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京郷新聞 チェルノブイリ事故25周年とフクシマ  2011年5月2日掲載

 東北大地震の中に生きて、福島第一原子力発電所の事故に苦しんでいる私たちは、4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故25周年の記念日を迎えた。つまりチェルノブイリから25年たって、フクシマが起こったということである。

 チェルノブイリの事故は、ソ連で開発された黒鉛減速炉型(RBMK型)の原子力発電所の事故で、この型の特徴は格納容器がないことである。この発電所には4基の炉があった。その内の4号炉で、定期検査のため運転を止める間に発電の実験を行い、その後緊急停止をしようとしたところ、原子炉が暴走して、大爆発をおこし、大量の放射能を大気中に噴き上げたのである。燃えている4号炉は死に物狂いの努力で、いわゆる石棺の中に封じ込められたが、この作業のために働いた人々の中から多くの死者が出た。事故直後半径30kmの地域の住民13・5万人は立ち退きを命令された。その人々の中では、とくに子どもに放射線被爆の被害が出ている。その後高い放射能が検出された周辺地域からも、27万人の人々が追加的に避難させられるにいたった。まさに黙示録的な大災害であった。

 チェルノブイリの事故はソ連の国家社会主義体制に大きな打撃を与えた。このとき、ソ連にはゴルバチョフという55歳の若い共産党書記長が登場して、「グラスノスチ」(公開性)を語りながら、経済の「ペレストロイカ」(改建、改造)を提唱しはじめていた。

 私は1987年の本、『私の見たペレストロイカ』で、チェルノブイリ事故がゴルバチョフ政治の「決定的な転機」となったと指摘したのだが、2006年に公刊されたゴルバチョフ時代の政治局議事録によると、そのことがまさに裏付けられる。

 事故がおこって共産党政治局が特別協議会を開いたのは、3日後の4月29日のことである。その会のまとめとして、ゴルバチョフは、放射能の源泉を封じ込めることが主要な課題だとして、ルイシコフ首相を中心とする作業グループを設置する、「住民との工作では誠実さと情報開示がなければならない」、「破局を導いた原因を調査する」と指摘した。5月14日、事故から18日目にゴルバチョフはテレビを通じて、事故の状況とそれに対する政府の措置に付いて語った。その演説は精細のあるものとは言えなかったが、その演説のあとの5月22日の政治局でゴルバチョフは怒っていた。「われわれは慣れと驚くべき無責任さにぶつかっている。」「われわれはいま自国の人民のコントロール、全世界のコントロールのもとに置かれているのだ。起こったことはすべての人に関わっている。自分の直接の技術的義務を越えて広く見ることができないお役所心理の結果にぶつかっている。万人が知るべきだ。無責任で、いい加減であった者は絶対に容赦されないということを。どんなことからも逃げるつもりはない。楽勝を自慢するような態度は粉砕しなければならない。何が起こっているか、全世界につつみかくさず語らなければならない。」ゴルバチョフは原子力学の権威で、クルチャートフ原子力研究所所長、かつ科学アカデミー総裁のアレクサンドロフの名をあげ、この研究所の「危険な独占」を指摘した。 6月5日にもゴルバチョフはまた発言した。「チェルノブイリは万人に関わる。すべての大臣、すべての中央委員、中央委員会の全職員に関わっている。」「現に稼働中のものは最大限の安全性が確保されねばならない。原発のことを人民と話すのを避けてはならない。甘いことを言わず、隠さずに話すべきだ。」

 そうして、6月16日の共産党中央委員総会で、彼はチェルノブイリ事故を語った上で、「経済の局面だけでなく、全社会の深刻なペレストロイカ」が必要であると新しい戦略を打ち出したのであった。

