藤井一行「和田春樹氏の『拉致疑惑検証』を検証する」
(2002年11月9日、www.ifujii.com)に反論する






                            和田 春樹

 昨年9月17日、平壌の日朝首脳会談で、日朝国交樹立早期実現の合意が生まれるととともに、北朝鮮の指導者が日本人拉致を認めて謝罪したあと、にわかに拉致問題を論じはじめ、日朝関係改善のために努力した人々を拉致問題棚上げ論者、「親朝派」だと非難する人々があらわれた。その皮切りは『文藝春秋』11月号に載った産経新聞「産経抄」担当の石井英夫氏の文章「親朝派知識人、無反省妄言録」であった。その中で、石井氏は私のことを「和田春樹氏は”安楽イス探偵”」だと決めつけ、「初めに拉致否定ありき。和田氏は初めから北朝鮮側の弁護人として事件を検証している。」、「日本人拉致事件が全貌をあらわしつつあるいま、和田安楽イス探偵がどうご自分の検証を”検証”されるのか楽しみである。」と書いた。
 平壌首脳会談のテレビ報道に「興奮して注目し」し、「犯人が拉致を認め、拉致被害者の運命について告白をしたときには、スターリン政権に感じたのに劣らぬ激怒をおぼえた」というロシア思想史研究家、トロツキー研究家の藤井一行氏は、先の石井氏の文章を読んで、旧知のロシア史家和田が拉致についての「もっとも権威ある疑惑否定論者」であったと知って、憤激したのか、和田の検証を検証することにしたのである。
 藤井氏はその検証の結果を長大な論稿にして、昨年11月9日インターネット上に発表した。私が知人からそのことを教えられたのは11月半ばのことであった。いまだその全文を読めずにいるうちに、かねてからの論争相手の一人が藤井氏の論稿に力をえて、私に反省を求める電話をかけてきた。私はいそいで藤井氏の論稿全文を通読したが、内容は面白くないもので、ただちに反論を書く気にならず、そのまま放置しておいた。その後私に対する攻撃批判はつぎつぎに現れ、とても反論しきれなかったのである。そうして4ヶ月がすぎた。最近になって、やはり藤井氏の議論に反論した方がよいと感じる契機が与えられた。そこで、遅まきながら、あえていま反論の筆をとる次第である。

 まずこの論稿の最初で藤井氏は和田の文章を読むと、推量語が多いことに気付くとして、「ほかにも氏の恣意的史料操作を問題にする学者がいることもわかったので」、なおさら検証してみる気になったと書き始めている。藤井氏のホームページでこの引用部分をクリックすると、塩川伸明氏(東京大学教授・現代ロシア政治)の文章が出てくる仕掛けになっているが、その文章では和田の著書『ペレストロイカーー成果と危機』、『歴史としての社会主義』に対する塩川氏の批判がのべられているだけで、私の「恣意的史料操作」を問題にしている箇所はない。最初からインターネットの技術を使って私に対する巧妙なマイナス・イメージづくりがなされていると言わざるを得ない。

 藤井氏の検証の中心は、金賢姫と安明進という二人の元北朝鮮工作員の証言についての和田の検証を退けて、二人は「北朝鮮の拉致犯罪の解明にあたって」「重要な生き証人」であると主張するところに置かれている。藤井氏には、これらの元工作員の証言の信頼度を検証するという問題意識がまったくない。だから、氏はこれらの証言の信頼度を検証しようとする私の営為をまったく理解しないのである。
 韓国と北朝鮮は激しく対立し、両国の情報機関は互いについての逆宣伝をながらく行ってきた。藤井氏はスターリン体制批判から北朝鮮の体制批判に関心をずらしているようだが、1990年代まで韓国の情報機関もさまざまな宣伝工作をおこなってきた。北朝鮮の工作員で韓国に逃れた人が北の体制や情報機関についてもたらす情報は検証が必要であり、公表された証言については、どこまでが真実で、どこからが元工作員を庇護する韓国情報機関の意をうけた逆宣伝かを見定めなければならない。情報操作を行うのはスターリン主義国家だけではないのである。藤井氏はそのような現代史の複雑性についてまるで理解をもっていない。

