和田春樹

 日朝国交促進国民協会理事・事務局長

2020年9月12日

 8月28日、ついに安倍首相が退陣を発表した。得意の「地球儀俯瞰外交」もほぼすべて成果をあげられず、完全な行き詰まりを見せていた上に、年初以来におこったコロナ禍に対しては打つ手がことごとく国民の信頼をえられず、支持率は急激に低落し、不支持率がはるかに上回る事態となっていた。安倍首相は任期終了まで総裁、総理の職をつとめる意欲をうしなっており、そのことが体調にも反映してきたのであろう。最後の時がちかづいていた。みなが「ポスト安倍」を語りはじめた。

 この夏にいたり、安倍氏は自らの個人的宣伝雑誌『月刊Hanada』(8月発売の9月号)に「安倍総理闘争宣言」を「菅官房長官、覚悟を語る」とともにのせ、「安倍内閣のうちに、憲法改正をなんとか成し遂げたい」、「何としても安倍内閣で拉致問題を解決する決意です」と語った。「断腸の思い」、「痛恨の極み」という言葉をならべ、トランプ、習近平、文在寅らに金正恩へ自分の考えは伝えてもらっている、「安倍内閣で拉致問題を解決する」との決意はいまも変わっていないと強調した。さらに読売新聞系列の総合雑誌『中央公論』の9月号にも「総理インタビュー」が載った。橋本五郎大記者が「北朝鮮が相手だけに大変な難題ですが、何とか光明を見出さなければ」と問いかけると、安倍首相はここでも「断腸の思い」、「涙が出る思い」という言葉を繰り返したあと、トランプ、習近平、文在寅ら、「各国首脳の協力を得ながら、なんとしても結果を出したい」と言うだけであった。なにもできない、なにもするつもりがないことを認めているかのようであった。だが『中央公論』がこのインタビューに「拉致問題は任期中に結果を出したい」という虚偽のタイトルをつけたのは安倍政治の「やる気」を誇大に宣伝したのである。

 その月のおわりに、安倍首相は、持病の潰瘍性大腸炎が再発したため、やむなく退陣すると発表した。安倍政治が完全に行き詰まって、政権を投げ出したのではなく、ふたたび病気の再発で退陣を強いられた悲劇だとの印象がつくりだされた。安倍政権の支持率は20%も急上昇し、安倍政権の継続をかかげる官房長官、拉致問題担当大臣の菅義偉氏が後継者として急浮上したのである。これは一大政治詐術であった。

 安倍首相は2006年12月に誕生した。誰もが認めたように52歳のこの若い政治家が首相の座を射止めたのは、拉致問題で政治家としての力量を発揮して、小泉首相の窮地を救ったとされたからであった。安倍内閣は拉致問題解決内閣として、安倍三原則による拉致問題政策をかかげ、内閣挙げて拉致問題解決対策本部たることを決意したのである。拉致問題担当総理補佐官が任命され、塩崎官房長官が拉致問題担当大臣を兼務することになった。

 安倍三原則の第一原則は、「拉致問題はわが国の最重要課題である」というものであった。これは偽りであろう。拉致問題が重要課題だというならわからないわけではない。「最重要課題」であると言った瞬間にうそをついたことになるのである。どんな政府であれ、日本の政府なら本当の最重要課題にとりくまなければならないはずだ。コロナ禍の中でその対策のために働いているはずの安倍内閣の大臣たちは総理、官房長官以下全員が拉致問題解決のブルー・リボンを胸につけていた。逆に言えば、拉致問題のためには、リボンをつける以外のことは誰もしていなかったのである。

 安倍第二原則は、「拉致問題の解決なくして、国交正常化なし」である。これは小泉首相の日朝国交正常化政策を破棄するという宣言であった。小泉首相の方針は「国交正常化への前進なくして、拉致問題の解決なし」だった。その方針のもと、小泉首相と田中均外務省局長は2002年金正日委員長とともに国交正常化のための日朝平壌宣言を出し、拉致問題を謝罪させ、13人拉致、8人死亡、5人生存という回答をえたのである。小泉首相は5人を帰国させ、さらに2004年の第二次首脳会談で5人の家族の渡日をもみとめさせた。小泉首相の方針は日朝国交正常化という国家的課題に実現に向かって前進することによって、拉致問題の解決において決定的な成果をあげることができたのである。小泉首相の方針をすてた安倍首相が拉致問題解決のいかなる進展もなしえかったのは当然のことである。

 安倍第三原則は、「拉致被害者は全員生きている、即時全員を帰国させよ」というものである。これが致命的な原則であった。この原則は、2002年の北朝鮮側の小泉首相に対する回答、横田めぐみさんをふくめ8人は死亡している、5人だけが生存しているという回答は、死亡の証拠を出せないのだから、嘘をついているのだと非難し、死亡したという人全員を即時帰国させよと要求することであった。北朝鮮との交渉を打ち切って、最後通牒的に屈服を要求する、わが方の要求にしたがわせようとする立場だと言っていい。北朝鮮側は「死んだ人を生き返らせて返せ」というのかと反発したと言われている。

 こうして安倍三原則は、拉致問題を解決するためには、拉致犯罪をおこなった北朝鮮現体制に懲罰を与え、ついには北朝鮮の現政権を崩壊させることをめざすという方針なのである。安倍首相は2002年に拉致被害者を救う会全国協議会の指導者佐藤勝巳氏らにうながされて、彼らの考えを自分の方針としたのである。佐藤勝巳氏は2002年末に著書に次のように書いている。「『救う会』は、今後も被拉致者全員の帰国を目指して活動を続けていく。・・・金正日政権が存在する限り、拉致の解決は困難であり、金正日政権の崩壊が絶対必要条件である。」(『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』小学館文庫)。

