沖縄と東北アジア

(琉球新報 2008年1月7日,8日,9日)





1 国家を越えて生きる

 現在われわれは非常に困難な、危機的な状況の中にいる。日本だけではなく、世界が全体として混乱している。アメリカを中心に滔々とグローバル化が進行しているが、反撥もつよく、ナショナリズムが各地で強まっている。戦争やテロが広がる中で、地球温暖化の危機が誰にもわかるようになっている。この世界で、われわれの進むべき方向は、リージョナリズム、地域主義だと私は考えている。私は2003年に『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』(平凡社)という本を出して、旗をかかげたのである。

 われわれは国家を否定しては生きられない。しかし、国家を相対化して、国家を越えて生きることが必要である。国家に帰属すると同時に、国家を越えた地域に帰属して、世界に帰属することである。柄谷公人氏が2006年に『世界共和国へ』(岩波新書)という本を書いているが、国家を越えて、世界共和国をめざしていくべきだという提案はむしろ危険だと思える。終焉した社会主義ソ連を考えると、ソ連はまさに単一の世界国家をめざしていたのである。人類を単一の国家にすることは巨大な暴力を必要とし、かつ目的を達成できないであろう。私は地域共同体の連合としての人類の未来を考える。ユートピアというなら、リージョナリズムこそがわれわれのユートピアだと言えるのである。

 地域主義という考えは実はかっても存在した。日本は地域主義を実践しようとして失敗した歴史をもっている。「アジア黄人国の一大連邦」を提案した樽井藤吉の「大東合邦論」(1893年)は韓国併合に帰着した。満州事変の中からは、石原莞爾の「東亜聯盟」案(1932年)が生まれた。日中戦争の中では、日満支の共同経済を提案する蝋山政道の「東亜協同体」論(1938年)が提唱された。それらが行き詰まると、「大東亜共栄圏」の構想が生まれたのである。それは大東亜戦争と一体だった。地域主義の実践は侵略にかぶせた看板であった。そこで日本の降伏とともに、地域主義も忘れられることとなった。

 敗戦と朝鮮戦争をへて、戦後の日本人は、平和を望み、軍隊に反撥したが、アメリカをたよりに生きることになった。日本の戦争が終わったあと、アジアの諸国は共産主義者と反共主義者の戦争をはじめたので、その時期には地域主義は反共国家連合、東北アジア軍事同盟としてしか存在し得ず、日本人はその面からも地域主義を拒否したのである。

 しかし、冷戦がおわり、国家社会主義が終わった1980年代末、90年代はじめに、新しい条件が生まれた。東北アジアでは、中国の経済発展と韓国の民主革命がめざましく、他方北朝鮮は危機に直面した。ここで地域主義への志向が新しく出現した。

 アセアンは1997年より中韓日の三国を招いて、アセアン・プラス・スリーの首脳会議をひらくようになり、その中から生まれた東アジア・ヴィジョン・グループが2001年に「平和、繁栄、進歩の東アジア共同体を創造することを希求する」という報告書を提出した。アセアン首脳がその夢のような案に支持をあたえ、2005年には東アジア・サミットが開催されるにいたった。しかし、構成国をめぐって日本と中国のあいだに対立がおこり、呼ばれていないアメリカが不満をもつということで難航している。

 他方で、東北アジアという地域が強い存在感をもってせり出している。2003年2月韓国の盧武鉉大統領は就任の辞で「東北亜新時代」の到来を語り、繁栄の東北亜共同体、平和の東北亜共同体をめざすことが新大統領としての夢であると述べて、人々を驚かせた。しかし、その年の8月北朝鮮の核兵器開発をやめさせるための6者協議がはじまり、悩みに悩んだ末の2005年9月19日になって、6者協議第4ラウンド共同声明を発するにいたった。そこで、核問題の解決とともに「6者は東北アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束し」、「東北アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について提案していくことで合意した」ということが述べられたのである。

 6者とは中国、韓国、北朝鮮、ロシア、米国、日本である。実は私が1990年、「東北アジア人類共生の家」の建設をソウルで提案したときも、この6カ国でつくるという案であった。1995年からは「東北アジア共同の家」と呼んでいる。平和と安全保障の面での協力から地域共同体への歩みがはじまる構想はいまではたんなる夢想ではない。6カ国の政府代表が誓約した目標なのである。

 

2 和解なくして共生なし

 東北アジア共同体を真剣に考える者は、この地域の特殊性に正面から立ち向かうほかはない。この地域の特徴は、1894年から1975年までの80年間、不断に戦争が続いたということである。