 金賢姫証言については、藤井氏は『忘れられない女・李恩恵先生との二十ヶ月』(文藝春秋、一九九五年)についての私の検証に触れている。この手記では「李恩恵から彼女が聞いたという」六件の情報を列挙し、この情報のすべてが「きわめて有力な拉致情報」であるとし、「犯人(金正日)が拉致について自供した現在、金賢姫の以上の証言は、基本的な点で真実を反映していることが判明した」と主張する。
 だが、私は二〇〇一年の論文で、この『忘れられない女』という本は村山内閣の与党三党の訪朝団が国交正常化早期実現をうたった共同声明を北朝鮮側と結んだ(1995年3月30日)あと、コメ30万トン援助を決定した日、6月30日に出版されたものであり、拉致された原敕晁、田口八重子氏が日本で忘れられているのは不当であり、日本は彼らの救出に全力をあげるべきだということを糾弾調でキャンペーンする書物であったことを指摘した。この本の背景には、日本の対朝政策に強く反発した金泳三政権の立場があったと私は見た。金賢姫は李恩恵の問題は最初から語っていた。しかし、この本で書かれた拉致された人に関する六件の情報ははじめて語られたものである。私は、この六件の情報は日本の世論に拉致問題をぶつけるために、むしろ韓国の情報機関が彼女に教えて書かせたものではないかと考えた。これはたしかに推測である。しかし、韓国の情報機関の保護下にある彼女の手記は彼女と情報機関のライターとの合作であるとみるのが自然であろう。
 藤井氏はこの六件の情報は「李恩恵から彼女が聞いた」ものとして紹介している。そうなると、これは拉致された人間が同じように拉致された人間について語ったこととなるのだが、これは藤井氏の誤読である。金賢姫の手記では、いろいろな国の人々が拉致されているという話を「招待所の食事係のおばさん」からきいたと書かれているのである。韓国の情報部が整理した情報を金賢姫の手記にもりこむのに好都合な設定である。反抗して全身傷だらけで連行されてきた人がいたとか、大工仕事を手伝う日本人男性とか、海岸から拉致されてきた日本人カップルが結婚式をあげたなどの話は、八八年の時点で日本政府が拉致疑惑のケースの中に、三組のカップルをあげており、うち一人の地村さんは大工の見習い修行中であることが知られていたのだから、それらの話を取り込んだのではないかと私は考えたのである。
 この他、「まだ高等学校に通っていた少女もいたという。その女性は金持ちの娘だったのか、自分のものを洗濯することもできなかった」という話と日本人女性が外国人男性と結婚させられたという話が書かれている。前者は横田めぐみさんをさすと言うことができるだろうか。後者はたしかに曽我ひとみさんのケースに合致している。しかし、なお一九九五年の金賢姫の手記が伝える六件の情報はきわめてあいまいな間接情報であり、韓国情報部がつかんでいた情報をとりこんだものであったのではないかと考える。
 金賢姫の証言として問題になるのは李恩恵についての証言のみであろう。ともあれ李恩恵の探索から田口八重子さんの拉致疑惑が認定されるにいたり、じっさいに田口八重子さんの拉致は認められた。その意味で金賢姫の李恩恵証言には価値があったことは間違いない。

