブッシュ大統領や議会指導者に会い、河野談話を継承していること、慰安婦問題について反省していることを述べた。ブッシュ大統領はそれを受け入れ、拉致問題を重視するとの態度を明らかにした。日米関係は修復されたようにみえたが、それはうわべのことにすぎなかった。

 安倍氏は、目立たないところでは、ホンネをあらわそうとした。四月日韓歴史共同研究委員会の第二期メンバーが決められた。官邸は西岡力氏を入れようとして、さすがに実現しなかったが、重村智計氏が歴史教育小委員会のメンバーとして押し込まれた。この小委員会には『諸君』昨年四月号の特集「もし韓国、中国にああ言われたら、こう言い返せ」に登場した古田博司氏ら三教授が加えられた。「主張する外交」による人選であった。

 そして、六月一四日には、『ワシントン・ポスト』紙に慰安婦問題に関する意見広告“The Facts”がのせられた。これは櫻井よしこ、屋山太郎氏ら五人が起草者になって、岡崎久彦、西岡力、島田洋一、西尾幹二、藤岡信勝、荒木和博氏ら一三人の学者、評論家、ジャーナリスト、四三人の議員が連署した文章である。内容は@日本政府は女性たちの誘拐まがいのことがおこらないように通達も出していた、A韓国でそのような行為をした業者を警察が取り締まったという新聞記事がある、B不法行為はインドネシアであったが、軍がやめさせ、関係者は戦犯裁判にかけられている、C慰安婦の証言は信頼できない、D慰安婦は売春婦として働いていた者で、どの国にもある制度であり、多くの慰安婦は将校はもとより将軍よりも稼いでいた、ということを五つの「事実」として説明している。慰安婦は自発的に働いた売春婦であり、慰安婦問題は存在しないというこの暴論は、河野談話を否定し、日本政府がアジア女性基金を設立し、総理のお詫びの手紙とともに被害者に対する償いの事業を進めてきたことを否定する主張である。このような意見広告を首相のブレーンたちが『ワシントン・ポスト』紙に出すことを官邸が知らなかったはずはない。知っていて、とめなかったとすれば、ここに首相のホンネがあると思われてもしかたがない。

 米議会はそのように判断したようである。六月二六日下院外交委員会はホンダ議員らの決議案を可決した。安倍首相は「うそつき」だと言うにひとしい決議が採択されたのは、まさに日本国の恥辱であった。

 そして安倍首相は拉致問題が自分の内閣の最重要の課題であると宣言してきた。しかし、圧力を加えれば加えるほど、北朝鮮は安倍政権とは交渉せずという姿勢を強めていった。内閣の最重要の課題でいかなる進展もなければ、首相は責任をとらなければならなくなる。

 国民は漠然とではあれ安倍氏の内閣が日本と世界の現実から宙に浮いていると感じはじめていた。安倍首相が参議院選挙で大敗を喫したのは当然であった。しかし、安倍氏は退陣を拒否し、八月末内閣改造を行った。そのさい警察庁長官を退任した漆間氏を官房副長官に任命しようとしたが、さすがに果たせなかった。九月はじめジュネーヴで行われた米朝作業部会では、テロ支援国家指定解除が合意されたと北朝鮮が発表した。一方、九月五日からウランバートルではじまった第二回の日朝作業部会は実質的にはいかなる前進もないままに終わった。同じ時、APECのシドニー会議で、安倍首相はブッシュ大統領と最後に対面した。韓国の盧武鉉大統領とは朝鮮半島の平和体制構築の話を前向きにしたブッシュ大統領は安倍首相には何の話をしたのだろう。安倍首相がテロ特措法の成立に政治生命をかけると言って、テロ支援国家指定の解除はしてくれるなと頼んでも、ブッシュ大統領は冷ややかに対したのだろう。もはや大統領は安倍首相のことを「シンゾー」とは呼ばず、「ミスター・プライムミニスター」と呼ぶにすぎなかった。このときの会談で安倍首相は大きな精神的打撃をうけたのではないかと見られている。帰国した安倍氏は所信表明演説をおこなっただけで、二日後代表質問の当日に首相の座を投げ出した。

 

 

 総裁選には、福田康夫氏が立候補して、麻生外相と争った。福田氏は慎重だったが、安倍氏との違いを示すために、選んだのは対北朝鮮政策の転換であった。福田氏は九月一六日総裁選の第一声で次のように述べた。「昨今の状況は、お互いに、交渉する余地がないような、非常に固い状況になっている。交渉の意欲が向こうに伝わる方法はないか。『対話と圧力』の基本姿勢の上に前進をはかる工夫を考えたい。」(朝日、一七日)麻生氏はこれに対して「圧力が基礎だ」と述べて、安倍政策継続の立場であることを示した。結果は、福田氏が勝利した。福田氏は村山談話、河野談話を継承する人である。

