アジア女性基金と和解のための今後の努力

ドイツ文化センター主催シンポジウム「和解への行動」にて報告
2007年7月13日






 まえがき

 私は先月韓国の元大統領金大中氏を訪問した。大統領は、最近のドイツ訪問の印象について語られた。あらためて、ドイツ人が過去を反省する努力をなお続けていることに強い印象を受けたと述べられ、どうして日本はこのようにできないのだろうかと言われた。われわれとしては、日独の違いを考えた上で、まさにいまこそドイツの経験から学ぶべきときであるように思う。

 

 ドイツと日本の戦後

 ドイツと日本の歴史は単純に類比することはできない。30年代以降のドイツと日本は同じ枢軸国であるが、ありかたは違っていた。ナチの体制下のドイツ人とユダヤ人の関係と日本軍国主義体制下の日本人と朝鮮人との関係は明らかに違っている。日本の支配は、朝鮮の国土と資源をうばい、数千万人の朝鮮人を、大東亜戦争を戦う一億の戦士の中にくりこんだものであった。同化させ、協力させることが目的であった。日本の朝鮮植民地支配はナチの支配とは性格を異にし、むしろ克服が難しい現象であると言えよう。

 さらに言えば、ドイツの敗戦と日本の敗戦はまったく性格を異にしている。ナチス・ドイツ政府は最後まで戦って、玉砕した。首都は占領され、国家元首は官邸地下室で自決した。ドイツは分割占領され、占領軍の軍政のもとにおかれた。これにひきかえ、戦争をはじめた天皇制国家は本土決戦、一億玉砕を回避して、降伏し、戦争を終えた。天皇制国家は存続し、アメリカ軍の単独占領のもとで、占領軍の指揮下に新憲法を受け入れ、戦後改革を進めた。

 日本では将軍と軍人は去ったが、天皇と官僚たちはそのまま残ったのである。大東亜戦争をはじめた内閣では、蔵相賀屋、商工相岸、農相井野、大東亜相青木は追放されたが、戦後政治に復帰し、政権党の議員となった。一人は首相となり、いま一人は法相となった。

 だから古い観念は日本社会の一部になんらの反省のないままに生き残った。日本では戦後60年のうち50年間は保守党、自由民主党が政権を独占してきたが、その党の主流は昭和の軍国主義を批判して、日中戦争、日米戦争を否定した官僚の一部を基礎にしたのに、傍流は過去のすべての戦争を肯定した官僚の別の部分を基礎にしていた。この主流と傍流の妥協の上に政権党の統治が成立したので、政権党は、過去の歴史についての統一したイメージをもつことなく、いわば歴史を無視する統治をつづけたのである。

 永久野党の社会党は議会の3分の1を占めつづけ、憲法改正の企てを阻止した。その結果、日本の社会は非軍事的に発展したのだが、社会党の歴史認識は政権党には拒まれた。メディアも大学も、出版界も社会党、共産党の歴史認識に好意的だったが、国民的な合意にはなりえなかった。

 

 日本の戦後処理 1951年――1972年

 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約において、米英オーストラリアなどの国々から賠償請求の放棄をえて、極東軍事裁判判決をうけいれるだけで、独立した。翌1952年には台湾に逃げ込んだ蒋介石政権との間に日華平和条約を結んだが、日本は賠償支払い義務があることすら認めず、役務賠償の要求を拒絶した。しかし、インドネシア、フィリピン、ビルマなどの東南アジア諸国とは賠償協定に応じざるを得ず、1950年代半ばより、賠償を経済協力という形で支払った。韓国とは1965年に日韓条約を結んだが、併合条約は最初から無効であったという韓国側の主張をみとめず、植民地支配は双方の合意で結んだ条約によって実現されたもので、韓国の独立まで条約は有効であり、植民地支配は合法だったと主張した。わずかに同じ条文を韓国側が自分の主張通りに解釈するのを黙認しただけであった。補償は一切払わず、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を行い、韓国側に請求権を永久に放棄させた。このような日本の態度が変化したのは、1972年の日中共同声明においてであり、日本は戦後27年にしてはじめて、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を感じ、深く反省する」と明記した。しかし、日本に日華平和条約を破棄させる中国としては賠償要求を放棄せざるをえなかった。