 チェルノブイリ事故原因調査政府委員会の報告が政治局で検討されたのは、7月3日のことであった。委員会はRBMK型の炉が危険であった、事故の原因はそこにあると結論を報告した。政治局の討論はどうしてそのような危険な炉で原子力発電所をつくりつづけてきたのかに集中した。ゴルバチョフは言った。「われわれは30年あなた方(学者専門家と大臣たち)からすべては安全だと聞かされてきた。あなた方はわれわれがあなた方を神とあがめることを期待した。このことからすべてが起こったのだ。なぜならすべての関係省庁と研究機関はコントロールの外におかれたからだ。結果は破局だった。いまにいたっても、あなた方は結論について考えている様子がない。なによりも事実を確認すべきなのに、あれこれごまかそうとしている。」

 7月31日、ゴルバチョフはハバロフスクで演説し、ペレストロイカは「革命」であると言い切った。チェルノブイリの事故に直面して、ゴルバチョフは精神の革命を求めた、それを通じて社会全体のペレストロイカ、革命的改革を追求したのである。東北大震災、フクシマ事故に直面した日本の政府と国民はまだそのような反省、精神の革命を求める動きにいたっていないことが感じられる。 ソ連では、事故の原因については、格納容器のない原子力発電所の型が問題にされた。チェルノブイリ事故以後、一時高まった原子力発電所批判の声が後退し、最近では原子力ルネッサンスともいうべき原子力発電ブームがおこった。ソ連の型はあまりに古く、安全でない。西欧の型は新式で、安全だということがこの背景にある。しかし、格納容器のある新型の炉がフクシマで水素爆発をおこしたのである。 いまチェルノブイリ当時のソ連の指導部の議論の中で、ゴルバチョフが、原子力学者と関係省庁とが批判を許さぬ独立王国をきずき、安全神話で人々の意識を支配してきたことを告発しているのを読むと、問題の根が、体制の違いを超えて同一である、永遠であることを感じる。

 私たちの社会では、原子力学者と関係省庁が電力会社と結びついている。政府におかれた原子力安全委員会には原子力学者が集まっている。委員長は斑目(まだらめ)春樹東京大学教授である。斑目氏は大学に移る前は東芝の原子力部の社員だった。原子力安全保安院は経済産業省に属している。寺坂信昭院長は官僚である。経済産業省からは東京電力に次官が天下りする。原子力発電所の安全性をコントロールする二つの組織は原子力発電所が安全だということを宣伝する組織だった。斑目氏はなんども反対派の原子力発電所稼働停止をもとめる訴訟で、電力会社側の証人として活躍してきた人である。このたびの事故で、原子力安全委員会は事故当日集まることもできず、フクシマの現地にメンバーが派遣されたのも一週間以上もあとであったということが暴露されている。

 チェルノブイリ事故のさい、クルチャトフ原子力研究所の第一副所長であって、事故を収束させるために現地にはりついたレスガフトという人物がいる。まぎれもなくソ連の原子力マフィアの一員であった人である。この人が事故対策の現場ではたらき、二年後に自殺した。事故発生から二年と一日目の1988年4月27日のことであった。前日は2周年の日であったが、共産党機関紙『プラウダ』にはチェルノブイリ事故について一行の記事もなかった。あるいはそれを見て、彼は自殺したのか知れない。チェルノブイリの現場で陣頭指揮をしていた彼は高濃度の放射能を浴びていた。死を覚悟していた彼は死ぬ場所、死ぬ時を待っていたのだろう。『プラウダ』は4月30日彼の死を報じた。そして、翌月の20日に彼の遺稿「このことについて語る私の責務」を二面にわたり掲載した。 その文章は、事故当日からはじまっている。彼は属している省の共産党会議に出ていた。わが省では万事順調だという報告に馴れっこになっていたが、この報告は特に勝利の戦闘報告に似て、原子力産業・原子力学に賛歌をうたうものだったと書いている。報告の終わりでチェルノブイリ事故の話がされた。どこかの誰かがへまをやらかしたが、原子力の前進はとまらないというように結ばれた。会議のあと、レスガフトは電話で召集されて、空港へ行き、キーエフへ飛んだ。空港から事故の町へ向かう間、自分には、この事故が「地球規模の事件」、ポンペイの壊滅のような「人類史にのこる事件」となるとは思いつかなかったと認めている。プリピャチの町について、彼は事故収拾対策チームの責任者になった。 「チェルノブイリ原子力発電所に到着してから、私ははっきりとある結論に到達した。チェルノブイリ事故はわが国において数十年来とられてきた間違った経営のやり方のフィナーレ、そのすべての到達点であると。もちろん、チェルノブイリで起こったことには、抽象的でなく、具体的な責任者たちがいる。われわれはいまではすでに知っている。この炉の保護管理システムには欠陥があり、少なからぬ研究者にはわかっていたから、彼等はその欠陥を除去する提案をおこなったのだと。しかし、建設責任者は、急いで追加工事をするのをいやがり、保護管理システムを変えることを急がなかった。」