 福田首相は所信表明演説で、次のように述べた。「朝鮮半島をめぐる問題の解決は、アジアの平和と安定に不可欠です。北朝鮮の非核化に向け、六者会合などの場を通じ、国際社会との連携を一層強化してまいります。拉致問題は重大な人権問題です。すべての拉致被害者の一刻も早い帰国を実現し、『不幸な過去』を清算して日朝国交正常化を図るべく、最大限の努力を行います。」安倍から福田への政権交代の核心は対北朝鮮政策の転換である。

 安倍氏が敗北し、安倍路線が破産したことで、ブレーンたちは涙にくれている。岡崎久彦氏は、後継総理が福田氏になれば、「反動の時代が来る」と述べた(毎日、九月一八日夕刊)、中西輝政氏は「第三の敗戦」と嘆いた(諸君、一一月号)。櫻井よしこ氏は失敗の第一は「安倍氏自身が安倍氏でなくなったこと」だと書いた(同上)。

 自分の信念をかくしては総理大臣はつとめられない。二一世紀の日本で、村山談話、河野談話、アジア女性基金を否定する者は総理大臣にはなれないということが明らかになった。「戦後レジームからの脱却」も日本国の目標にはなりえない。北朝鮮バッシングをつづけるかぎり、日本の政治は歪んでいく。一九九七年から一〇年つづいた北朝鮮バッシングに基づく排外的な気分による政界、メディア、国民意識の支配、その結果としての政治の漂流を終わらせる時がきた。失われた一〇年、失われた五年をとりもどすべきである。

 

 

 ここで幻想的、時代錯誤的、非現実的な思想、路線、戦略、政策からきっぱりと修正転換をはからなければならない。

 @「拉致問題の解決なくして北朝鮮との国交正常化はありえません」という考えから日朝国交正常化の早期実現をめざす中で日朝間の諸問題に誠実にとりくむという考えへ変わらなければならない。これは日朝平壌宣言に立ち返るということである。しかし、この点は心配ない。すでに古い考えは福田首相の所信表明演説から消えている。

 A「拉致被害者全員生存の前提に立ち、全員の生還を求める」という要求ではなく、拉致被害者のうち、生存者がいれば全員帰国させよ、安否不明者についてはさらに誠意を持って調査せよという要求にとりかえなければならない。この点では、福田首相の所信表明演説も古い考えに縛られている。ここをはっきり転換しないと交渉はデッドロックに乗り上げたままである。外務省の中には、「幾人かでも帰してくれれば」という考えが根強くあった。高村外相も10月26日に「何人かでも帰国すれば進展であることは明らかだ」と表明した。もとより死亡とされた人々の中に生きている人がいるかもしれない。だが北朝鮮が死んだと言ったのは、工作員の教育係などをした人である可能性が高い。また五人を返して五年間交渉が中断となったのをみた北朝鮮側が国交樹立前に誰であれ返すことはしないだろう。楽観的に考えて、誤った進展の定義をつくると、交渉はすすまない。生きている人がいるのなら、その安全を考え、無理な力を加えず、時を待って、救い出すことをめざすべきである。生存者は返してほしいと言い続けることが必要である。

 B横田めぐみさんの遺骨からはめぐみさんのものでない、別人のDNAが検出されたとして、北朝鮮側の態度は不当だとして、遺骨も返さないという態度を日本政府はとってきた。しかし、遺骨問題ではこのあたりで現実的な対立処理策を講じる必要がある。遺骨の鑑定については、北朝鮮から反論が出ている。イギリスの科学雑誌『ネイチャー』でも、一時系統的に日本側鑑定に疑問が出されたことがある。DNA鑑定は争いがあるものである。この点を解決するには、まず帝京大学から警視庁に移った鑑定者の吉井富夫氏の国会証言を求めるのがよい。民主党に参議院でやってもらいたい。吉井氏自身、その著書の中で、「DNA鑑定の際に資料を保管していないような事例では、そのDNA鑑定結果を排除するくらいの厳しさが必要である」と書いている。だから、骨がのこっているかどうか確認して、のこっているなら、北朝鮮に返すか、第三者に再鑑定を求めるのが当然である。日本が骨を返えさず、再鑑定をゆるさないなら、日本政府の行った遺骨のDNA鑑定は国際的にはみとめられなくなる。そうなる他ないのなら、骨の身元については黒白がつけられないということを認めて、この問題を棚上げにするのがよい。

 C先頃北朝鮮でおこった大規模水害に対して米国は食糧援助をする用意を八月三一日に表明した(朝日、二日)。しかし、安倍内閣では、支援物資を日本から運ぶために北朝鮮船舶の入港を例外的に認めてほしいという朝鮮総連の要請文を受け取ることすら拒否したのであった(読売、九月六日夕刊、七日)。人道援助は日朝間の懸案交渉とは関係がないということは小泉首相がくりかえし述べたことである。未曾有の水害にあった北朝鮮に対する人道援助は交渉とは関係させず、行うのが当然である。