 

 変化のはじまり

 日本がこのように、自らの過去を反省する態度を打ち出さずにすますことができたのは、日本の50年来の戦争がおわった東アジア、東北アジアで共産主義者と反共主義者の30年間にわたる戦争がつづいたためである。中国の国共内戦、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争である。1972年に中国の主張を受けいれたのはこの30年戦争がおわるところに来たことと関係している。ベトナム戦争がおわった1975年以降は日本はアジアの諸国から反省を求められ、徐々に反応することが多くなった。そして、1980年代末韓国の民主化が実現すると、その韓国の主張に刺激をうけて、日本が朝鮮植民地支配を反省すべきだと主張する運動が日本国内で強まり、政府を動かしていった。その結果、1990年朝鮮植民地支配に対する反省の表明から日朝国交交渉が開始されるにいたった。さらに韓国が民主化して、女性が解放された結果、慰安婦問題が韓国で提起され、日本に突きつけられた。

 91年に金学順さんが慰安婦として名乗りを挙げて告発したことが強い印象をあたえた。92年保守本流を代表する宮沢首相は訪韓し、盧武鉉大統領に慰安婦問題での謝罪を表明した。そして、帰国後、宮沢首相は慰安婦問題の資料調査を命じた。これは戦後日本政府としては前代未聞の決断であった。大きな力が保守党内閣に日本の内外からかかっていたのである。第一回の調査結果は92年7月加藤紘一官房長官の発表とともに明らかにされた。軍の関与ということが認められた。しかし、これでは資料調査が不十分であるという批判が出ると、政府はさらに資料調査の対象を広げ、慰安所経営者、慰安婦の聞き取りもおこない、93年8月4日、第二次調査結果を河野官房長官談話とともに、発表した。河野談話は次のように述べている。

 「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」

 外国人戦争被害者の被害実体を政府が調査して認定し、それに対して謝罪した画期的な談話であった。それが出た時点で日本国民はこれを支持した。

 宮沢内閣は河野談話の4日後に不信任決議で倒され、非自民の細川連立内閣が成立すると、細川首相は侵略戦争批判、植民地支配についての反省を明言した。これに対して、右翼勢力が靖国神社、神社本庁を中心に総決起して、攻撃した。しかし、細川首相の発言はすべて総理大臣の個人プレイとなり、政策と結びつかなかった。その結果、河野談話の具体化、歴史認識の公式表明となるべき戦後50年国会決議などが、自民党と社会党の連立政権、社会党村山富市首相の内閣に持ち込まれることになったのである。

 

 村山内閣のなしとげたこと

 村山内閣は1994年6月に成立した。社会党は侵略戦争と植民地支配にたいする反省と謝罪をもりこんだ国会決議をおこなうことに賛成していたし、戦争の被害者個人に対する国家補償を要求していた。しかし、社会党の議席は自民党223に対して3分の1、70しかなく、発言権は自ずから小さかった。自民党は社会党、新党さきがけと連立を組むにあたって、「戦後50年を契機に、過去の戦争を反省し、未来の平和への決意を表明する国会決議」をおこなうとの「共同政権構想」に署名したが、党内保守派をかかえて、どこまで変われるか不安があった。しかし、まさに戦後50年のこの時点において日本の国家と社会の総力が試されていたのである。そして歴史の反省と戦争被害者への償いを主張する人すべてにとって何をどこまで実現できるか、その責任が問われる決定的局面が訪れたのである。