 このような戦争まみれの地域は世界のどこにもない。だから、この地域は平和であるというだけでは満足できない。和解しなければ共生できないのである。

 まず80年間の最初の50年間は日本の戦争の時代である。最初の日清戦争は主題と戦場からすれば、第一次朝鮮戦争だといえる。つづく日露戦争は朝鮮を支配することをロシアに認めさせようとして日本が起こした戦争で、戦争の結果、日本は朝鮮を保護国化し、ついで併合し、植民地支配することになった。中国では満州事変以降15年間連続的に戦争した。ロシアとは、シベリア戦争(出兵)、ノモンハン事件、1945年の日ソ戦争を戦った。最後にアメリカとは「大東亜戦争」を戦った。

 まこと半世紀のあいだ、日本は西、北、東の隣国すべてと一回以上戦争している。つねに日本が攻撃する側、多くは侵略する側だった。攻撃され、侵略された側には癒しがたい傷、消えざる痛みがのこった。明成皇后殺害、旅順と対馬、乙巳条約、三一運動弾圧、盧溝橋、南京虐殺、731部隊、パール・ハーバー、慰安婦問題は忘れられないことだろう。

 もちろん、日本の側にも、東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎原爆投下など、消えざる記憶がある。

 日本の戦争が1945年8月15日をもって終わると、日本は軍隊が解体され、天皇が非軍事化され、憲法9条のもとで生きることになった。しかし、日本の戦争が終わったことは、この地域で戦争の時代が去ったことを意味しなかった。ただちに、中国全土で国民党軍と共産党軍との内戦がはじまり、1949年までつづいた。インドシナでもホーチミンのベトミンとフランス軍とが戦っていた。

 1950年には朝鮮戦争が起こる。米ソに分割占領された朝鮮の南と北に生まれた二つの国家が武力で国土統一、完整をめざして戦争したのである。統一はどちらの側からも失敗し、戦争は朝鮮の地における米中戦争となった。朝鮮戦争は1953年に停戦協定が結ばれた状態のままにとどまり、インドシナ戦争はベトナム戦争につづいた。ここが共産主義者とアメリカが助ける反共主義者の闘いの主舞台となった。

 韓国はこの戦争に参戦し、10年間戦いつづけた。北朝鮮も空軍パイロットを派遣した。米国はもっとも残酷な作戦をつづけ、枯葉剤の使用により多数の奇形児をつくりだした。

 日本はこれらの戦争に参加することはなかったが、アメリカを支援し、戦争から利益をえて、影響をうけた。日本の隣で民族共産主義者と反共民族主義者およびアメリカとが戦った30年戦争は1975年ベトナムでのアメリカの敗北で終わった。

 80年間の戦争の恐ろしい記憶となおつづく苦痛は今日なおこの地域の人々を引き裂いている。加害者は謝罪し、犠牲者の悲しみと痛みは癒されなければならない。回復できる損害は補償されるべきである。そして憎しみが克服され、許しが与えられなければならない。

 日本は30年戦争が続く間は自分の戦争について反省し謝罪することはできなかった。戦後27年目の1972年にいたり中国国民に対して戦争によりもたらした被害に反省を表明した。

 そして戦後50年目の1995年に、植民地支配と侵略により被害と苦痛をもたらしたことに対する反省とお詫びをアジア諸国に表明する村山総理談話を発表した。慰安婦問題については1993年の河野官房長官談話で反省とお詫びを表明した。

 これによって日本は過去を反省し、地域内の諸国との和解をもとめる基礎となる最小限の謝罪をおこなったと考える。

 もちろんこれを深め、そこに魂を入れていく必要がある。2007年には村山談話、河野談話を真に守るか守らないかということが総理の退陣の契機となった。そして沖縄県民の怒りが沖縄戦の真実を教科書から消そうとする企てをうちくだいた。

 他方でアメリカはベトナム戦後32年をへたがいまだ謝罪していない。当然に枯葉剤の被害者に対する補償は何もなされていない。

 朝鮮戦争は停戦状態が平和体制に移行できるかどうかがようやく6者協議の進展の中で問題になりうるところにきたところである。

 80年間戦争をつづけたこの地域の人々は全面的な和解を希求している。その方向にみなが歩みだしてこそ、東北アジア共同の家への前進が可能になるのである。和解を希求する情熱こそこの地域を一つに結びつけるアイデンティティをなすのである。

 

