慰安婦問題――現在の争点と打開の道


2010年5月10日 東京・ソウル





1 河野談話検証報告書作成の経緯

 6月20日に政府の「河野談話」検証報告書が発表され、内外でさまざまな反応をよびおこしている。この検証は2月20日の衆議院予算委員会で日本維新の会山田宏議員が石原信雄元官房副長官を問いただし、河野官房長官談話を出すに当たって、韓国政府と事前にすり合わせをした、元慰安婦一六人の証言の裏付けを取らなかったという2点が明らかになった、

 この点の検証を求めるとしたところからはじまった。この2点は、『文藝春秋』1997年4月号に評論家櫻井よしこ氏が石原氏からの聞き取りでわかったとして言い出し始め、同年4月9日、自民党若手議員の集まり、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が石原氏を例会に招いてとりあげ、河野談話を攻撃した中心論点であった。以来この論点は河野談話を批判し、その取り消しを求める人々の変わらぬ主張点であった。第二次安倍内閣になって、河野談話の継承が問題になる中、昨年10月16日には、産経新聞が元慰安婦の証言記録を入手し、その内容をずさんなものとし、石原氏のインタビューをあらためてとり、「日本の善意裏切られた」として、新たに河野談話非難キャンペーンを始めたのである。完全非公開であった一六人の証言記録を産経新聞にリークしたのは安倍内閣の内部の人間と考えられたので、つくり出された印象は深刻であった。

 安倍内閣としては、菅官房長官が昨年5月7日に河野談話の見直し検討を考えていないと明確に表明していたが、安倍首相自身は首相として官房長官談話については意見を述べないという態度をとりつづけていた。その状態で、2月20日の山田議員の突撃が行われたのである。菅官房長官は、2月28日の衆議院予算委員会で、韓国側との内容のすり合わせにしぼって、「政府の中で、全く秘密の中でその検討のチームをつくらせて」もらい、「もう一度掌握」をして、「それからこの問題についてどうするか・・・しっかりと検討していきたい」と方針を発表した。

 緊張が一層高まった。安倍首相がなお河野談話を再検討するつもりで、そのための検証なのではないかという不安が現れたのである。だが米国オバマ大統領は3月24日からのハーグでの核セキュリテイ・サミットでの日韓首脳会談を強くのぞんでいた。そのためには、安倍首相が河野談話の継承を明言することが必要とされた。

 3月14日、安倍首相は参議院予算委員会において、ついに河野談話を継承することを明言した。「この談話は官房長官の談話ではありますが、菅官房長官が記者会見で述べているとおり、安倍内閣でそれを見直すことは考えていないわけであります。」この時点から、河野談話の継承を前提として、問題の論点の検証がおこなわれることが確定した。

 外務省が主として日韓間の外交資料をそろえ、有識者五人の検討チームが報告書をまとめた。座長の但木敬一氏は元検事総長で、秋月弘子亜細亜大学教授、河野真理子早稲田大学教授も中立的な立場の人々である。歴史家秦郁彦氏は保守的な思想の持ち主で、河野談話にも批判的な人であったが、歴史家としての史料操作には信頼がある。有馬真喜子氏は、河野談話に基づいて事業をしたアジア女性基金の副理事長をつとめた。有馬氏をメンバーに入れたことはこの検証の方向性をはっきり示したものである。

 

2 検証報告書の内容――二大論点をめぐって

 報告書「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯」の内容と結論は大筋において妥当なものであった。報告書は、1991年12月慰安婦三名の東京地裁提訴の時点からはじめて、日韓間の交渉を詳細に追跡している。そして最初から韓国側からの要望要請に応えて、日本政府は慰安婦問題にとりくみ、調査をすすめ、認識をまとめ、謝罪をし、とるべき措置について考えていった経過を明らかにした。河野談話作成に至るやりとりの中での日本政府の行動にはいかなる問題もないということが主張されている。韓国側では、隠されてきた外交交渉を一方的に明らかにしたとして、憤慨しているが、河野談話に対する攻撃を退けるためには、そうする必要があったという事情を理解して、怒りを抑えてほしいものだ。

