藤井一行氏の批判に答える





              2003年3月16日      和田 春樹

 富山大学名誉教授(ロシア思想史)藤井一行氏は本年2月27日、インターネット上に論稿「日本におけるロシア革命史研究=ロシア革命史記述への疑問(1)」を発表し、「(1)石井規衛「ロシア革命」(新装世界各国史22『ロシア史』和田春樹編(山川出版社、2002所収)の問題点」では、石井規衛氏とともに私に批判を加え、「(2)1917年8月末のペトログラード・ソヴェトの方向転換について」と「(3)十月革命時のケーレンスキーの首都脱出形態について」において私に批判を加えている。
 氏が私に対してインターネット上で批判を加えるのはこれが二度目である。第一回は昨年11月9日の論稿「和田春樹氏の『拉致疑惑検証』を検証する」である。私はこの批判に対して答える必要性を認めなかったので、これまで答えてこなかったが、いまは考えが変わった。別途答えるつもりである。
 さてこのたびのロシア史にかんする藤井氏の批判について順に回答する。

 (1)各国史『ロシア史』における石井記述と世界史大系『ロシア史』第3巻における和田記述の「酷似」という批判について
 藤井氏は両者の二月革命から一〇月革命までの記述を比較して、インターネットの技術を駆使して、きわめて「酷似」しているとし、これを「剽窃を疑わせる超酷似」だと決めつけ、?編者和田はこの事実を知っていたのか、?和田が許していなければ、犯罪が立件されるのではないか、?和田が許したとすれば、このような記述を世に送った編者の責任が問われないか、?和田はこのことに問題を感じないとすれば、「自他ともに一種の<剽窃>行為を許容したということになろう。このような融通が学者間で通用していいのだろうか」、?石井は和田に許されたとしても、記述に責任が負えるのかと五つの問いを発している。
 この藤井氏の議論はためにする極論であり、「剽窃」という言葉を振り回して、学者の名誉を傷つける暴論である。
 問題とされる状況は、山川出版社という同一の出版社の依頼をうけて共同執筆され、出版されてきた歴史概説というジャンルで発生した。山川出版社の各国史の一巻である『ロシア史』の新版は岩間徹氏の編集で、一九七九年に刊行され、「第八章 ロシア革命」(第一次大戦部分から一〇月革命までは四〇頁)を和田が執筆した。一九九二年には改訂増補版が刊行された。その後山川出版社は一九九七年に全三巻からなる世界史大系『ロシア史』を刊行した。和田が第三巻の責任編集者であり、「第一章 第一次大戦」(三〇頁)、「第二章 ロシア革命」(三〇頁)を和田が執筆した。そして二〇〇二年にいたり、新装各国史『ロシア史』が和田の編集によって刊行され、「第八章 ロシア革命とソ連邦の成立」(うち「1 第一次世界大戦と帝政ロシア社会の危機」は九頁、「2 ロシア革命」は一一頁)を石井が執筆した。つまり一九七九年以来九七年まで、山川出版社の歴史概説においては、一九六〇年代ーー七〇年代の研究にもとづく和田のロシア革命記述が基本的に受け継がれてきたのである。そして、ロシア革命の過程に関する記述は系統的に全体の歴史叙述の中でその比重を下げ、短縮されてきた。
 その経過をうけて、世界戦争とロシア革命の部分を担当した石井は、もとより、今日の研究状況をふまえ、これまでの歴史叙述を検討した結果、和田の九七年の記述を基本的に評価して、自らの意見を加えて、今回のもっとも短縮された叙述を仕上げることとした。石井は学生時代より和田のゼミナールに属し、影響をうけているが、その学風はまったく和田と異なり、歴史事象の意味をあらたに構成し、解釈するという歴史家である。だから、このたびの概説の執筆に参加するにあたって、みずからの独特な歴史解釈を抑えて、学界に広く受け入れられているスタンダードな叙述をめざすべきだと考えていた。結果として、石井の記述は和田のロシア社会危機論、ロシア革命論を受け入れながら、文章の流れは和田の記述とは異なったものとなっており、個別事象の説明において和田の説明と重なる説明を含むというものになったのである。
 和田は編者として、石井の考えを承認し、石井の記述が自分の記述と重なるものを含むことを受け入れた。共同執筆の歴史概説という性格上、石井の執筆方針は合理的な選択であると判断した。したがって「剽窃を疑わせる超酷似」というような非難には強く抗議する。同僚を無責任に犯罪者よばわりすることは許されない。「剽窃」というようなことは、他人の苦心の研究成果を自分の苦心の研究成果であるかのように発表すること、他人の知られざる業績を自分のものとして商業出版、ジャーナリズムに売り出すこと、外国の本を書き写して自分の著作にすること、などなどを言うのである。問題にされたことはこのような事例のいずれにも合致しない。
 私は石井氏の記述を承知していて、認めたのだし、認めたことにいかなる問題も感じていない。このことで編者としての責任が問われるとは思わない。石井氏の記述をみとめたことが「一種の<剽窃>行為を許容したということになろう」とは不当な言いがかりである。
 石井氏は和田の記述を吟味しており、それを参考にして自分の記述とした以上は、その記述の責任を取ることは当然である。
 問題があるとすれば、和田の記述に誤りがあった場合、それが石井の記述においてくりかえされるということである。このようなことがあれば、これは反省しなければならない。その点は以下で検討する。