 C福田新内閣は一〇月九日拉致問題での進展がない以上、制裁措置は延長すると決定したが、ミサイル発射実験が停止されており、核問題での六者協議の進展がある以上、国交交渉推進の環境整備のためにも、制裁の部分的、段階的解除を行う必要がある。日本政府が行った第一次、第二次の制裁はいずれもミサイル発射と核実験に対する制裁である。その解除を拉致問題の進展と結びつけるのは正しくない。早期に万景峰号の入港禁止だけでも解除すれば、交渉再開のためのジェスチャーとなるだろう。

 D高村外相は、先頃の訪米のさい、拉致問題の解決なくして、アメリカがテロ支援国家指定を解除するのに反対するという態度を表明した。しかし、六者協議の枠内で、米朝間の話し合いで、アメリカが指定解除することには反対しないという立場をすみやかに打ち出す必要がある。また安倍前首相は、拉致問題の進展がないので、六者協議で合意した北朝鮮への見返り措置には加わらないという態度をとっていたが、六者協議の合意にしたがって、北朝鮮への見返り措置に加わるという態度に変える必要がある。

 核の問題は数十万、数百万人の生命に関わる日本と東北アジア地域の最重要問題であり、プライオリティの上にくるのは当然である。この点は福田首相は所信表明演説ではっきりした考えを示した。したがって、核問題の解決のため六者協議に参加している以上、日本被爆国日本は、核問題の第二段階への進展のために共同の見返り措置に参加するのは当然である。第一段階の重油五万トンの提供を見送ったのにつづけて、第二段階にも参加しないというわけには、もはやいかないのである。

 また米国はテロ支援国家指定解除を北朝鮮説得の梃子として使っており、九月の合意文には時期は明示しないが、解除を明記している。アメリカはそのために日朝間の実質的交渉をのぞんでいるのである。だがその進展がなければ、自らの判断で解除を決断するつもりである。このままでは日本はアメリカに哀願しつづけた末に、アメリカに袖にされたということになりかねない。これこそ国辱外交というものである。日本は拉致問題は日朝二国間で、自分の外交努力で解決すべき問題だと考えて、腹を決めて進むことが必要である。

 結局安倍氏の対北朝鮮強硬姿勢の背後には、ハードランディング路線があったのである。たしかに金正日政権がなくなれば、核の問題も拉致問題もまったく違った解決がありうるし、真相も相当に明らかになるだろう。しかし、現在の状況で金正日政権を崩壊に追い込むことは不可能であり、危険である。いまはアメリカも完全に政策を変えている。金正日政権と外交交渉を通じて国交樹立に進んでいくほかないのである。

 拉致問題の解決は難しく、時間がかかることを覚悟しなければならない。当面必要なことは、横田めぐみさんの状況について、蓮池薫氏が報告した内容を国民が共有することである。昨年一〇月三日放映された日本テレビの番組「再会――横田めぐみさんの願い」を見ると、蓮池さんは、横田めぐみさんが精神的に病んでおり、一九九四年三月に義州の隔離病棟に送られ、二度と会うことはなかったと語っている。このような情報は政府からは一切開示されていない。国会でこのような情報について検証することが必要である。

 北朝鮮側の二回の調査では、新しいことが出なかったのだから、三回目の調査のためには、横田夫妻の訪朝、直接調査ということを求めざるをえない。北朝鮮の秘密機関の壁を破るのは肉親の力以外にないだろう。政府関係者が同行して、サポートすれば、問題はない。原敕晁さんの件については、辛光洙に対する事情聴取を求めるのがよい。日本政府は拉致実行犯の引き渡しを求めているが、犯罪人引き渡し協定もない日朝間では不可能である。さらによど号関係者の帰国を求め、有本恵子さんらの件について糺すのがよい。よど号関係者全員の帰国はすでに機が熟した問題である。

 最後に外交はギヴ・アンド・テイクであるとすれば、日本側も「不幸な過去」への取り組みも見せねばならない。国交樹立後に経済協力をおこなうという合意に立ちつつ、それ以前にも前倒しで実施できる措置を実施して、相互理解を促進すべきである。そのためには、北朝鮮の被爆者にも被爆者援護法を適用する道を開く、強制動員労働者の遺骨を韓国同様北朝鮮に返還する、慰安婦被害者に対して、アジア女性基金の事業と同様に、総理のお詫びの手紙と医療福祉支援事業を個人ベースで実施する(オランダ方式)などが考えられる。費用がかかるなら、その額を経済協力から差し引けばよいのである。

