東北アジアの領土問題に関する日本の見方

韓国国際政治学会主催シンポジウム「東北アジアの領土問題」での報告 2007年11月22日





 まえがき

 東アジア、東北アジアの領土問題は、中露間の問題が解決し、台湾問題を領土問題に入れるのは無理があるとすれば、三つある。日露間の北方4島問題、日韓間の独島=竹島問題、日中間の尖閣列島=魚釣島問題である。このうち日本では、最初の二つの問題は、日本の「固有領土」が外国により不当に占領ないし占拠されていて、日本として返還をもとめているケースと考えられている。これにひきかえ、尖閣列島の問題は、日本が実効支配している領土に対して外国が不当な要求を出しているケースだと考えられている。これら三つの問題を東北アジア地域の領土問題として一括してとらえる態度はほとんどないし、北方4島問題と竹島=独島問題を日本の領土問題として、一括して考え、解決しようとする態度もない。

 私自身北方4島問題について1986年から考えはじめ、3冊の著書を書き、その解決のために20年来考えてきた者だが1)、2005年までは竹島=独島問題を真剣に考えたことがなく、その後も二つの問題を一括して検討し、考えたことはなかった。本報告ではできるかぎり二つの問題を一括してとらえ、検討し、解決することを考え、のこる一つの問題にその結論をおよぼせるかどうかを最後に述べることにしたい。

 

 問題の発生――敗戦、占領、領土処理

 領土問題は1945年8月14日日本が米・英・中国・ソ連4カ国のポツダム宣言を受諾して、降伏したことから発した問題である。50年にわたる日本の戦争が終わり、日本の植民地支配も終わった。そのことに伴って、以後日本の領土はどうなるかが決められることになったのである。ポツダム宣言はその第8条において「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並に吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と定めていた。どの島が日本の領土に属すか、どの島が属さないか、それを連合国が決定することが通告されたのである。

 1946年1月29日、連合国総司令部は「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」を発した。まず日本の範囲に含まれる地域をあげ、ついで「日本の範囲から除かれる地域」として、朝鮮に属すと考えられる「鬱陵島、竹島、済州島」、アメリカの軍政下にある沖縄、小笠原諸島、ソ連が占領した「クリル(千島)列島、歯舞諸島・・・、色丹島」を挙げたのである。そして、日本の「管轄権から特に除外せられたる地域」として、太平洋の委任統治領、満州、台湾、、朝鮮、樺太」があげられた。この覚書には、たしかに、この条項は、ポツダム宣言の第8条にある「諸小島の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」との但し書きが含められていたが、それでも当然ながら、この覚書の規定はある程度日本の領土についての予測を可能にするものであった。関係国がそのように受け取ったことは否定できない。しかし、日本には日本にのこされるべき領土についての意見があった。こののち日本の領土は、アメリカ、中国、ソ連といった戦勝国と日本の植民地支配から脱した朝鮮がどのような要求を出し、それに日本がどのように対応するかで決められていくことになるのである。

 残される領土、失う領土についての日本の態度は、それぞれの国との戦争、および植民地支配をどのように考えているかによって影響をうけた。アメリカは日本に対する戦争の中心勢力であり、沖縄を激しい戦闘の結果占領した。したがって、沖縄をアメリカが支配するのはやむをえないと考えられた。降伏前ソ連に和平を依頼する工作に向かうため近衛文麿が作成させた領土案では、沖縄、小笠原は樺太とともに放棄することになっていた2)。中国では満州事変以来15年間も連続的に侵略的な戦争をおこなったので、カイロ宣言もあり、台湾、澎湖諸島の放棄は当然のことと考えられた。しかし、ソ連は中立条約がなお有効であるのに、それを破って攻撃したこと、満州開拓民の悲劇をつくりだしたこと、60万人の捕虜を抑留し、うち6万人をシベリアで死なせることなどに対する国民的反撥が存在した。、南樺太、千島列島を占領し、歯舞群島まで自国領と宣言したこと自体が反撥の重要な要素であった。政府も国民もソ連に対しては日本が被害をもたらしたとは考えず、むしろあらゆる意味で日本が被害者だと考えていた。したがって、ソ連とは領土を争うことができるし、争ってよいと考えられた。朝鮮については、日本が36年間も植民地として支配したことに対する反省は政府にも国民にもなかった。朝鮮は日本の一部であったものが、今度は分かれたと考えられており、戦勝国のように要求を出してくること自体が受け入れられなかった3)。したがって、この場合も、領土問題は十分争えると考えられたのである。

 日本外務省は講和に向けた準備を1946年から開始し、領土問題については7冊の資料を作成し、米国に提出した。そのうち、「琉球と南西諸島」、「対馬」の2冊だけが公開されているだけである。しかし、1946年11月提出の「千島、歯舞、色丹」は原貴美恵氏がオーストラリア公文書館で閲覧に成功し、1947年6月提出の「太平洋及び日本海小諸島」は韓国人学者鄭スンファ氏がアメリカの国立文書館で閲覧に成功した。