 彼はすでに警告していたことの結果生じた事故と闘った。そうして責任をとったのである。回想には、チェルノブイリの事故の収束のために闘った人々の追憶が述べられている。「私自身何度か4号炉のかなり危険な区域に入った。私は人々にこれから働くところの条件を説明し、進んで私を助けてくれる人と働きたいと言った。そういうとき、隊列をはなれ、前に進まなかった者は誰一人としていなかった。」「悲劇性がすべの出来事の基本的な背景であった。しかし、ある種の高揚した気分が生まれたのは、人々があのように働いてくれたこと、われわれの依頼にあんなにすばやく反応してくれたこと、さまざまな技術的なやり方があんなにすばやく試されたことのためである。」

 本年の4月26日チェルノブイリ25周年の記念の式典ではフクシマのことが語られた。チェルノブイリで事故収束のために働いた労働者の一人が日本のテレビに向かって、「フクシマで闘っている人々はわれわれの兄弟だ。がんばってほしい」と述べた。人類は二つの原子力発電所の事故の教訓を生かさなければならない。



京郷新聞 月例コラム  2011年4月5日掲載

 2011年3月11日、東北大震災がおこってから、3週間が経過した。地震はあまりに巨大なものであった。マグニチュード9.0の地震のエネルギーは関東大震災の三〇倍だとされ、断層は東北から関東への六〇〇キロにわたっておこり、一〇〇〇年に一度の巨大な津波をおこした。東北の太平洋岸の町は完全に潰滅し、死者の数はいまや三万人に近づいている。福島第一原子力発電所はスリーマイル島事故を越える史上第二の深刻な事故を発生させた。

 この巨大な災害を経験した私たちは、大きな精神の革命をおこして、あたらしい協力と共生の精神をもって、過去の欠陥、誤りをすべて明らかにし、ゆるぎない基礎の上に新しい人間の社会と暮らしを再建しなければならない。これは日本人だけの問題でなく、東北アジアのすべての人々の問題であり、全人類の問題である。

 このたびの事態の中で人々がまず考えたことは、これほどの津波は予想をこえたものであったというのは正しいのかということである。被害をうけた東北三陸海岸は津波の被害を何度も受けてきた地域である。1896年の明治三陸地震では死者2万1959人、1933年の昭和三陸地震では死者3064人を出している。だから、津波の被害への備えは悲痛なほどに真剣なものであった。宮古市の高さ10メートルの堤防はその象徴であり、宮古市民の誇りでもあった。防災のための避難訓練もくりかえしおこなわれ、今回の震災の数日前に行われたところもあった。だが、津波は宮古のその堤防をもうち砕いた。避難訓練のさいに避難場所と考えられたビルは最上階まで津波に洗われた。まさに人々の予想をこえた巨大な津波であった。