 最後に安倍首相と漆間警察庁長官が推進した対北朝鮮圧力としての在日朝鮮人とその団体に対する圧迫をやめなければならない。安倍内閣の「拉致問題における今後の対応方針」(昨年一〇月一六日)第三項「現行法制度の下での厳格な法執行を引き続き実施していく」は数々の不当な恣意的な圧迫を生み出した。これを一掃し、在日朝鮮人をわれわれのコミュニティの一員と考え、「共生」の道を求めていくべきである。総連の本部建物をめぐる問題ももう一度交渉のテーブルについて、話し合いで解決することが望まれる。

 いまこそ日本は対朝鮮政策を転換すべきであり、そのことを通じて日本の政治と外交の正常化を果たさなければならない。










拝啓 安倍晋三様

『世界』 2006年10月号 「安倍晋三氏の歴史認識を問う」





 次期自民党総裁の最有力候補で、かつ日本の次期総理大臣の最有力候補であるあなたの新著『美しい国へ』を拝見しました。国民の一人として感想を記し、お願いを申し述べるために筆をとりました。

 

 美しい国とはなにか

 ご本は「美しい国へ」と題されています。だが、「美しい国」については、ご本の中ではまったく論じられていません。結びの言葉も「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。・・・日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために汗を流すべきではないだろうか」となっているだけです。

 あの戦争の末期に国民学校の生徒であった私たちにとっては、「美しい国」という言葉は身近な言葉です。二反長半(にたんおさ・なかば)という作者の戦時児童文学小説『島の旗かぜ』(昭和一八年)は私の愛読書でしたが、その巻頭の言葉は次のように始まっていました。

 「世界中で、日本ほど、けしきの美しい國はありません。しかも、この美しい國は、美しい、りつぱな心をもつて、東亜を、そして、世界を、美しくするために、たたかつているのです。」

 この小説は、美しい島のひとつ、太平洋の中の虹島の四人の少年たちが、虹島少年報国隊をつくり、戦争のために鉄屑回収をやったり、献納された鉄製の国旗掲揚台に代えて椰子の木で国旗掲揚を果たすために努力するさまを描いています。

 最後に作者は書いています。「小説とおもはないで、自分のことだとおもつて、よんで下さい。そして、美しい國、日本を、ますますりつぱに、かがやかすやうな少年たちになつていただきたいものです。」

 「りっぱな心をもって」、「美しい國、日本」をますます立派にし、東亜を、世界を美しくするために働けと言われたことを、私たちは、まっすぐに受け入れました。そのとき、日本は中国と東南アジアで醜い戦争をおこなっており、やがては自分たちの「美しい国」も焦土と化すところに進んでいくのでした。しかし、私たちはそのことがわかりませんでした。

 戦争が終わったとき、私たちは、少年向けの雑誌で、こんどは、戦争に負けたが、日本は誇りをうしなってはいけないというよびかけを受け取りました。『少年倶楽部』の8月・9月合併号で佐藤一英は、日露戦争のさいの乃木大将とステッセル将軍の会見を歌った歌を引き合いに出して、次のように訴えていました。

 「『昨日の敵は今日の友』といふ文句は、とくに父の心をゆさぶった。進駐してくるアメリカ兵を、日本国民はみな、この歌の文句のやうな心持で迎へたいと思ふ。そして、日本本土へあがったアメリカ兵が、ああ美しい日本、ああ美しい日本人、とさけぶやうにしたいものである。さらに日本人の「まこと」にふれ、すぐれた歌を知り、言葉の美しさを、よく識ってもらうやうにいたしたいものである。」

 私たちは、この言葉もまっすぐに受け入れました。敗戦後の日本には、醜いところがあふれてきました。その中で、私たちは、日本を「美しい国」にするために努力し始めました。そのような戦後の日本人の努力の中心には、天皇が九月四日の勅語でよびかけられた「平和国家の確立」ということがあり、新憲法がありました。

 安倍さんは、「美しい国へ」という表題を掲げることにより、これまでの日本は「美しい国」を求める気持ちをもっていなかったのではないか、これからご自分が「美しい国」を求める政治をはじめるのだとお考えになっているのではないか、と感じます。しかし、戦後の日本人は「美しい国」を求めてきましたし、それをつくってもきたのです。ですから、議論をするなら、「美しい国」とは何かを論じなければならないはずです。

 

 闘う政治家

 安倍さんは、この本の「はじめに」の中で、ご自身の14年間の政治活動の基本が「闘う政治家」として貫くことにあると述べておられます。安倍さんの定義によれば、「闘う政治家とは、「ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家」だとのことです。

 確かに政治家は自分の信念に忠実に、国家、国民のために最善と信じる努力を貫く人でなければなりません。しかし、問題は、何が国家、国民のために最善かということを見極めるところにあります。その判断を誤れば、闘いは国民の願いと利益を裏切る独善の行為に堕してしまうのです。