 まず前者では、「クリル列島に対する日本の主権はそのとき(1975年)以来一度も論議の対象になっていない」ということが述べられ、択捉、国後島は「南クリル」、それ以外は「北クリル」と分けられている。さらに「歯舞群島と色丹島は地形学的、地質学的に北海道の根室半島の延長だと考えられるべきである。歯舞群島と色丹島のグループはクリル列島に含められる場合があるが、地質学者は二つのグループは構造地質学的に区別されるべきだという点で一致している。」4)と書かれている。千島列島はロシアとの条約で平和的に日本の領土となったものであり、全体が日本の領土と認められるべきだという主張であり、歯舞、色丹島は北海道の一部と主張できると、冷静で、合理的な主張を出している。

 後者では、鬱陵島と竹島をとりあげ、日本は両島とも長い歴史的、地理的な関係をもっていたことを強調している。竹島は1905年に日本の領土の一部となった、「この島には朝鮮式の名前がなく」、「朝鮮で作成された地図にも載っていない」ので、朝鮮は竹島の領有権を主張できないと書き、鬱陵島については、日本本土と地理学的類似性があり、植生も共通性がある、朝鮮はかってこの島を領有していたが、定住者が来たのは「わずか数十年前」であり、島の発展は「なお初期段階」にある、朝鮮政府にとってこの島を発展させることは能力にあまるので、日本がこの島に責任をもつべきである」と書かれている5)。朝鮮の独立という事態に直面しながら、鬱陵島まで領土要求するという余りに厚顔な外務省官僚の態度には慄然とせざるをえない。竹島についてはほとんど詳しい知識がないまま、日本領だと主張している。

 韓国政府はこのときもっとも重視して主張したの対馬に関する要求であった。。その意味は植民地支配に対する賠償として対馬を割譲せよというところにあった。1949年元旦の演説で李大統領は戦争賠償の一形態として対馬の引き渡しを要求すると声明した。外務省が1949年7月に作成した「対馬」に関する資料はこの韓国側の要求に対する対抗措置として作成されたのである6)。33頁もあるこの資料は日朝交流における対馬の重要な役割をも詳述しているが、終始対馬は日本に属していたことを指摘している。付録として「対馬の朝鮮人問題」をとりあげ、2921人いる対馬の朝鮮人はみな左翼系の朝連に組織されていることを指摘し、李承晩大統領が対馬を要求したことについては、朝連は「帝国主義的」だと批判しているが、朝青も、朝鮮人学校もみな共産主義者に指導されている、密入国が甚だ多いと警鐘をならしている7)。

 つまり韓国は対馬の引き渡しを要求し、日本は鬱陵島と竹島を要求して、対立していたのである。

 

 サンフランシスコ講和条約

 講和条約の準備はアメリカが主動した。米国務省で、1947年3月以来数次にわたり講和条約案を作成したが、そこには、北方4島、すなわち択捉、国後、色丹島、歯舞群島を日本領にのこしてやりたいという気持ちが、クリル列島をソ連にわたすという約束とをどのように調整できるかということでの悩みが反映されていた8)。竹島問題については、一貫して「リアンクール岩(竹島)」は朝鮮領と認めることとなっていた9)。そのような試行錯誤の結果、作成された1949年11月2日の案では、日本がクリル列島をソ連に割譲する、「朝鮮のために朝鮮本土と済州島、巨文島、鬱陵島、竹島をふくむ沿岸諸島に対する一切の権限を放棄する」ことが定められていた。したがって、日本の領土として規定されたものの中には、北方4島も竹島も入っていなかった。わずかに北方4島の日本帰属を提案するかどうかについて未決定であり、日本が提案したら、「好意的な態度を示す」のがよいという註がつけられていた10)。この案を東京の連合国総司令部におくると、政治顧問シーボルトが日本側の要請を容れて、北方4島と竹島を日本領にのこすように修正することを提案してきた。北方4島が「クリル列島の一部をなすという主張は歴史的によわく、これらの島は・・・日本にとって遙かに大きな航海上、漁業上の意義をもっている」、竹島についての「日本の主張は古く、かつ有効であり、これらの島を朝鮮の沿岸の島と見なすのは難しい。安全保障の考慮からしても、これらの島に気象、レーダー基地をおくことが米国の利益となると考えられる」との理由が述べられた11)。

 だが、国務省内でクリル列島の定義問題をあらためて検討した結果、択捉、国後島がクリル列島には含まれないとすることは無理であるとの結論が出た。他方竹島問題は検討されなかった。そこで12月29日の修正案では、クリル列島割譲はそのままのこされ、歯舞諸島、色丹島と竹島だけが日本領として明記された。そして朝鮮のために日本が放棄する沿岸諸島のリストから竹島はけずられたのである12)。北方2島と竹島だけは日本にのこそうというのがアメリカの結論であったごとくである。