 ふりかえれば、1990年に韓国で慰安婦問題が最初に提起されたとき、日本政府に対して求められたのは、まず慰安婦問題の真相究明であった。1990年1月にのちに挺身隊問題対策協議会の代表になる尹貞玉梨花女子大教授が『ハンギョレ新聞』に慰安婦問題取材記を四回連載したが、その最後には次のように書いた。「韓国侵略により民族的侮辱をうけたことを忘れてはならないが、感情的に日本を憎むだけでは問題は解決されない。どうしても日本の良心勢力と政府当局の協力を得て、この問題を明らかにし、整理することが非命に散った慰安婦たちに対するわれわれの責任であり、歴史を前に導くことになるのだ。このことに日本が協力するとき、日本も過去から、戦争犯罪から解放されるだろうと信じている。」

 韓国政府が日本政府に真相究明を要求したのは、1991年に金学順ハルモニが慰安婦であったと名乗り出て告発したあとであった。金錫友外交部アジア局長は同年12月7日の日韓局長会談でこのことを要求し、10日には大使をよんで、再度要求した。これにより宮沢内閣は慰安婦問題の調査を開始したのである。この最初のやりとりが今回の報告書に欠けているのは問題である。韓国政府も年があけて1月24日、挺身隊問題実務対策班を設置し調査を開始した。日韓両政府が慰安婦問題について同時に調査に着手したのである。

 日本政府の第1次調査結果は1992年7月6日に発表された。韓国政府は同じ月のうち、7月31日に「中間報告書」を発表した。まえがきを金錫友局長が書いている。それによると、日韓両国首脳は「最近の相互訪問を通じて、未来志向的な友好協力関係を構築していくことで合意」した。しかし、「不幸な過去史からくる感情的葛藤が韓日関係の発展の障害として作用している」。「暗い歴史を発展的に克服する」ために、「挺身隊問題」について日本政府に「徹底した真相究明とこれによる適切な措置を求めている」。今回の韓国側の「中間報告書」は日本の調査結果を受け、「韓日双方の調査結果を総合し、整理したもの」だと説明されている。両国政府の協力で真実を明らかにしようというこのような努力の結果として、河野談話は生まれたのである。そう考えれば、日本側がまとまった内容を韓国側にみせて意見をもとめ、妥当と思われる提案を受け入れたのは当然のことであった。

 検証報告書では、日本側が調査を通じて得た認識では、「いわゆる『強制連行』は確認できないというものであった」と述べられている。実はこの当時韓国では「強制連行」が広く信じられていたが、その内容は、未婚の女性が女子挺身隊として動員され、慰安婦にされたということと、吉田清治氏の証言にあるような日本の官憲による人狩りのような暴力的な徴発が村や町でなされ、慰安婦に送り込まれたということであった。韓国政府の「中間報告書」は、前者については「『女子勤労挺身隊』と『慰安婦』は、基本的に関係がない」と否定しており、後者については、吉田証言を肯定し、1943年からそのような「人狩り」が行われたとしていた。これに対して、河野談話は韓国政府の報告書に同調して、前者を否定した。後者については、韓国政府の報告書と違い、吉田証言を否定している。今回の政府の検証がはじまったあと、5月20日に産経新聞がふたたび政府関係者から資料をえたとして、河野談話作成のための聞き取り対象者の顔ぶれを発表した。これによると、当時の政府は、歴史家では秦郁彦と吉見義明の両氏、さらに物書きでは千田夏光、吉田清治の両氏から聞き取りをおこなっている。秦氏はその時点で吉田証言は信頼できないと主張しており、吉見氏も吉田証言を採用していない。河野談話は歴史家の意見に基づき、吉田氏からの聞き取りも行った上、その証言を退けているのである。「いわゆる『強制連行』は確認できないというものであった」という意味はそういうことである。

 河野談話は、強制性については、韓国側との協議をへて、「甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」という表現で、女性たちが集められ送り出される過程での「強制性」をみとめた上、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という表現で、「慰安婦」たることの「強制性」を認めている。

 問題にされた慰安婦ハルモニ一六人からの聞き取りについては、検証報告書は「元慰安婦に寄り添い、その気持ちを深く理解することに意図があった」と述べている。実は挺対協が93年1月に一九人のハルモニの証言集をソウルで刊行していた。検証報告書は挺対協とのやりとりを述べる中で、挺対協側が聞き取りに協力できない、「自分たちの出した証言集を参考にすることで十分である」と言うので、証言集を参考としたと書いている。それによれば、一九人中就職詐欺で連れて行かれた人が一三人、暴力、拉致で連れて行かれた人は五人であった。一六人の聞き取りの結果は一九人の証言と重なったのである。