 3党プロジェクトが設置され、討論がはじまった。慰安婦問題については、補償のかたちが問題となった。ここにおいて、考え方の対立が決定的にあらわれた。請求権問題は戦後の諸条約で解決ずみであり、国家として、被害者個人に補償をおこなうことはできないという考え方が官僚集団の総意であった。大蔵省、外務省、厚生省、総理府、外政審議室などがその中心であった。これに対して、社会党の大臣、五十嵐官房長官は社会党の議員とともに、国家補償を主張した。河野自民党総裁もこの考えに賛成であったと言われる。しかし、自民党の中には慰安婦の存在に否定的で、補償に強く反対する人々がいた。私は、3党プロジェクトのヒアリングに呼ばれ、基金構想に賛成する、基金を国会の立法によって設置し、政府と国民のカネをともに基金にいれるようにしてほしいと提案したが、採用にはならなかった。激しい議論の末に94年12月三党プロジェクトの慰安婦問題等小委員会(委員長武部勤)は、日本は慰安婦問題に対して、道義的責任をはたさなければならない、国民の参加によって基金をつくり、募金をして慰安婦のための国民的な償いを実施する、慰安婦のために医療福祉の事業を行うものには政府が資金援助する、政府は事業実施のさい、反省とお詫びを慰安婦個人に表明するという内容の報告書を提出した。

 あいまいといえば、このうえなくあいまいな構想であり、考え方の違いを乗り越えるための折衷策であった。しかし、隘路を打破して、被害者への償いに向けて前進するための苦肉の策であったこともたしかであり、村山内閣だからこそ、合意された案であったといえよう。

 医療福祉支援というのは、政府も何かしなければならないという考えのもとで、打ち出された方策であり、現金は出せないが、サーヴィスなら提供できるという考えに立っていた。

 しかし、事態はすでに容易ならぬ形勢であった。戦後50年国会決議に反対する議連が自民党の中につくられ、この94年12月に旗揚げした。奥野誠亮会長、村上正邦幹事長、板垣正事務局長、安倍晋三事務局次長という役員の顔ぶれで、「昭和の国難」において日本は「自存自衛」「アジアの平和」のために戦ったのであり、国会決議には謝罪も反省もふくめてはならないという考えに立っていた。この議連の参加者は発足時は57人であったが、2ヶ月後には143人、自民党議員のほぼ半数が入会した。アジア女性基金を国会での立法によって発足させることは不可能であったのである。

 戦後50年国会決議をめぐっては厳しい攻防がくりひろげられた。結局のところ、文章は曖昧なものとはなったが、日本も侵略的行為と植民地支配を行ってアジアの諸国民に苦痛を与えたことを認識し、「深い反省の念を表明する」という決議が1995年6月9日衆議院を通過した。新進党は修正意見がいれられないのに抗議して、本会議を欠席、共産党は代案を出して、反対した。奥野議連の幹部たちは抗議の欠席戦術をとった。衆議院の現員509人中賛成230での採択であった。1995年という年に日本の国会が示したレベルがこれであった。

 そこで、歴史認識については、行政府、内閣が官僚達の支持をえて、国会の前に進み出なければならなかった。8月15日、閣議決定にもとづく村山総理談話が出された。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は・・・疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします。」

 この総理談話が出るについては、遺族会会長である橋本龍太郎通産大臣が支持を与えたことが大きな意味をもった。村山談話は自民党の宮沢派、橋本派と社会党、新党さきがけ、それに外務省、内閣外政審議室が合意してつくったものだと言っていい。そして過半の国民は村山談話を支持した。こうして、日本政府、日本国家、日本国民の共通の歴史認識、歴史認識のコンセンサスが戦後50年にしてついに打ち出されたのであった。

 さて慰安婦問題は、95年に入って基金の準備が進められた。基金は運営費用は全額政府資金でまかなわれる民間団体、財団法人とすることになった。その呼びかけ人を内閣外政審議室が人選して、交渉した。政府の決定を受けて活動する団体であるが、政府から自立した団体で、政府に協力するものであってほしいという考えであった。

 呼びかけ人の中には、市民運動家やジャーナリストで、国家補償派の人々も加えられた。私もそのような人の一人であった。私は自民党の反国会決議議連に自民党議員の3分の2が加わるという状況に戦慄していた。出された内容には不満だが、これ以上のものがえられないのであれば、そこに加わって、その枠内でぎりぎりの改善をはかるように努力することが、1995年の日本をもう少しまともなものにするために闘って来た者の責任だと考えたのである。私はスタート時点で全国紙に全面広告を出すことを条件にした。それは可能だと言われたので、呼びかけ人を引き受けたのである。