3 島の連携で協力体へ

 東北アジアの諸国は歴史的、政治的、経済的、文化的にきわめて多様であり、異質的である。議会制民主主義の国が三つ、元共産主義国も二つ、共産党がなお支配する国が二つもあるのである。このような異質な東北アジアが協力体になることは難しい。しかし、それた実現されれば、人類の分裂を克服するのに画期的な意義をもつと考えることができる。

 この東北アジアを一つに結びつけるのが、不幸な歴史の結果、ディアスポラして、各国に住むコリアンの存在である。

 やや古いデータによるが、中国には延辺朝鮮人自治州を中心に朝鮮族は204万人、米国には韓国からの移民が205万人いる。日本では韓国系、朝鮮系合わせて87万人といわれるが、日本国籍をとった者を加えれば100万人はいるだろう。旧ソ連には中央アジア諸国を中心に48万人いる。東南アジアが華僑の世界であるように、東北アジアは朝鮮族、韓僑の世界である。

 この人々は民族的祖国を忘れず、現在住んでいる国家社会のことを思っている。だから、東北アジア全体が生きられるように働きうる存在、東北アジア人なのである。特に在日コリアンは9割以上が南朝鮮を祖先の地とし、自分は日本社会の一員であり、親族が北朝鮮に移住しているというふうに、身体と心が三つに切れていて、かつこの三つをつないでいる存在である。在日コリアンの知識人姜尚中氏が東北アジア共同の家を提唱していることは東北アジア・コリアンの可能性を示すことだと言えよう。

 今一つ地域を結びつける力として期待されるのが、東北アジア地域の大きな島のネットワークである。東北アジアの平和にとって朝鮮問題とならんで重要なのが台湾問題である。台湾は国家たることを主張してきたが、国家たることを認められていない。そこで台湾を国家として東北アジア協力に参加させることは不可能である。活路は台湾を一つの島と考え、台湾代表の参加する東北アジアの島の連合をつくり出すことである。

 台湾の人口は2227万人、東北アジア最大の島である。つぎが沖縄で、人口は134万人、ハワイが人口121万人である。それから済州島が55万人 サハリンが54万人である。アメリカを東北アジアの一員と考えるにあたって、私は実質的には、在韓、在日米軍軍人とハワイとアラスカをこの地域を構成するものとみなしている。

 これらの島の多くは独立国であった歴史をもち、かつ大国の争奪の対象となり、しばしば仕える主人を変えてきた過去をもっている。そして戦争では最前線の激戦が行われた。パールハーバー、沖縄とともに、樺太の戦いも忘れられてはならない。済州島も第二の沖縄になる可能性が考えられ、守りがかためられていた。

 台湾と済州島は日本の戦争が終わった後のもっとも悲惨な弾圧事件、台北2・28事件と済州島4・3事件がおこっている。だから、すべての島が平和を切実に求めている。済州島は正式に韓国政府により「平和の島」と命名された。しかし、済州島をのぞいて、すべての島が武装している。軍事基地の島である。だからこそ、これらの島が手をつなぎ、平和を守り、東北アジア地域を構成する国家をむすびつける役割をはたすことがのぞまれる。これらの島はその歴史の故にもっとも多様な民族と文化が共生している世界であり、すべてに開かれた視野をもっている。

 ここで注目されるのは1993年11月23日に米議会上下院が採択した謝罪決議である。決議は、アメリカがハワイ王国と67年間外交関係を持っていたにもかかわらず、1893年アメリカ大使が陰謀に加担して王国を転覆させ、ハワイをアメリカの保護国と宣言したことを記し、米海兵隊の上陸を前にして流血回避のため、政権を委譲するとのリリウォカラニ女王の抗議声明を引用している。さらに知らせをうけたクリーヴランド大統領が王国転覆を認めず、女王の復権を求めたこと、王政転覆派はハワイ共和国を宣言していたが、ついに1898年にいたり、マッキンリー大統領によってハワイ併合の方針がとられるにいたったことを記している。

 そして、議会は「非合法なハワイ王国転覆」の100周年にあたり、「先住ハワイ人の固有の主権の圧殺」がなされたと認めて、謝罪し、この謝罪をアメリカ国家と先住ハワイ人の「和解の基礎」とすることを決議したのである。この決議にクリントン大統領が署名した。署名する大統領の背後にハワイ州選出の議員が立っているが、二名がハワイ先住民、二名が日系人である。

 これはベトナム戦争にはいまだ謝罪していないアメリカが行った歴史の清算のための重要な行為である。このことは日本にとって琉球王国処分と韓国併合に対してどのような態度をとるべきかを考えさせてくれる。韓国併合の100周年は2010年にくるのである。




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