 報告書は河野談話批判の2大論点を検討した結果、韓国政府とのすり合わせには何も問題はなかったとの結論を出して、河野談話への攻撃を退けた。敗北した勢力は河野談話ではなく、河野洋平氏を攻撃した。『産経新聞』も『読売新聞』も、河野談話を発表した記者会見で河野官房長官が「強制連行」の事実はあったと語ったことについて、「罪は重い」(読売社説6月21日)、「不用意な発言で後世に災いの種をまいた」(産経6月21日)などと主張した。他方、櫻井よしこ氏は、『週刊新潮』(7月3日号)の連載コラム「日本ルネッサンス」で怒りの声をあげた。河野氏だけの責任ではない、「河野談話に至る道筋をつけたのは、当時の宮沢首相と河野官房長官、内閣外政審議室長の谷野作太郎と外務省ではないか」、検証報告書の内容を「牽制」したのも外務省だと書いたのである。そして、7月17日に『読売』と『毎日』に彼女は「国家基本問題研究所理事長」として自らの肖像入り意見広告をのせた。「国益と名誉を回復するために、政府と国会は外務省の自己弁護を許すことなく、検証を継続していかなければなりません。談話作成に責任を負う河野氏と外務省関係者の国会での説明は不可欠です」と主張した。これは明らかなる敗北宣言であるようにみえる。

 

3 アジア女性基金について

 このたびの報告書は、河野談話の検証が主題でありながら、全体の分量の3分の1の枚数をあてて、アジア女性基金について述べている。なぜそのような構成をとったのか。

 河野談話を否定する論調の中には、2011年10月17日の『読売新聞』社説のように、「河野談話を“根拠”に設立されたのがアジア女性基金だった」、だから基金には「歴史的事実の冷静な検証が欠けていた」、基金の「韓国での事業は挫折した」、民間募金で集められた資金は「主にフィリピンや台湾の元慰安婦に支給され」たというような見方が根強く存在した。たしかに河野談話を根拠にして、日本政府が実施した謝罪と償いの事業がアジア女性基金の事業だった。河野談話はたんなる官房長官談話ではなく、それに基づいて総理大臣の謝罪の手紙がオランダ首相、インドネシア大統領にさし出され、三六四人の韓国、台湾、フィリピン、オランダの慰安婦被害者に送られたことの根拠を与えた文書なのである。そしてアジア女性基金は、二八五人の韓国、台湾、フィリピンの被害者と七九人のオランダの被害者に償い事業を実施したのである。二八五人の内訳はながく公表されなかったので、誤解を招いたかも知れないが、私は先に毎日新聞3月5日の寄稿の中で、フィリピン二一一人、台湾一三人、韓国六〇人であることを明らかにした。韓国でも相当数の被害者が基金の事業を受け止めてくれたのである。河野談話とそれに基づくアジア女性基金の事業は日本国家が女性たちに加えた損害と苦痛に対する日本国家の謝罪と償いの実践であり、消すことのできない我が国の歴史の一部なのである。

 もっともアジア女性基金の事業の説明としては、検証報告書の記述は十分なものとは言えず、不適切な表現も含んでいる。アジア女性基金設立当初からこの基金に関与し、解散の時まで働いた者として、いくつかの点を説明したい。

 1990年から運動をはじめた韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を中心とする韓国と日本の運動団体は、慰安婦問題が「戦争犯罪」であり、国が法的責任を認め、被害者に謝罪して、個人賠償することを求めていた。さらに責任者の処罰を要求されることもあった。これに対して、日本の行政当局は、日韓間では1965年の請求権協定により請求権問題は解決ずみであり、被害者個人への補償・賠償措置は実施できないという態度を明らかにし、その上で何ができるかを考えるという姿勢に終始していた。村山政権成立時に外務省が中心になって準備していたのは総額1000億円の戦後50周年記念平和友好交流事業計画であった。村山内閣の官房長官五十嵐広三氏は被害者にたいする補償の実現に強い思い入れがあったが、自社連立政権の責任者となってからは、自分の主張をおさえて、慰安婦問題のために基金をつくり、政府資金と国民募金を合わせて、「償い」の事業を行うという方針を推進した。しかし、政府資金を国民募金と合わせることにたいしては、行政当局からも、連立相手の自民党からも、強い抵抗があった。