 安倍首相が佐藤路線にしたがって三原則の拉致政策をかかげたことにより、日朝平壌宣言は凍結され、日朝国交交渉は完全に中止され、日朝交渉すらも、ストックホルム合意が結ばれ、実行された一時期をのぞいて、まったくおこなわれないままとなった。安倍政権がやれたのは、北朝鮮との貿易、船の寄港、人の往来を完全に遮断すること、国連安保理の制裁を極限まで強化すること、国際的に拉致犯罪非難の大合唱を組織すること、対北朝鮮放送をつづけ、拉致問題解決を要求すること、日本の中高校生に拉致問題に関する映画をみせて、北朝鮮を憎む心を植え付けること、在日朝鮮人とその団体に法の厳密適用というハラスメントをくわえ、幼稚園から大学まで在日朝鮮人の教育施設に差別的に一切の公費援助措置をあたえないことであった。

和田春樹著書:安倍首相は拉致問題を解決できない

 だが安倍政権は、ついに北朝鮮政権を崩壊させることはできなかった。金正日氏は病死したが、息子金正恩氏が後継して、いまや核兵器をもって、在日米軍基地にロケットの標準をあわせている。2017年の米朝戦争の危機のさい、安倍首相は「すべての選択肢がテーブルの上にある」というトランプ大統領の立場を100%支持すると繰り返し、河野克俊統合幕僚長に米軍が対北作戦をとるとき、「自衛隊がどう動くか」を検討準備させていた。いまイージス・アショア設置を断念するとして、あわてて敵基地攻撃能力をもつことを準備するとの自民党の党議をまとめた程度では、日朝間の現実の緊張に対してはとても間にあわないのである。これだけの近距離では発射されたミサイルを撃ち落とすのは難しい。ミサイルの発射に備えることは当然として、なによりもミサイルを撃たせないようにすることが第一である。そのためには唯一国交をもたない国、北朝鮮と国交を開き、関係を正常化し、協力することである。安倍氏の政策はそのことを全否定してきたのである。

 そのようにみてくれば、2019年5月3日になって、安倍首相が突如「拉致問題の解決には、わが国が主体的に取り組むことが何よりも重要です」と言い、「日朝間の相互不信の殻を打ち破るため」、「条件をつけずに金委員長と会い、率直に、また虚心坦懐に話し合ってみたい」と言い出したのは、言葉だけのジェスチャーにすぎなかったことは明らかでろう。これは、いわゆる「やってる感」を出して、人を欺く行為にほかならない。北朝鮮からいかなる答もなかったのは当然である。安倍首相が欺いたのは拉致被害者家族であり、日本国民である。

 つまり、安倍氏の拉致問題三原則、拉致政策は完全に破産しているのである。安倍氏の立場では、日朝関係の緊張緩和、日本の安全保障、日朝国交正常化、拉致問題の解決、北朝鮮の核ミサイル脅威の解消、日朝両国民の和解と協力には一歩も前進できない。安倍退陣後は新首相は、安倍政府の北朝鮮を憎む政策から離れ、小泉首相の日朝国交正常化政策にもどらなければならない。かって小泉首相は二度目の平壌訪問の行きと帰りに羽田空港で、「非正常な関係を正常な関係に、敵対関係を友好関係に、対立関係を協力関係に変えることが、両国の国益にかなう」と明言した。小泉首相のしたように、日朝国交正常化に向かってこそ拉致問題のさらなる解決は可能になるのである。

 小泉首相の平壌宣言から18年が経過した。北朝鮮は12年前に最初の核実験を行い、3年前に米国と深刻な戦争の危機に入った。そして危機を回避して、2018年には南北首脳会談、米朝首脳会談をおこない、平和プロセスに入ったとみえた。しかし、いまは米朝関係もいかなる進展もなく、南北関係さえ開城の連絡委員会ビルの爆破にみられるように険悪化している。こういうときだからこそ、日朝交渉を開き、国交正常化への歩みを再開することは、日本の過去清算のために必要であるだけでなく、日本の安全保障と東北アジアの平和のために必要である。拉致問題の解決にも必要なのだ。

 すでに田中均氏、石破茂氏は平壌、あるいは、平壌と東京に連絡事務所を開くことを提案している。いまは思い切って、無条件で国交を樹立し、平壌と東京に大使館をひらき、その上で経済協力問題、拉致問題、核ミサイル問題を三つのテーブルで同時に交渉するのが現実的だと考えられる。その程度の実利を北朝鮮にあたえなければ、日朝間の交渉も難しいだろう。無条件国交樹立にはオバマ米大統領の対キューバ外交の先例がある。オバマ氏は2014年12月、無条件で、制裁を維持したまま、キューバと国交樹立すると発表し、翌年7月国交回復を実現した。いまでは、隣国と国交をもっていないのは主要国では日本だけとなっている。オバマ大統領の決断をみならうべきときである。日朝国交樹立が実現すれば、文化交流も人道支援もただちに実行できる。文化交流の一環で、山田洋次監督の「寅さん」作品や宮崎駿監督のアニメ映画もみてもらいたいし、広島長崎の原爆被害展も開催も実現できると思う。

このページの先頭に戻る