 基金の発足は6月24日に五十嵐官房長官から発表された。7月18日には呼びかけ文が記者会見で発表されたが、8月15日、村山談話が出る当日の朝の全国紙6紙に全面広告として、呼びかけ文と村山首相のあいさつが首相の写真と署名入りで発表された。「基金は政府と国民の協力で」という標語が打ち出された。費用は1億3000万円であった。しかし、この広告は日本政府がこの水準から後退することはないという決意を国の内外に示したものだと私は考えた。

 

 アジア女性基金の事業

 新聞広告が出たその日のうちに1455万円の拠金がよせられ、年末には1億3375万円になった。1996年3月には2億円をこえ、6月には4億円をこえた。企業からの募金はほとんどなく、個人の募金と官庁の職場募金とであった。個人の募金には、慰安婦犠牲者に詫びる国民の思いをつづった感想がつけられているのが普通である。

 基金のすべての会議にはオブザーヴァーという名義で、内閣府外政審議室と外務省アジア地域政策課の代表者が出席し、基金の重要な文書はすべてこれらの人々の検討をへて確定することになっていた。基金は、明らかに、政府の政策を実施するための、政府予算によって運営されている機関であった。それでいて、そこには純然たる民間のヴォランティヤである呼びかけ人、理事、運営審議会委員が積極的に参加した。理事会が決定機関であったが、呼びかけ人と運営審議会委員も加わる三者懇談会で、重要な決定は決められた。基金はそれまでの日本の歴史にはない政府と国民の協力のかたちであった。

 基金に参加した民間の有志は、三党プロジェクト、五十嵐官房長官発表の枠の中で、国民的な償いによりふさわしく、慰安婦被害者の願いにより多く応じる方向へ、事業内容を改善するために努力した。そうした努力ののちに基金の事業のかたちが定式化されたのは、1996年9月に出された基金のパンフレット第2号においてである。

 まず、基金は日本政府が慰安婦問題に対する道義的責任を認め、反省とお詫びを表明したことに基づいて、国民的な償いの事業を政府との二人三脚によって実施するものであるという考えが明確にされた。事業は三本の柱からなるとされた。

 第一は、首相の手紙を基金が仲介して被害者個人に渡すことである。これをめぐってさまざまな議論があった。橋本首相が手紙を書くことに真実逡巡したかどうかは確然とはしないが、そうであると考えて、三木睦子氏が呼びかけ人をやめたのは事実である。首相のお詫びの手紙が出ないのなら、おそらく基金の関係者の多くが辞任したであろう。政府の最終案は基金の三人の代表に見せられ、全員が承認した。

 首相の手紙は、慰安婦問題の本質は、「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」ところにあると認めた。その上で、「私は、日本国の内閣総理大臣として、・・・いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身に癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げます。」また「道義的な責任を痛感しつつ」、「歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」ことも約束している。このような手紙を総理大臣の署名で被害者一人一人に送るということはよく決断されたものと思う。政府と国民の立場が一層はっきりと被害者に伝えられるように理事長の手紙を添えることになり、私が総理の手紙の案として出したものが基礎になって、理事長の手紙が作成された。橋本首相は、97年にインドネシアのスハルト大統領、オランダのコック首相におなじような謝罪の手紙を送っている。決断後は一貫した態度をとり、日本政府の公式的な立場を確立するのに貢献した人であった。

 第二は元慰安婦の方々に対して国民募金から償い金を支給することである。長い議論の末に一人あたり二〇〇万円と決定された。募金額を勘案して、支給額を決めるべきだとの意見が政府側から出たが、基金の側では、運営審議会が当初300万円を提案した。アメリカの日系米人の戦時収容に対する補償額がほぼ200万円であり、慰安婦被害者にはそれより多い額でなければならないとの考えであった。当初事業はフィリピン、韓国、台湾で実施することになっていたので、それらの国地域では対象者は300人程度だと漠然と考えられていた。だから、6億円集めれば、実施できるということであった。しかし、基金の人間は慰安婦被害者すべてに、最後の一人までも200万円を差し出すというつもりであった。当然に中国、北朝鮮、インドネシア、オランダ、マレーシアといった国々のことが想定されていた。だから、国民からの募金では足らなくなるだろうと考えられた。足らなくなったら、政府が責任をもってほしいという三者懇の意見を原文兵衛理事長が橋本首相に話され、橋本首相は最後は国が責任をとるという言質をあたえられた。つまり、基金の事業を多くの被害者、多くの地域がうけとれば、基金の事業の性格は政府の参加が強まる方向に進化せざるを得ない構造になっていたのである。結果は募金の総額は5億6500万円で、基金事業をうけとったのはフィリピン、韓国、台湾の285人であった。オランダの79人には一人200万円の「償い金」は支払われなかった。