 その段階で、従来の政府、行政当局の立場を守ろうとする側がリークしたものであろう、1994年8月19日の朝日新聞の一面トップに、村山新政権がいまや合意したのは、「元慰安婦に『見舞金』、民間募金で基金構想、政府は事務費のみ」という大見出しで記事が出た。「見舞金」は韓国語では「慰労金uirogum」と訳され、謝罪の要素がまったくない。つくりだされた印象は致命的だった。関釜裁判の法廷に立つために来日中の李順徳ハルモニはこの記事の説明を聞いて、顔を真っ赤にして、おこって、「オレは乞食じゃない。あちこちから集めた同情金はいらない」と叫んだという。それを聞いた支援の会の人々は、翌日には福岡で政府構想反対の記者会見を開いた。22日には東京でも「民間募金で『見舞金』を出すという構想」の撤回と個人補償を求める声明を内外28団体が出した。五十嵐官房長官は、このとき「見舞金」など考えていないと、記者会見をして、きっぱり否定すべきであったのだ。しかし、それは行われなかった。

 政権内部の協議は秋には、五十年問題プロジェクト・チームとその慰安婦問題等小委員会での討論にもちこまれた。社会党の委員は、個人的な給付に政府の資金も入れることを主張したが、通らなかった。報告書には、政府は「道義的立場からその責任を果たす」、「お詫びと反省の気持ちから国民的償いをあらわす」、国民参加のもとで基金を設置する、政府は拠出をふくめ、可能な限り協力するということが述べられた。

 小委員会の報告書が12月7日に発表されるや、運動団体はこれを強く非難し、撤回を要求した。「法的責任」を認めなければならない、国家の謝罪と賠償が必要だというのである。「道義的責任」を認めるとしたことは問題にされなかった。「償い」の事業をすると言ったのも、韓国語にすると、「補償」と同じ、「bosang」になるので、理解されなかった。「償い」は英語では、atonement と訳された。「贖罪」という意味である。The Atonement と言えば、イエス・キリストが十字架にかかって、人類の罪を贖ったということをさす。だから、韓国、台湾の漢字語の世界では「償い」の意味は通じなかったが、フィリピン、オランダというキリスト教的な英語の世界では、日本側の気持ちは通じることになったのである。自分たちの心を韓国台湾の人々に説明できなかったことは、アジア女性基金の全過程をつうじる深刻な誤りであった。

 募金によって国民的な償いをするという基金の基本コンセプトが決定されたあとも、五十嵐官房長官はこの「償い事業」に政府の資金を加える方策を考えつづけ、医療福祉支援を慰安婦ハルモニのために実施する機関に政府資金を支援するという柱を加えることにした。しかし、アジア女性基金が1995年7月に出発するときには、民間募金で慰安婦ハルモニへの「国民的な償い」をするという基本原則がもっとも中心的な事業の柱として発表された。そして、これが引き続き韓国の被害者、韓国と日本の運動団体からつよい批判をうけたのである。総理が謝罪するというのに、政府は謝罪のしるしとして何も出さないという印象を消すことができなかった。しかし、基金がスタートして、基金が謝罪と償いの事業を実施するための努力を開始すると、基金内部には重要な変化が生じた。ここでは次の二点を指摘しておく。

 まず、基金は誰のために事業をするのか、基金が事業の対象とする「慰安婦」とはどのような人々かが定められた。1995年10月に出された基金の最初のパンフレットの冒頭に打ち出された慰安婦の定義は次のようなものである。「『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」 2007年基金の解散時に制作されたデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の第一室冒頭にも次のようにある。「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かっての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」ここで「強いられた」とはもとより「強制された」という意味で、英文ではforced となり、韓国語では「強要????」となっている。アジア女性基金は河野談話からこの慰安婦の定義をつくり出し、政府の承認を受け、基金事業の基本的な基準としたのである。

 基金はこの定義にしたがって、韓国と台湾では、自らの意に反して慰安所に送られ、苦しみをうけたと申し出た認定登録被害者たち、フィリピンでは、日本軍兵士によって村や町から拉致連行され、兵営近くの建物に一定期間監禁され、性的な行為を強制され、事実上連日強姦された女性たち、そして、オランダではインドネシアを占領した日本軍の収容所から日本軍人によって選び出され強制的に慰安所に送られ、「強制売春」させられた人々に事業を実施した。つまりアジア女性基金は、慰安婦という存在の核心は、軍の慰安所で「慰安婦」たることを強制されたということにあるとの認識を確立させ、それに立って事業を進めたのである。