 だが、深刻な津波をともなう大地震の危険性を検証し、警告していた学者は存在していたのだ。東北大学理学研究科の箕浦(みのうら)幸治教授は1991年に最初に発表した研究をまとめて、2001年6月30日、東北大学の広報誌『まなびの杜』16号に「津波災害は繰り返す」という一文を発表していた。西暦869年におこった貞観地震・貞観津波について、文献と伝承の研究の上に仙台平野の地層発掘により、貞観津波がもたらしたと考えられる厚さ数センチの砂の層が広範囲に分布していることが明らかになった、つまり仙台平野は津波で水浸しになった、内陸の多賀城の遺跡から津波災害の跡が発掘されたことを指摘し、さらに災害制御研究センターの今村文彦氏との共同の解析により、仙台平野の海岸には9メートルに達する波が7,8分間隔でくりかえし襲ったと推定されるとの結論をえたことを報告した。さらに堆積物の調査から過去300年間に3度の津波がおそったことを推測し、「貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、仙台湾で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」と結論していたのである。

 この警告がどのように知らされ、広められたのか、それがどのように受け取られ、考慮されたのか、無視されたのか、このことが明らかにされなければならない。

 周知のように、三陸の女川町には東北電力の女川原子力発電所3基がある。外海に突き出ている岬の上に位置しているこの発電所はこのたびの大震災に堪えた。2号機の建屋の地下に浸水があり、1号機のタービン建屋の地下で火災が発生したが、外部電力が確保され、原発停止後の冷却はスムーズに行われていたのである。湾の奥の女川町が潰滅したことを思えば、これは奇跡であった。この原発のホームページには、原発の「主要な建物は津波対策として海抜15mの場所(過去に経験した最大級の津波のおおよそ倍の高さ)に設置するとともに、地震対策として建築基準法の3倍の地震力に耐えるように設計されております」と書かれていた。東北電力の関係者が2007年の防災セミナーで行った発表によれば、1984年に1号機が建設された女川原発は慶長津波(1611年)を前提として、それに堪えるように設計されたとのことである。つまり、貞観地震津波は前提にされていなかった。そして、今回の震災では、湾内の津波の高さは17.6mに達していたのである。湾口の岬の上の原発が津波に直撃されなかったのは、間一髪の僥倖であったと考えられる。そして、女川原発が事故をおこせば、宮城県が潰滅的な打撃をうけ、東北全体が再起不能の大混乱に陥ったであろう。思えば恐ろしいことであった。

 さて貞観地震津波については、東北大学の他に東京の独立行政法人産業技術総合研究所のチームが2005年から研究に取り組み、この地震がM8以上の地震で、津波は宮城県と福島県において、当時の海岸線から3−4kmの内陸まで浸水していたことを明らかにし、同規模の津波が450−800年程度の間隔で繰り返して起こっている、近い将来に再び起こる可能性が否定できないとする報告を2009年にまとめていた。この結果がこの年の経済産業省で行われた原発各社の耐震性再評価の中間報告書の検討審議会で、この研究所の活断層・地震研究センター長、岡村行信氏より提起された。しかし、当初はこの地震にふれることのなかった東京電力側は後に提出した報告案では、「(貞観地震と同規模の揺れは)想定内」だと逃げたという。審議会事務局も「最終報告書で検討する」という形で対応を回避したといわれる(『毎日新聞』3月27日)。この真相は全面的な検証を必要としている。研究グループの宍倉(ししくら)正展氏は福島県とこの予測について話し合いをすることが予定されていたまさにそのときにこのたびの震災がおこったとテレビで嘆いていた(3月31日6チャンネルNEWS23クロス)。

 福島原発は海辺の埋め立て地に建設された。海抜は10m、想定された津波の高さは5.7mであったとして、14mの津波が来たので、冠水したといわれるが、このあたりはまったくあいまいである。いずれにしても、非常用発電装置は各原発号機に2つづつ設置されていたが、そのための燃料タンクは一つで、敷地のもっとも海よりの端にあって、ほんの低い津波で一度にさらわれてしまったのである。