 この点で、安倍さんは、本書の第一章「わたしの原点」の中で、祖父について語り、まさに国会内外の反対運動に抗して、安保条約改訂を実現した「祖父」の中に闘う政治家の基本的な姿を見いだしておられます。

 「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった。」

 この文章を読んで、安倍さんの母上が父について書いておられる文章を思い出しました。

 「この時期の父を見ておりまして、政治家は自分の信念を持つことが大切であり、国のためを思えば、当初はどんなに反対があろうと、のちにはわかってもらえるという確固たる信念に従って行動しなければならないということを、強く感じました。父はいろいろな話の端々にも、ほんとうに日本のことを心配している、まず国家ということを第一に考える、それがつねに感じられるような人でした。」(安倍洋子『わたしの安倍晋太郎――岸信介の娘として』ネスコ、1992年、89頁)

 お二人の考えは一致しています。安倍さんの祖父、母上にとっての父、岸信介氏は、たしかに「闘う政治家」でありました。あの1960年5月19日の安保新条約批准案の衆議院強行採決のあと、爆発した国民的倒閣運動の渦中の中で、岸首相はその国民の声と闘っていました。安保新条約は自然成立することが明らかになっていました。この局面で岸首相が固執したのは、アイゼンハワー米大統領の訪日を実現するために、国民のデモを抑え込むことでした。それには、自衛隊を出動させるしかなかったのです。岸首相は、自衛隊の治安出動を赤城宗徳防衛庁長官に求めました。しかし、赤城長官は自衛隊の三幕僚長とともに出動に反対しました。結局、岸首相は国民の声に圧倒され、米大統領の訪日中止を決定し、首相辞任を決断されたのです。これは闘う政治家の敗北ですが、国民にとって、国家にとっては、実に望ましい帰結でした。自衛隊の出動、自衛隊と国民運動との衝突はかぎりない不幸を日本という国にもたらしたでしょう。国民は、結果として、新安保条約を受け入れましたが、岸首相の政治は拒否したのです。その結果、岸首相の考えていた憲法改正の道は閉ざされました。戦後日本の国のかたちは、憲法のもと専守防衛の自衛隊があり、さらに新安保条約があって、基本的に非軍事的な社会発展の道を進むというものになりました。

 さて、安倍さんは、この第一章「わたしの原点」の中で、父について述べるところでは、父晋太郎と名を呼んでおられますが、「祖父」については、岸信介という名前を一度もあげておられません。しかし、人間誰しも、父は一人しかいませんが、祖父は二人いるのです。岸信介氏は母方の祖父です。では父方の祖父はどこに消えたのかと、本を読み進めますと、第7章「教育の再生」の中の「『家族、このすばらしきもの』という価値観」という節の中で、家庭が離婚によってこわれて、子供が苦しむということの事例として、安倍晋太郎氏の父安倍寛氏のことが3行書かれているのに、ぶつかりました。「戦時中、翼賛選挙に抗して軍部の弾圧をうけながら代議士を続けた」とあります。となれば、まさにこのもう一人の祖父もまぎれもなく「闘う政治家」でしょう。どうして、安倍さんの頭の中には、岸信介氏だけがモデルとして入っているのだろうかと、考えざるをえなくなりました。

 安倍寛氏は明治27年(1894年)に山口県に生まれました。岸信介氏より2年先輩です。大正10年(1921年)東京帝大法学部を卒業し、官僚の道に進まず、東京で事業をはじめたようです。数年後に結婚し、晋太郎氏が生まれると直後に離婚し、以後終生独身を通したと知られています。昭和3年(1928年)に普通選挙法が施行され、最初の衆議院選挙が行われると、立候補して、落選しています。それから5年後、昭和8年(1933年)に、故郷の日置村の村長になり、生涯この職にありつづけたのです。その職にありながら、昭和12年(1937年)の総選挙に無所属で立候補し、当選しました。このとき、初当選した仲間が赤城宗徳、三木武夫氏らでした。東条内閣のもとで、「大東亜戦争」がはじめられた翌年、昭和17年(1942年)には、翼賛選挙に無所属、非推薦で立候補し、激しい選挙干渉をうけながら当選したのです。このとき岸信介氏は東条内閣の商工大臣に在職のまま、翼賛推薦候補となり、山口県でトップ当選をはたしました。つまり安倍さんの二人の祖父は同じ選挙区で選挙を闘ったのです。

 安倍氏の方は、当選後は、三木武夫氏とともに、国政研究会を組織し、東条内閣の戦争政策を批判するようになりました。昭和18年(1943年)には、元法相塩野季彦氏を囲む木曜会で活動し、東条内閣の退陣を求め、戦争反対、戦争終結の運動を起こしました。