 第二に、アジア女性基金は1996年6月4日に「償い金」の額を200万円と決定した。基金のコンセプトからすれば、募金の額を考えて、事業対象者数で割って、金額を決定する他はなかったろう。しかし、基金は、総理の謝罪の手紙を差し出すのに合わせて、政府と国民の償いの気持ちを伝えるには、一定の金額が必要であると考えた。募金額は96年4月末で約三億三三〇〇万円であったので、二〇〇万円ならば、およそ一六〇人分ということになる。韓国と台湾の認定、登録被害者の人数でも、一九〇人近くいたのだから、当然に不足する。理事会での決定に先立って、原理事長は橋本総理に償い金の支払いに不足することがあれば、政府が責任をもってくれるように申し入れ、承諾をえたのである。このことは、国民からの募金で償い金を出すという基金の基本コンセプトには本質的な欠陥があったことを露呈したことであり、基本コンセプトはこのとき実質的に修正されたにひとしいのである。

 ふり返ってみれば、アジア女性基金はフィリピンとオランダでは、一応の成功をおさめたと評価できるが、韓国と台湾では、受け取った人々が認定、登録被害者の三分の一に及ばなかったという意味で、目的を達したと言うことはできなかった。

 アジア女性基金はもはや存在しないし、それを復活させることはできない。その歴史は真の意味で検証されるべきである。河野談話に基づいて、慰安婦被害者に対する謝罪と償いのために努力したこの事業は正当に評価されなければならない。アジア女性基金の事業を受けとった六〇人の被害者ハルモニの主体性を否定したままにすることはできないだろう。

 いずれにしても検証報告書にアジア女性基金が韓国で事業を実施した人の数が六一人と書かれた。私の発表した数と違うのは、基金は六一人に送金したのだが、一人から届いていないという訴えがあり、基金解散時までに解決できなかったためである。いずれにしても、韓国での実施人数の発表は、なお韓国では償いの事業は終わっていないということを日本政府がみとめているということを意味している。

 

 4 解決は可能なのか

 いまは日本政府が河野談話に対する批判勢力の攻撃を退けて、河野談話の継承を再確認した状況である。日本側からは日韓首脳会談の開催のための条件が整えられたと言える。

 日韓間の対立感情を和らげ、日韓関係を改善するためだけでも、日韓首脳会談は必要である。今日日本が拉致問題の解決のために、日朝国交正常化をめざして、北朝鮮との交渉を開始しただけに、日韓関係改善のための日韓首脳会談の開催はよけい先延ばしはできないはずである。日韓首脳会談が開かれれば、朴槿恵大統領は安倍晋三首相に慰安婦問題の解決を望むと言うだろう。そのような要望がなされたら、安倍首相は、前任の野田首相が2011年12月の首脳会談で述べたのと同じように、「智恵を出す」などの、前向きの応答をするほかはない。

 さて、そうなって、両首脳が話し合って、何かトップダウンで解決策が出されるというようなことを期待する人はいないだろう。そのような解決案は、韓国と日本の市民、社会の側が徹底的に話し合って、見つけ出し、それを両政府に提示しなければならないのである。解決案はなによりも被害者ハルモニのこころに響くものでなければならない。また挺対協など韓国の運動団体が受け入れうるものでなければならず、韓国の政府と国民の中核部分に受け入れてもらえるものでなければならない。それだけではない。解決策は加害国日本の国民の中核部分に支持されなければならない。そして日本政府外務省の受け入れうるものでなければならない。そうでなければ、日本国民の内部にある反動的な勢力の妨害の声を抑え込むことができないのである。過去の加害の罪に対して謝罪がなされれば、償いをして、基本的な和解を実現するには、被害国と加害国の政府と国民の合意と協力が必要なのだ。

 では、被害者、支援団体、韓国政府が受け入れ、日本政府が実行できる新しい解決策をみつけることは可能なのか。この点で、2012年民主党政権末期の解決への試みは今一度振り返ってみるに値する。

 2012年2月、日本の慰安婦問題運動全国組織、「日本軍『慰安婦』問題全国行動2010」の機関紙に、共同代表花房俊雄氏のよびかけが発表された。そこには次のように述べられていた。「野田政権に具体的な解決を求めましょう。・・・解決の内容に言及するとき、@日本政府の責任を認め、被害者の心に届く謝罪をすること、A国庫からの償い金を被害者に届けること、B『人道的な立場』とは加害者側の日本側が使う言葉ではありません。責任を回避する言葉として被害者を傷つけます、等をポイントに、みなさまの思いを伝えてほしいと思います。」

 これは運動団体の側から出された重要な新提言であると私は受けとった。私はただちにこの花房提案を斎藤勁官房副長官に伝え、韓国の同憂の友人たちにも知らせた。だが、韓国の被害者、支援団体はこの段階でどのような解決を求めているのか、この日本の運動団体の提案をどのように考えているのか、つかめなかった。