 東京電力は新潟中越地震による柏崎原発の事故をめぐって、事故を隠したことがよく知られている。原子力発電は自然界に自然に存在する現象によって発電するのではなく、自然界にはない核分裂を人為的にひきおこし、発電するもので、廃棄物も自然にもどすことのできないものである。そして事故は大きな被害をもたらすことになる。反対運動が持続しており、原発是非の議論が深刻化するのも当然である。自然とともに生きる人間の社会にとっては、原発はやはり臨時の応急策とみるべきであろう。原発をめぐる原理的な議論を持続可能な別の発電方式の開発とともにつづけながら、存在する原発の安全性をめざす方策についてもっとも厳しい努力をはらわなければならない。原発関係者は原発の安全性を言い立てるのが常であった。原発擁護の学者たちが原子力委員会、原子力安全委員会をにぎって、原発批判の議論をおさえこむ努力をはらってきた。原子力安全委員会の委員長斑目(まだらめ)春樹氏は元東京大学教授だが、いま批判を浴びている。他方、原発批判者の側は原理的否定論に立つ故に、安全性の問題に対する取り組みが十分でなかったといううらみあるのではないであろうか。

 いまは新しい考えで、すべての原発を検証し、安全性に不安のあるものは閉鎖に向かわねばならない。ここで考えなければならないのは、1976年に駿河湾の地震が予言され、東海地震に備える体制が法制化され、35年が経過していることである。いまはそれにくわえて、東南海・南海地震も予告されている。予告を軽視することはもはやできない。

 巨大な大震災に打撃をうけ、そしてさらなる大震災に備えつつ、あたらしいくらしと社会を求めていくことは、真の精神革命を必要とする。経済の面でも革命的な変化がのぞまれるだろう。そのために人間的なリソースを集中して行かなければならない。隣国の精神的、知的、物質的力を借りなければならないし、地域の協力が何よりも必要である。とするならば、国際関係の面で対立をなくし、懸案問題の解決を急がなければならない。

 このたびの震災にさいして、米国、韓国、中国、ロシアが大きな援助をしてくれている。ありがたいことである。それに加えて、北朝鮮も、3月25日には赤十字社あてに800万円の見舞金を送ってくれ、また在日朝鮮人には4000万円を送ってくれた。阪神淡路大地震、新潟中越地震のさいの支援につづくありがたい好意である。労働新聞も連日写真入りで報道をつづけており、原発事故も報じられている。この国に日本は制裁をおこない、貿易を禁じ、船舶の往来も許していないのである。また北朝鮮の行動の故に在日朝鮮人の教育施設、朝鮮高校への無償化措置の適用も見送ってもいる。こういうことはやめて、無条件で北朝鮮と国交を樹立して、拉致のことも、核兵器のことも交渉すべきなのである。

 韓国とのあいだでは、この状況の中で、検定をパスした新しい教科書が韓国民の感情を逆撫でしている。韓国側が実効支配している独島について、「竹島は固有の領土であり、韓国が不法占拠している」と教科書に書かせることにいかなる意味もない。韓国人の支持と支援に助けられているのに、このようなことをするのはあまりに愚かなことである。またロシアの新聞『モスコフスキー・コムソモーレッツ』に、日本人は気の毒だ、北方4島を日本に与えたらいいという意見が述べられたということが報道された。この温かい心に感謝しながら、私は、日本政府がこれらの島を「固有の領土」と呼んで、ロシアの「不法占拠」を言い立てるのはやめるべき時がきていると考える。中国とも尖閣諸島の問題で和解の道をもとめるべきである。

 このたびの震災で10万人の自衛隊員が出動した。彼らは兵器をおいて、シャベルをにぎり、犠牲者を捜索し、物資を運んでいる。消防団員も警官も必死の努力をしてくれている。ここに人間的な献身の姿をみる。アメリカの海兵隊員がモップをにぎって、学校の床を洗ってくれている姿も見た。ありがたいことである。