 まことに安倍寛氏の政治活動は闘う政治家と呼ぶにふさわしいものでした。山口県では、安倍氏は「昭和の吉田松陰」と呼ばれていたというのも、理解できます。戦後の日本は安倍寛氏の闘いから生まれてきたと言ってもよく、その時は孤立していても、国民から将来において支持と感謝をうる闘いでした。戦争がおわって、安倍氏は日本進歩党に加わり、新しい選挙を準備しているとき、昭和21年(1946年)1月、52歳で急死されました。このとき、岸信介氏の方はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンの中にあったのです。

 安倍寛氏は、息子の安倍晋太郎氏がまだ東大生のときに死んでしまったのです。安倍晋三さんが生まれるはるか以前のことなのですから、この祖父について、安倍さんがあまり親近感を持ち得ないのも分かります。しかし、ことは政治の問題です。このような二人の「闘う政治家」を祖父にもった以上は、今日の日本に生きる政治家として、日本の歴史を引き受けるさいには、決してどちらの祖父も無関係な者として切り捨ててはならないのです。安倍寛氏の歴史は岸信介氏の歴史とともに、われわれを形作っているのです。そのことに直面し、考え抜くことが若い政治家としての安倍さんにとって必要ではないかと考えます。岸信介さんの闘いだけをモデルにするのでは、今日の日本の政治を担うのには明らかに不足するところがあるといわざるをえません。

 

 政治家としての活動をふりかえて

 第二章「自立する国家」では、ご自分の政治活動について、小泉訪朝以後の拉致問題へのとりくみから書き始めておられます。しかし、それは安倍さんの14年の政治家生活のうち、最近の4年間を占めているだけです。安倍さんが政治家になられてからの最初の10年間の活動について、もうすこしご説明になり、ご検討になることが必要だと思います。

 安倍さんは昭和29年(1954年)9月21日のお生まれです。1977年成蹊大学法学部を卒業して、その後2年間南カリフォルニア大学に留学し、神戸製鋼に入社されました。1982年父の安倍晋太郎氏が外務大臣になると、その秘書官となり、86年には自民党総務会長秘書、87年には幹事長秘書となりました。91年には父の死をうけて、後継者となり、93年衆議院議員に初当選されたのです。この初当選したときの選挙で、自民党は議席の過半数を失い、1955年から38年間にぎっていた政権の座を譲り渡し、野党に転落したのです。安倍さんは野党自民党の議員として、国会議事堂の門をくぐることになったのです。時はまさに細川内閣の新時代でした。

 細川内閣のもとで、エリツィン大統領の日本訪問が実現します。10月4日、エリツィン大統領は議会側がたてたもるホワイト・ハウスを砲撃し、屈服させ、その上で、10月11日訪日することを発表しました。野党である自民党は、細川内閣の進めるエリツィン訪日を批判します。議会を砲撃するのはけしからんという主張です。もちろんそのかぎりでは当然の批判です。10月6日の自民党外交部会では、国賓として歓迎するのはおかしい、党として抗議声明を出せという声があがります。10月7日三塚派の総会で、三塚氏も批判的な意見を述べましたが、この席で、もっとも強硬な意見を述べたのが一年生議員の安倍氏でした。

 「大統領のとった手段は容認できない。事件を指揮した大統領が天皇と会い、握手するのか。自民党議員は歓迎の席には欠席してほしい。」

 これが安倍さんの発言が朝日新聞にのった最初です。エリツィン大統領はシベリア抑留被害者にも謝罪したし、4島について交渉する原則ももりこんだ東京宣言も出しました。訪日は意味あるものと評価されることとなり、安倍さんの振り上げたこぶしも静かにおろされることになりました。

 ついで、安倍さんは、細川首相の侵略戦争認識に反対する運動に参加されました。自民党の靖国関係三協議会は1993年8月に「歴史・検討委員会」(委員長山中貞則、事務局長板垣正)を設置していました。安倍さんはこの委員会に加わったのです。この委員会で江藤淳氏が講演して、細川首相の侵略戦争発言を批判すると、安倍さんは質問に立って、天皇陛下が訪米のさい、真珠湾攻撃で沈没したアリゾナ号記念館に献花されると報道されたことに反撥を表明しています。

 村山内閣が成立し、危機意識がますます高まる中で、1994年12月1日に自由民主党議員の終戦五十周年国会議員連盟が結成されます。この連盟の役員は会長が奧野誠亮、幹事長が村上正邦、事務局長は板垣正ですが、安倍さんは事務局次長となり、四役の一人となったのです。この議連の結成趣意書によれば、議連は、すぐる戦争の戦死者について、「昭和の国難に直面し、日本の自存自衛とアジアの平和を願って尊い生命を捧げられた」と述べて、戦争を肯定する立場に立ち、戦後処理は終わっていると強調して、「先の大戦について、・・・後世に歴史的禍根を残すような国会決議を行うことは、決して容認できるものでは」ないと、それを阻止することを目指していました。