 第三は、医療福祉支援事業である。これは日本政府が道義的責任を認め、その責任を果たすために、犠牲者に対して総額七億円の政府資金により医療福祉支援事業を実施するものだとの位置づけがあたえられた。これは当初慰安婦被害者のために医療福祉支援をおこなう団体に対する援助として使われることになっていた。この形が十全に実現されたのはフィリピンだけで、韓国と台湾では、そのような団体を見いだすことはできなかった。そこで、当初は「アジアとの対話をすすめる会」という団体を日本につくり、この団体を通して医療福祉支援を行うようにしたのである。多くの困難があり、この形での事業実施はつづけられなくなった。そこで、基金の側では、医療福祉支援を現金支給で行い、何にどれだけ使ったか領収書を出してもらうという方式をとるように推進した。結果的には韓国と台湾では医療福祉支援は現金支給で行われるようになった。これは被害者の希望にそう道であり、改善であると考えられる。

 オランダでは、医療福祉支援のみが実施されたのだが、オランダの実施団体の強い要求で、被害者は必要とする医療福祉支援についてのアンケートを書けば、プロジェクト・マネーと呼ばれる現金の支給をうけることができたのである。被害者はうけとったものを「補償 compensation」と考えている。

 医療福祉支援の規模は、各国の物価水準を勘案して決定され、フィリピンは120万円相当、韓国、台湾、オランダは300万円相当である。

 

 反応と結果

 基金が活動をはじめると、運動団体はほとんどこれに反撥し、反対の声をあげた。日本国内では、革新系は社会党、共産党、新左翼もみなアジア女性基金に否定的だった。朝日新聞もNHKも批判的だった。『世界』の元編集長の安江良介氏は韓国民主化運動連帯、日朝関係打開における長いあいだの同志であったが、アジア女性基金を否定的にみて、私たちの対話は不可能となった。この人々はみな国家補償をもとめており、日本政府の態度はあいまいだとして腹を立てていた。これでは韓国の人々にあいすまぬとも思っていた。その気持ちはよく理解できた。しかし、アジア女性基金を否定しても、これから頑張って運動して、よりのぞましい措置を政府にとらせることができるとはこの人々も確信していなかった。知識人の中には、知識人という者は政府に協力すべきでないという考えがあった。しかし、過去の歴史に対する反省と謝罪を確立し、被害者になんらかの償いをおこなうという積極的な行為を実現するためには、政府を動かさなければならなかった。政府を批判するだけでは、自らの責任が果たせなかったのである。保守派の政治家も、革新的な知識人も、日本国家、日本政府、日本国民として謝罪と補償を実現すべき共通の責任を担っていた。アジア女性基金を否定する人々は右翼の結束、猛烈な巻き返しということをまったく予想していなかったのである。結局、われわれとこの人々との分裂の結果は、右翼の攻撃をゆるすことになったと言わざるを得ない。

 国外では、韓国では、アジア女性基金に対する批判がさらに強く、一般的であった。それも当然であった。人々はこの基金の中に自らの責任からのがれようとする日本政府の不誠実な態度を見いだしていた。挺身隊問題対策協議会は、日本政府は法的責任を認めて、慰安婦問題は戦争犯罪だとして、謝罪すべきであるのに、そうしていない、また政府が個人に補償すべきなのに、国民募金を補償回避の隠れみのにしていると指摘した。被害者のハルモニは「法的賠償と真の謝罪がないかぎり」、お金をうけとらないと言っているとし、自分たちは正しい解決を求めて闘っていくと主張した。永い年月をかけて民主革命をなしとげた韓国人は自分たちが努力すれば、この要求も勝ち取れると考えていたのかも知れない。しかし、韓国の民主化が日本に影響を及ぼして日本に生み出された変化が目の前の現実だということがこの人々にはわからなかった。明らかに韓国の人々の批判には日本の状況に対する理解の欠如があった。