苦難起こった東北アジア  怨恨のりこえ共生へ
日本に希望を ハンギョレ=市民社会団体連帯会議共同キャンペーン

ハンギョレ 2011年3月23日

 リレー寄稿 和田春樹

 3月11日の朝、朝日新聞は一面のトップで「首相に違法献金の疑いーー104万円在日韓国人から」と報じた。この日は民主党の土肥隆一議員が韓国で竹島の領有権主張をやめるように日本政府にもとめる宣言文に署名した責任をとって、院内、党内の役職を辞任すると表明したことも報じられた。この日の衆議院予算委員会では午前から午後にかけていくども首相への在日韓国人献金問題がとりあげられて追求がなされた。私はテレビでその様子を時々見ていた。前原外相が地元の焼き肉屋経営の在日韓国人女性から25万円の献金をうけたことを追求されて、外相を辞任したのは4日前のことであった。前原氏に対する執拗な追及は彼が北朝鮮と交渉をはじめるべきだと主張したことと無関係ではなかった。たしかにわが国の政治資金規制法は外国人からの献金を禁じている。しかし、日本に住み続け、税金もおさめている、コミュニティの一員からの献金をことさらに政治家への攻撃に使おうというやり方はわれわれの心を冷やすのに十分であった。私は、本当にたえられなくなっていた。

 私たちの住む東北アジアはどうしてこのような対立心と排外主義と敵対行為がうずまく地域にとどまっているのか。昨年九月尖閣列島でおこった中国漁船船長の逮捕から日中間が緊張した。11月にメドヴェージェフ大統領がクナシリ島を訪問すると、日露間が緊張した。そして11月23日には北朝鮮の延坪島砲撃が悪夢をみせた。私は昨年から日本は北朝鮮と無条件で国交を樹立すべきだ、東北アジアの気分を変えるべきだと主張してきたが、菅政権にそのような動きをさせる期待は完全に消えたと考えなければならなくなっていた。

 まさにその瞬間に東北大地震が発生したのである。東京の私の家もたえられないほど、ながく揺れ、私は家の外にのがれた。地震は巨大なものであった。マグニチュード9.0の地震のエネルギーは関東大震災の30倍だとされ、断層は東北から関東への六〇〇キロにわたっておこり、千年に一度の巨大な津波をおこした。東北の太平洋岸の町は完全に潰滅し、2万人をこす人命が奪われた。被災後の風景はまさに原子爆弾投下後の広島長崎の光景であった。この地には二つの原子力発電所があった。北にあった女名川原子力発電所は海抜15メートルの高さに据えられていて、津波にたえたが、海面を埋め立ててつくった南の福島原発は津波で重油タンクや自家発電装置を失い、一切の冷却が不能となり、一号機、三号機、四号機が水素爆発をおこしたのである。地震と津波と原子力災害の三つが日本の東北地方に壊滅的な打撃を与えた。

 海は恵みの海、生命をはぐくむ海である。津波はその海があらわす恐るべき破壊の力である。旧約聖書ヨブ記1章21節に「主は与え、主はとられる。」という言葉がある。これは拉致被害者横田めぐみさんの母、早紀江さんが大事にしている言葉で、彼女のことを考えるとき、いつも考えてきた言葉である。自然は与え、そして奪う。その巨大な力の前に人間が考えるべきことは、人間の中の争いで、人間が苦しめあうことを減らしていかなければならないということだ。

 あの日から日本中の人々がテレビの前をはなれず、被害の恐ろしさを知り、人々の苦しみをみつめ、人々がそれに立ち向かっている姿に感動した。日本人がまず自分の国のあり方を考え直す契機をつかむべきときがきたと私は感じた。

 この苦難の中で外国人の在留者もとくに苦しい立場に立った。この人々が日本から脱出していくことは当然である。テレビで中国人の娘さんたちが日本人と泣きながら、再会を誓って帰国していく姿をみた。仙台から脱出した南基正氏の日本人避難民の仁川地域への受け入れを考えるべきだという提案も読んだ。韓国でも、中国でも、ロシアでも日本を助けようというよびかけと行動はめざましく、本当にありがたいと思っている。

 私は、東北大地震という1000年来の苦難が東北アジアの人々の心をむすびつけることを感じている。罪ある者は罪を悔い、怨みある者は怨みをのりこえて、和解し、協力して、新しい共同の家をもとめ、地球、自然との共生へ向かうことを期待する。ハンギョレ新聞がよびかけるHelp and Hope キャンペーンに心から賛同する次第である。








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