 この議連は、終戦五十年の決議の中には「反省」も「謝罪」も入れることは許さないという立場で行動しましたが、1995年6月9日、衆議院は自民党、社会党、さきがけ三党の支持により、「歴史を教訓に平和への決意を明らかにする決議」を採択しました。決議は、日本も「侵略的行為」「植民地支配」によってアジア諸国民に苦痛を与えたことを認識し、「深い反省の念を表明する」と述べています。奧野議連は前日の6月8日記者会見を開いて、決議案に反対の意志を表明し、幹部たちは本会議を欠席しました。安倍さんも欠席された一人です。

 このように戦後五〇年の国会決議に反対する活動をなさった安倍さんは、その年8月15日、村山首相が閣議決定にもとづいて発表した村山談話に対して、どのような態度をとられたのでしょうか。周知のように、わが国は、「国策を誤り」、「植民地支配と侵略によって、・・・アジア諸国民の人々に対し多大の損害と苦痛を与えました。私は・・・痛切な反省の意を表し、心からのお詫び軒持ちを表明いたします」というこの談話は、閣議決定に基づいて出され、以後橋本、小渕、森、小泉という自民党の4代の総理によって、堅持されてきました。日本国民多数のコンセンサス、日本国家の基本認識となっているのです。

 その後1996年に「慰安婦」問題にかんする記述が中学校歴史教科書に一斉に登場すると、奧野・板垣・村上氏らは「明るい日本国会議員連盟」を結成し、この記述に反対する活動を開始しました。安倍さんもこの議連の幹事の一人となりました。しかし、老人たちはもはや積極的な活動はできず、1997年2月27日には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が生まれ、活動を引き継ぐことになりました。この会の代表が中川昭一氏で、安倍さんは事務局長をつとめられました。

 安倍さんは、この「若手議員の会」の活動報告『歴史教科書への疑問』(展転社、平成9年))に一文をよせていますが、そこには次のように書かれています。

 「軍、政府による強制連行の事実を示す資料は、二次にわたる政府調査、各民間団体の執拗な調査によっても、まったく発見されなかったこと(調査の責任者であった石原前官房副長官も明確に証言、吉見教授もその事は認めている)、従軍慰安婦騒動のきっかけを作った吉田清治氏の済州島での慰安婦狩り証言とその著書・・・{は}まったくのでっち上げであることが解りました。平成五年八月四日の河野官房長官談話は、当時の作られた日韓両国の雰囲気の中で、事実より外交上の問題を優先し、また、証言一六人の聞き取り調査を、何の裏付けも取っていないのにもかかわらず、軍の関与、官憲等の直接な加担があったと認め、発表されたものであることも判明しました。教科書採択権を持つ各地の教育委員会は、左翼的な教師に採択の実体をゆだねており、結果として、そうした教科書のみ学校で使われることになっているということも明らかになりました。

 私は、小中学校の歴史教育のあるべき姿は、自身が生まれた郷土と国家に、その文化と歴史に,共感と健全な自負を持てるということだと思います。日本の前途を託す若者への歴史教育は、作られた、ねじ曲げられた逸聞を教える教育であってはならないという信念から、今後の活動に尽力してゆきたいと思います。」

 慰安所の設置と経営、慰安婦の輸送と分配に軍が関与したことは文書的に確証された事実であり、植民地朝鮮、台湾での慰安婦の獲得について、官憲の加担があったという証言は信頼しうるものと認められています。インドネシアでのオランダ人女子の場合、強制されて慰安所に送られた事例が多く確認されており、フィリピンや中国では前線の部隊による女子拉致、監禁、継続レイプが広くおこなわれたことも確認されています。河野官房長官談話は政府が堅持するものであり、その河野談話に立脚して政府はアジア女性基金を設置し、これらの被害者に対する償いの事業を国民と協力して進めました。1996年より2004年まで、橋本、小渕、森、小泉の4代の総理大臣は一人一人の被害者にお詫びの手紙を送られてきたのです。安倍さんの当時のお考えからすると、日本政府の事業を批判するということになったのでしょうか。

 安倍さんは2001年1月森内閣の官房副長官に就任したため、それまでの議連活動をすべてストップすることになりました。しかし、こんどは官房副長官として、拉致問題にかかわるようになりました。2002年2月半ばから、くりかえし、外務省が拉致問題を北朝鮮との交渉でとりあげず、弱腰であったと公然と非難することをはじめました。安倍さんの存在が広く国民に意識された最初であったと思います。