 日本政府は新しい解決案を見出せず、時間ばかりが空費される間に、八月李大統領の竹島訪問による日韓関係の険悪化があって、絶望的になったあとに、九月のAPEC首脳会議のあたりから模索が始まった。11月18日にカンボジアでASEANプラス3がある、そのときが日韓首脳会談のチャンスだということで、最後の努力が試みられたようである。

 2012年10月28日、斎藤官房副長官と李明博大統領の特使李東官氏が東京で会談し、以下のような解決案で合意したと言われる。@日韓首脳会談で協議し、合意内容を首脳会談共同コミュニケで発表する。A日本首相が新しい謝罪文を読み上げる。従来は「道義的責任を痛感」すると述べていたが、「道義的」をのぞき、国、政府の責任を認める文言にする。B大使が被害者を訪問して、首相の謝罪文と謝罪金をお渡しする。C第三次日韓歴史共同研究委員会を立ち上げ、その中に慰安婦問題小委員会を設けて、日韓共同で研究を行うように委嘱する。韓国大統領はこの案を受け入れていたが、野田首相は最後の瞬間にこの案の受け入れに踏み切ることができなかったようだ。しかし、この失敗に終わった経験は新しい解決案をもとめることは不可能ではないかもしれないという希望をのこしたのである。

 今日、日韓関係は2年前よりもはるかに悪化している。両国民の相互反感は恐ろしいほどに高まっている。だが、だからこそ首脳会談を開いて、慰安婦問題の解決をはかると合意してほしいという願いもいまだかつてなく強まっているのである。そして新しい声があげられ、新しい風が吹いているのが感じられる。

 挺対協は1992年8月以来「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」を継続開催してきたが、本年5月末には東京で第12回会議を開催した。そのさいに「日本政府への提言」として、「日本軍『慰安婦』問題解決のために」という決議を採択した。

 この文書は「被害者が望む解決で重要な要素となる謝罪は、誰がどのような加害行為を行ったのかを加害国が正しく認識し、その責任を認め、それを曖昧さのない明確な表現で国内的にも、国際的にも表明し、その謝罪が真摯なものであると信じられる後続措置が伴って初めて、真の謝罪として・・・受け入れられることができる」と述べている。さらに文書は被害者が高齢であることに注意を喚起し、「日本政府が『河野談話』を継承・発展させ以下のような事実を認めた上で、必要な措置を講じることを求める」としている。

 認められるべきは、次のような事実とその責任だとされる。「@日本政府及び軍の施設として『慰安所』を立案・設置し管理・統制したこと。A女性たちが本人の意に反して『慰安婦・性奴隷』にされ、『慰安所』等において強制的な状況の下におかれたこと。B日本軍の性暴力に遭った植民地、占領地、日本の女性たちの被害にはそれぞれに異なる態様があり、かつ被害が甚大であったこと。そして現在もその被害がつづいているということ。C当時の様々な国内法・国際法に違反する重大な人権侵害であったこと。」

 後続措置としては、@明確な公式的な方法での謝罪、A謝罪の証としての被害者への賠償、B真相究明(資料全面公開、さらなる資料調査、さらなる聞き取り)、C再発防止措置(学校教育、社会教育、追悼事業、誤った公人の発言禁止)があげられている。

 これは実に注目すべき提言である。この6月2日決議の中に韓国と日本の運動団体が今日いかなる解決策を求めているかがはっきりと提示されているとすれば、それは韓国と日本の国民的な話し合いの中心に置いて検討されるべき文書であると感じられる。

 慰安婦問題が提起されてから、二五年、四分の一世紀が経過しようとしている。朴槿恵大統領が言われたように、今日健在でおられる五〇名のハルモニのために解決のための時を失ってはならないのだ。河野談話、村山談話の継承を確認して、日韓首脳会談をひらき、朴大統領は慰安婦問題の解決のために努力するとの回答を安倍首相から引き出してもらいたい。その先は両国の外務省とメディア、運動団体、専門家が被害者の声をきいて、どのような解決策がのぞましいか、可能なのかを討論して、共通の答えを見つけなければならない。被害者ハルモニも、韓国と日本の運動団体も、両国のメディア、両国の外務省も合意する解決案が見いだされてこそ、安倍首相と朴大統領も合意できるのである。

                     (『世界』2014年9月号掲載)






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