 さて安明進証言については、私は詳しく検証したので、藤井氏も多くの分量をかけて再検証している。しかし、ここで奇妙にも、藤井氏は、本人が直接書いた手記は「直接証言」であり、日本人ジャーナリストに語ったことが記録されたのは「伝聞情報」であるとして、前者は後者よりも価値あるものとして、真っ先に紹介していることである。このような分類に意味はない。およそ歴史的な史料については、その時点での公文書、手紙、日記のたぐいは第一次史料、事件後の手記、回想、インタヴューは第二次史料と区分される。第二次史料にはとくにきびしい史料批判が必要とされる。本人が書いたものであれ、語ったものであれ、事後的な史料はすべて第二次史料として等価である。この歴史学の初歩的手続に対して藤井氏が無関心であることは驚きであった。そもそも藤井氏は証言を検証する必要など感じていないのである。藤井氏は「私自身は、安の間接証言や直接証言の検討を通じてそこになんらの問題も見いださなかった。すなおに一級の証言として受けとめることができる。」と言い切っている。
 第二次史料たる安明進の証言を検証するために用いる手段は本来は他の証言者の証言とのクロスチェックでなければならない。しかし、それが不可能である以上、当人の証言の時間的変化のあとづけから問題点がないかをみるという以外にはない。だからわたしは、二〇〇一年の論文では、石高氏が伝える一九九五年六月の証言、一一月の証言、高世仁氏が伝える一九九七年二月の証言、石高氏が伝える九七年三月の証言、そして手記に語られた一九九八年の証言の間の異動を調べた。その後安明進は日本人拉致について九四年の段階で最初にAERAの記者に語っていたことがわかった。検証の結果、私は、安明進の九五年の証言と九七年の証言に問題のある変化がおこっていることを発見し、安明進証言は信頼できないとの結論に達したのである。
 安明進は九四年のAERAとの最初のインタヴューにおいてすでに自分の本名と顔写真を出し、自分の叔父の妻が北朝鮮の実力者張成沢(金正日の義弟)の妹であるから、平壌の家族のことは心配ないと述べていた。最初から北朝鮮について暴露的な話をすることを自制していなかった。だから、時とともに抑制が取れて、自由に話すことができるようになったということはこの人の場合にはない。
 日本人の拉致については最初から訊かれていたのだが、安明進は九四年には自分の日本語先生のことを話しただけだった。しかし、九五年には、拉致されたとされる日本人の写真を見せられて、市川修一さんを見たと語った。日本人女性のことを尋ねられたが、女性は二、三人いたとしか答えなかった。九七年には横田めぐみさんの記事が報道されていることをきき、写真をみせられて、彼女に会ったと話したのである。金正日政治軍事大学の中の日本人の状況について語るさい、九五年には、年に数回党幹部の講義を特別会議室で受けている日本人を見た、通路から中を覗いて顔をみたと述べたが、九七年には式典会場での式典に日本人教官が参加した、横田さんがその一人だったと述べた。
 この状況説明があまりに違いすぎるという私の指摘に対して、藤井氏は、会議室の講義と大会議室での式典では場面が違う、「大学は同じでも別の時期の別の事柄なのだから」、食い違いはあたりまえだと主張する。そして式典と特別講義という二つの場面はつねに併存していたのだという。式典が常に行われていたのは間違いないだろう。しかし、九五年の説明では日本人をみたのは特別講義室でだけで、式典で日本人に会ったということは述べられていない。九七年になると、特別講義室をのぞいて日本人をみたという話はもはや語られない。もとより九五年には特別講義について質問されたわけではないし、九七年には式典について質問されたわけではない。質問はつねに大学の中での日本人との出会いについてであった。
 だから、私は、安明進の話の変化は記憶が時とともに鮮明、豊富になっていくというものではなく、「まったく別の話で前に語ったことを否定しているのである」と主張したのである。しかし、藤井氏は二つの場面は別個のものなのに、和田は「同じ状況、同じ場面についての異なる証言だと思いこんでしまっている」として、「事態は明白である。錯覚である。テキストの誤読である」と結論している。さらに和田が錯覚に気付かないことは信じられないと大仰に驚いて見せている。氏の論理は徹頭徹尾形式的であり、機械的である。
 さらに安明進は九五年には、日本からの拉致を語った教官をぺとよび、彼が日本から二人を拉致してきたと語ったと述べているだけであるのに、九七年には自分の教官が日本から横田めぐみさんを拉致してきたと語り、式典会場にいる女性が彼女だと指さしたと述べ、この教官をチョンとよんでいる。この食い違いに私は重要な意味を与えた。しかし、藤井氏はこれは別人なのだから、話が違って当然だと、これまた形式的な論理で対応している。ぺとチョンという二人の教官がいたのなら、なぜ日本人拉致のことを訊かれたのに、九五年にはぺ教官のことだけを思い出し、九七年になってチョン教官の話を語りだしたのかが説明つかない。九五年にチョン教官のことを思い出さなかったのはなぜか。チョン教官の話は、目の前の日本人女性を指さして、自分が少女時代の彼女を拉致してきたというものであり、ぺ教官の話よりはるかに衝撃的な、具体的な話なのである。
 藤井氏は安明進証言について、次のように結論している。「安は手記に『私が書いているこの文書が事実なのか嘘なのかは・・・遠くないうちに必ず事実として証明されると信じている』と記した・・・が、犯人自供後の現在では、それはみごとに証明された! それどころか、安証言にはきわめて多くの貴重な証言が含まれていることがわかった。安明進も、北朝鮮による外国人拉致疑惑の解明と被害者救済に多大な寄与をなしうる得難い生き証人である。」
 横田めぐみさんが拉致されていたことが事実であったからと言って、そのことだけでは、拉致された横田めぐみさんに会ったという安明進氏の証言が信頼できるものだとは立証されない。
 九月一七日以後も、安明進はつぎつぎと新しい人に会ったことを思い出していることが報道されている。北朝鮮にいる横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんが渡した二〇代前半のめぐみさんの写真を見せられたときも、安明進はただちにこの人が私が大学で会った人だと言い切った。ところで、一九九七年には、横田めぐみさんの拉致以前の一三歳当時の写真を見て、彼女に会ったと語りだしたのである。二つの写真の間には、全く別人のようにみえる変化がある。キム・ヘギョンさんから来た写真をみたご両親もこれが娘のめぐみさんなのかどうか、迷われたと報道されている。この写真がめぐみさんの写真だということは専門家の鑑定によってようやく答が出たのである。それなのに、安明進は一三歳のめぐみさんの写真をみて、自分の記憶の中の二〇代前半の女性の顔と同一人物だと答えを出したことになる。安明進がキム・ヘギョンさんの写真の女性に実際に会っていたなら、一三歳のめぐみさんの写真をみて、同一人物だと即断することは到底不可能であったろう。安明進証言に対する私の疑惑は九月一七日以降も深まっている。
 以上、藤井氏の論稿の中心的な論点について反論した。藤井氏は一九世紀前半ロシアのベリンスキーという思想家の研究をながくした。たしかにベリンスキーの世界では回想や証言が政治的な動機で操作されることはなかったであろう。しかし、のちに藤井氏はスターリンとトロツキーの対立について研究し、ゴルバチョフ改革がトロツキーの遺言を実行するものではないかというような議論も展開して、現代史について発言した。現代は証言や情報が悪魔的に操作される時代であった。スターリンは政治的にうそをついていたが、トロツキーの陣営はつねに真実のみを語っていたと簡単に前提することはできないはずである。歴史家はすべての証言を疑ってかかる者だと私は考える。

                          二〇〇三年三月一七日



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