 (2)ペトログラード・ソヴェトの方向転換について
 藤井氏は和田の記述に問題ないし誤りが含まれており、それが石井の記述において繰り返されているという点を二点挙げ、検討している。その第一点がペトログラード・ソヴェトの方向転換問題である。1917年8月31日に同ソヴェトが採択した決議「権力について」をどう見るかという問題である。
 藤井氏は、この決議は「コルニーロフの反革命陰謀に加担した政治グループを権力から排除して、革命的なプロレタリアートと農民の代表者からなる政権を創設することを訴えたもので」あるとし、その政権が実現する課題4つ、緊急措置5つがかかげられていることを紹介している。藤井氏はこの決議が十月革命の「性格や意味を明らかにする」のに重要だとして、現在十月革命クーデター説が横行しているときにとくに正確な理解が必要だと主張する。
 藤井氏の訳したトロツキー『ロシア革命史』第5巻の解題「トロツキーとソヴェト議会主義」の中でもこの決議の重要性が強調されている。トロツキーの考えるソヴェト権力の内実がここに示されていると言いたいようである。
 私も石井氏も、さらに1973年に『ロシヤ十月革命の研究』を刊行した長尾久氏も「革命的なプロレタリアートと農民の代表からなる政権」という言葉は現実を反映していないとみている。プロレタリア独裁、労働者国家と同じである。現実にあったのは、和田と石井がいう「ボリシェヴィキ主導のソヴィエト左派政権」、長尾のいう「協調派」を排除した「革命派」の政権である。
 藤井氏は、決議では党派の選別は行われていない。「排除されているのはコルニーロフ陰謀に加担した反革命=反ソヴェトの政治グループに限定されている」と強調するが、コルニーロフに加担したのはカデット党とサヴィンコフらの社会主義者だけだとしても、コルニーロフを最高総司令官にしたのはケレンスキーであり、カデット党と連立を組んできたのはエスエル、メンシェヴィキの右派である。政権の課題4つと緊急措置5つを実施することはエスエル、メンシェヴィキの右派の政策ではない。この決議は明らかにエスエル、メンシェヴィキ右派を政権より排除することを求めているというのが妥当な解釈である。
 藤井氏は史料の言葉だけからその政治的意味をみる方法に立っているようだ。それは思想史の方法かもしれないが、革命の政治史の方法ではない。「ソヴェト民主主義」とか、「ソヴェト議会主義」というのはあくまでも政治闘争の場で意味をもつ政治的な構想なのである。
 藤井氏は、この点と関連して菊地昌典氏の著書『ロシア革命』(中公新書)の記述を評価し、この本を参考書目から追放していることが不当だと言い立てているが、菊地氏の書物は著者とわれわれ研究仲間が話し合って絶版とすることを決めた書物である。いくつかの点で参考になる箇所があるとしても、本としては否定されたものである。藤井氏の意見は受け入れられない。

 (3)ケレンスキーの女装問題について
 藤井氏はケレンスキーが10月25日に首都を脱出したさい、女装して、アメリカ大使館の車を使ったという説を和田が1979年の各国史『ロシア史』以来採用しつづけてきたが、正しくないと批判している。たしかに私はこのことを1997年の世界史大系『ロシア史』第3巻までくりかえし記述してきた。
 藤井氏は考証をおこない、女装説はまったく根拠がなく、アメリカ大使館の車を使ったというのは、アメリカ大使館の車の先導をうけたということだろうとしている。
 ケレンスキーについては、十月革命が打倒した政権の主人であるために、十月革命派の側からさまざまな逆神話がつくられ、流されていた。この脱出の場面はその中心的なイメージだった。ケレンスキーは女装するのが好きだという噂も流されており、十月革命当時よりケレンスキーが看護婦の服を着て冬宮を脱出したという話がバルト海艦隊の水兵の中に流れていた。それがソ連の時代の多くの通俗的な文献や芸術的な文献にとりこまれた。私は女装してパリの宮殿から逃げ出したルイ16世の話との関連で、この話に強い意味を付与した。だが、1979年に最初にこの点について記述したとき、どの文献に依拠したのか、いまは定かでない。
 結果的に事実ではなかった女装説をその後一貫し書き続けてきたことは、反省すべき誤りであった。アメリカ大使館の車そのものに乗って脱出したというのも正しくないのだから、その点も誤りであった。
 2001年にいたり、山川出版社から『ヒストリカル・ガイド ロシア』を出したさい、ケレンスキーの脱出にかんする女装とアメリカ大使館の車の利用の二点について、従来の記述を改めるべきだと考えて、あえて脱出について触れ、従来と違う記述を行った。にもかかわらず、石井氏の記述に和田の古い記述と同じ説明が出ているのを見逃して、そのままにしてしまったのは、編者の責任である。この点を石井氏に話さなかったのは私の責任だ。

 最後に、藤井氏は新版各国史『ロシア史』の参考文献リストについて、氏が新訳して2001年に刊行したトロツキー『ロシア革命史』を加えなかったのは不当であると指摘している点については、この本についての評価を異にするが、いまは最終段階でも参考文献に加えればよかったと考えている。



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