 まさにそのとき、小泉首相の意をうけた外務省のアジア太洋州局長田中均氏の北朝鮮側との秘密交渉がはじまっていました。その交渉は外務省の中でも数人の幹部しか知らされていませんでしたが、官邸の中でも、小泉首相、福田官房長官、そして古川官房副長官の合意で進められ、ついにもう一人の官房副長官である安倍さんには明かされないままでした。小泉首相は、拉致問題で外務省の弱腰を非難している安倍さんに知らせたら、秘密交渉がなりたたなくなると考えたのでしょう。やむをえないことであったと思います。

 知られているところでは、小泉首相がアメリカのアーミテージ国務副長官に北朝鮮訪問の決断をはじめて伝えたのが、8月27日です。そして首相の北朝鮮行きは8月30日に福田官房長官から発表になりました。当然ながら、この前には安倍さんにも説明があったのでしょう。説明をうけた安倍さんはこの首相の行動を当然ながら支持されたのだと思います。というのは、小泉首相の平壌訪問に安倍さんが同行されることになるからです。新聞では、安倍さんを含めた関係者の打ち合わせ会議が9月15日に開かれたことが報道されています。基本的な意志統一がそこではかられました。そこで9月17日の当日となるのです。

 しかし、読売新聞の報道では、安倍さんが、日朝平壌宣言の骨子をはじめて見せられたのは、平壌へ向かう政府専用機の中でであったとされています(読売新聞社政治部『外交を喧嘩にした男』新潮社)。安倍さんは「謝罪のくだりなどは、日韓基本条約より踏み込んでいるのではないか」と問題提起したが、うけいれられなかったという話です。これは本当にそうなのでしょうか。そこまで安倍さんに知らさない方針だとしたら、小泉首相はなぜ安倍さんに平壌への同行を求めたのか、疑問がおこります。

 しかし、いずれにしても、安倍さんは小泉首相の平壌訪問に同行され、一緒に金正日国防委員会委員長と会談しました。そして、午前と午後の会談の間に、金委員長が拉致問題で謝罪しなければ、平壌宣言への調印はとりやめて帰りましょうと進言されたとのことですが、午後の会談で金正日委員長よりはっきりと謝罪がなされた結果、代表団の一致した意志にもとづいて、小泉首相は金委員長と早期国交正常化の実現を約束する日朝平壌宣言に署名されたわけです。

 そこにいたる経過については、安倍さんにはいろいろな感慨がおありだと拝察しますが、ともかくも、安倍さんが内閣官房副長官として、小泉首相を補佐して、日朝平壌宣言を取り結んだという事実は動かしがたいことです。帰国後にも日朝平壌宣言締結の経過に対しては、不満、不支持を表明して、官房副長官の職を辞することもありませんでした。したがって、安倍さんは日朝平壌宣言を支持し、その実現をはかる義務をもっておられるお立場だと考えます。その後の安倍さんの「圧力」一本槍のご活動をみるとき、その点がどうなっているのか、わかりにくいのです。

 

 どうしてもいまうかがいたいこと

 以上のように、安倍さんのこれまでの活動を想起するとき、どうしてもうかがいたいことがでてくるのです。これだけは、はっきりしていただきたいと思うことです。

 第一は、安倍さんは、総理におなりになったら、村山談話を堅持すると誓約されますか。

 第二に、安倍さんは、総理におなりになったら、慰安婦問題での河野談話を堅持され、歴代総理が署名された慰安婦被害者に対する「お詫びの手紙」の精神を継承されますか。

 第三に、安倍さんは、総理におなりなったら、日朝平壌宣言を堅持されますか。

 もし安倍さんが総理になって、このような日本国家の基本方針を改められることになれば、国家は混乱します。アジア諸国は、日本に対して決定的な不信をいだくことになり、国際関係がゆがみます。日本の国益は深く傷つけられるでしょう。そのような事態はぜひとも避けていただきたいと思います。

 安倍さんが、「闘う政治家」という者はこのような日本政府の基本方針を破棄するために闘う者であるというふうにお考えならば、総理になられる前に、国民に対してその旨をはっきり表明し、国民の支持をもとめられるべきでしょう。

 

 ふたたび「美しい国」について

 私は、村山談話というコンセンサスをもつことによって、日本は「美しい国」に近づいたと考えています。河野談話も同様です。日朝平壌宣言も同様です。過ちを認めることからにげずに、隣人に与えた損害と苦痛をきっぱりと詫びるいさぎよさを示すことは、個人としても、国民、国家としても、同じく「美しさ」をとりもどす道ではないでしょうか。そうしてこそ、自信と誇りがもてるのです。そうしてこそ自国民が受けた不当な人権侵害についても堂々と主張していけるのです。アジアの諸国民と、世界の人々と手をとって、未来に向けて前進できるのです。これからの世代に希望の道を開くことができるのです。




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