 ハルモニの中には、アジア女性基金を受け入れたいという人々がいたのに、そのような被害者はいないと決めてかかったのは、もっとも問題の態度であった。1967年に基金がソウルで7人のハルモニに基金事業を実施したあと、猛烈な非難の嵐がわき起こった。挺対協代表の尹貞玉氏は1997年2月27日の国際セミナーでの発題で、慰安婦問題は「被害者個人の次元でのみ把握してはならない」「民族的問題として、歴史的問題として把握してこそ、本質を正しく知ることができる」と述べた上で、「罪を認めない同情金を受け取るならば、被害者は志願して出かけて行った公娼になるのであり、日本は罪がなくなるのだ」と主張した。尹貞玉先生に対する敬意にもかかわらず、私はこの言葉は述べられるべきでない言葉であったと考える。

 韓国以外でも、アジア女性基金批判の声は普遍的に聞かれた。しかし、フィリピンでは、運動団体リラ・ピィピーナと活動家ネリア・サンチョ氏は、国家補償をあくまでももとめるが、アジア女性基金を受け取るか、受け取らないかは被害者個人が決定する権利がある、受け取ると決定した被害者に対しては申請書類の作成をたすける、受け取らないと言う被害者はその意志を尊重して、さらに助けていくという態度をとった。これは民主主義的な態度であり、おそらく唯一合理的な方針であったであろう。

 オランダでは、日本に補償を求めて運動をしてきた対日道義的債務基金の中から強制的に慰安婦とされた人々のためにアジア女性基金をうけとるのを助ける組織がつくられ、79人の人が事業を受け取った。オランダではごく少数の人が基金を拒否しただけである。オランダの組織は橋本首相の謝罪の手紙と日本政府資金による医療福祉支援300万円を結合するというオランダ方式をつくりだした。これもアジア女性基金改善の一形態である。

 韓国と台湾では、政府も運動団体も基金に反対であったため、基金の事業は十分には実施されなかった。2001年のころ、フィリピンへの支給がふえ、基金がえた募金額では、申請した人々全員に償い金200万円を出すことができなくなるかもしれないという見通しが生まれた。そのとき、私は韓国で基金をあらたに受け取る人が現れれば、その全額を政府が支出することになるということを韓国側と話し合うことを試みた。しかし、話し合いは成功しなかった。

 この他基金はインドネシアでは、インドネシア政府の要望で、高齢者福祉施設を建設するプロジェクトを進めた。10年間で3億7000万円で69棟の建物を建設した。その中には入居者全員が元慰安婦であるというブリタールの施設が一つあり、また慰安婦問題に取り組んできた団体がつくった施設が3棟含まれている。

 問題は、その他に慰安婦が存在したことが知られている中国、北朝鮮、マレーシア、ミャンマー、東チモールなどの諸国に対してはいかなる事業も実施されなかったことである。これらの国々にアジア女性基金の事業を実施することになれば、一人200万円の償い金をまかなうのに国民からの募金でもってすることは不可能であり、政府資金を投入しなければならなくなったであろう。これら地域にアジア女性基金の事業を実施できなかったことは二重の意味で残念な結果である。

 基金は歴史の教訓とする事業にも力をいれてきた。基金の終了にあたって、基金に関係した官僚と基金関係者のオーラルヒストリーをのこすことに努力し、3月に『オーラルヒストリー アジア女性基金』を出版した。800部しか印刷できなかったが、図書館にはあるので、みていただければ幸いである。

 さらにウェッブ上にデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」を立ち上げることをめざした。技術的な理由で、いまだ見れないが、日本語と英語で遠からず見ることができるはずである。www.awf.or.jp という従来のアジア女性基金のホームページのアドレスでみることができるので、よろしくお願いしたい。

 

 今後の展望

 アジア女性基金は2007年3月末をもって解散した。政府の論理からすると、今後残っているのは、外交関係がないので、事業が実施できなかった北朝鮮の慰安婦に対して、先例にしたがって、政府が措置をとることである。首相のお詫びの手紙と政府資金による医療福祉支援というオランダ方式が実施されるのがもっとも妥当であろう。慰安婦問題が未解決だとして、あらたな運動をおこすことは今後は困難であろう。立法の動きになお期待をかける人もいるが、過去数年間は惰性で法律案が提案されているだけで、審議を行い、多数の支持をえて、成立をめざすという努力はなされていない。

 日本政府がつくったアジア女性基金が12年の歴史を終えたことは、歴史の反省と和解という事業のためには、大きな痛手であろう。アジア女性基金の消滅はそのような方向での日本の政府の恒常的努力が終わることを意味するからである。

 今日現実的なのは、強制動員労働者の問題に対する取り組みである。この問題については、日本の国内で中国人強制動員労働者の問題が個別企業に対する裁判闘争として長く争われてきた。1995年に鹿島建設に対して提起された花岡鉱山訴訟では、原告側と鹿島側との和解となり、鹿島が5億円の基金を設けた。500人の労働者と遺族に一人50万円が支払われた。本年4月27日最高裁は西松建設に対する訴訟など4件を棄却した。1972年の日中共同声明により個人請求権が消滅したとの新判断を確定させたのである。しかし、とくに西松建設訴訟の判決では、最高裁は強制連行を否定する企業側の主張を斥け、強制連行はなされたと認定し、これにより利益をえた企業は被害者救済に向けた努力をおこなうように求めた。国と企業の対応が焦点になると、読売新聞は29日の紙面で指摘し、ドイツの「記憶・責任・未来」財団に言及した。

 中国人強制動員労働者については、戦後に日本外務省によって調査がおこなわれ、35社に3万8935名が使役されたことを明らかにしている。したがって、その遺族を捜すことも比較的容易である。西松建設との交渉がある程度進展した段階で、すべての企業について問題を包括的に解決する基金の設立が浮かび上がる可能性がある。

 さらに今ひとつの重要な要因は韓国盧武鉉政権が7月3日の国会で強制動員された韓国人軍人軍属と労働者に「慰労金」を支払う「国外強制動員犠牲者等支援法」を成立させたことである。これは1965年の日韓条約で、韓国政府が対日請求権を放棄する代わりに無償3億ドルの経済協力をえたが、その資金をほとんどすべて経済建設にあて、被害者の救済をしなかった責任をみとめて、韓国政府がおこなうものである。約1万7000人の死傷者に対しては、死者は2000万ウォン、266万円、負傷者にはそれ以下の金額、怪我はしなかった4万人については、500万ウォン(67万円)などが支払われると決められている。

 韓国政府がこのような措置をとるのに対して、日本国家は日韓条約で請求権問題は解決ずみだとして、一切関係がないというような態度をとることは許されることであろうか。強制動員された労働者の苦難に対して日本政府と国民は道義的責任を負っていることは否定しようもない。韓国政府のこの措置を傍観することは日韓両国民の和解のために新たにマイナスの影響を与えるであろう。

 現在日本政府は韓国の強制動員労働者の遺骨調査を行い、その返還、慰霊祭への遺族の参加などに努力していると説明している。その努力は北朝鮮出身の労働者についても向けられねばならないという認識も存在する。

 しかし、そのような措置の域にとどまることなく、中国の強制動員労働者からはじめて、韓国の強制動員犠牲者、さらに北朝鮮の強制動員犠牲者におよぶような「償い金」の支給をおこなう基金の創設がのぞまれる時である。2001年にスタートしたドイツの「記憶・責任・未来」財団の経験に学ぶ時がきたといえるのである。もとよりアジア女性基金の経験もフルに生かされなければならない。慰安婦犠牲者でアジア女性基金からの受け取りを拒否した人々にこの新しい基金がチャンスをつくりだすように設計することが必要であろう。このような基金を政府と企業と国民がつくるということは、2007年のわれわれの夢であろう。




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