 その後イギリス案とのすりあわせがおこなわれた。イギリス側の4月草案では、歯舞群島、色丹島を日本領として定義しており、竹島については朝鮮に帰属させることになっていた13)。アメリカ案は修正され、1951年5月の米英共同案となり、それが最終的にはダレスの方針で、書き直され、1951年7月に条約文最終案となった。ここにおいて日本領の明記はすべてなくなり、ソ連への割譲の規定もなくなった。クリル列島に対する日本の権利放棄のみが規定され、朝鮮の独立の承認にあわせて、「済州島、巨文島、及び鬱陵島を含む朝鮮への権利の放棄が明記されたのである。

 日本が放棄したクリル列島については、当時まで国際社会で一般的に考えられていた定義が前提にされることになる。となれば、択捉、国後島は当然に含められる。さらに色丹島も含められるのが普通である。アメリカの代表ダレスは講和会議の席上、「クリル諸島という地理的名称が歯舞群島を含むかどうかについて若干の質問」があったが、「歯舞をふくまない」というのが米国の立場であると明言した14)。これでは色丹島は日本が放棄したクリル列島に入っているということである。しかし、日本の代表吉田茂は、歯舞、色丹は「日本の本土たる北海道の一部をなす」と明言して、辛うじて留保を記録にのこすことに成功した。

 韓国はサンフランシスコ講和条約に参加できなかったが、最終条約文案を見せられて、最初は対馬と独島の、最後には独島だけの朝鮮帰属を明示するように要求した。しかし、1951年8月10日ラスク次官補は、独島ないし竹島は「朝鮮の一部として取り扱われた事が一度もなく」「かって朝鮮によって領有が主張されたことがあるとは思われない」と述べて、修正を拒絶した15)。その結果、竹島は朝鮮領の島の中に挙げられなかったわけだが、アメリカの意見は意見として、講和条約のテキストとしてみるかぎり、竹島が日本領であると明記されていないことも事実である。

 この結果、サンフランシスコ条約は北方2島と竹島の帰属問題をあいまいにしたということができる。

 

 二国間での処理

 あいまいにされた領土問題はそれぞれ関係国との2国間での交渉によって処理されることになる。

 韓国の方では、1947年には、米軍政下の朝鮮過渡政府の民政長官安在鴻が独島に調査団を送っている。1948年には米軍の爆撃演習で独島に来た韓国漁民が死傷する事件もおこっている16)。1950年からはじまった朝鮮戦争がひとまず戦線の安定をみた段階で、韓国は52年1月18日に李ラインを設定し、その内側に竹島をふくめたのである。これに対して、日本政府は1月28日韓国政府が竹島に対する領土権を主張しても、認めないとの抗議の口上書を渡している17)。

 1952年2月25日には植民地関係の清算のための日韓会談が正式にはじまった。この会談は難航した。53年10月、第三次会談の分科会での久保田発言に韓国側が抗議し、日韓会談は決裂した。日本側代表久保田貫一郎は、韓国側が36年間の日本支配で蒙った被害に対する補償を云々するなら、日本側も総督政治がもたらした多くの益についての補償を要求する権利をもつと言い、日本が占領しなければ、韓国は別の国に占領され、もっとミゼラブルな状態におかれただろう、カイロ宣言の「朝鮮の奴隷状態」という言葉は「戦争中の興奮状態の表現」だと述べたのである。つまり、当時の日本外務省は日本の植民地支配は二国間の有効な条約にもとづいた合意の関係であり、日本側から謝罪も反省もする必要は一切ないと考えていたのである。このような認識が、植民地支配をやめた日本の認識であり、植民地支配を脱して独立した韓国との間で領土を争うことの前提にあったのである。

 53年3月米軍が竹島を射爆場に使うことをやめたのち、独島=竹島に日韓双方が領土標識を立てるなど、衝突があった18)。日本は1953年7月13日、「竹島に関する日本政府の見解」なる文書を韓国におくった。「今の竹島は古く松島の名によってわが国に知られ、その版図の一部と考えられていたことは、文献、古地図からも明らかである。」

 「竹島が日本の領土であることは国際法上からみても疑問の余地がない。」韓国側の回答は9月9日に送られている。「真実の歴史的事実は、独島が韓国領土の一部であることを示している」として、資料を引用した主張を行った19)。これに対して、日本政府は54年2月10日に再反論をおくった。韓国側の「文献や事実の引用は不正確であり、またこれに対する解釈も誤解にみちていて、韓国側の主張の裏付けるものではない」として、詳細な批判を加えた20)。その中で特徴的であったのは、韓国側が1904年と1905年の日本の朝鮮支配の動きに関連して、「日本人外交顧問」を強制したこと、戦略的見地から韓国領土のどの部分も占領できたと述べているのに対して、送られた「外交顧問」は日本人でなくアメリカ人であり、日露戦争にさいして「韓国の領土保全の目的」のために、必要な地点を「一時的に使用」すると取り決めたにすぎないと、支配の契機を否定し去ったことである。竹島問題を論ずるさい、日本が朝鮮に支配をひろげ、国を奪う過程での出来事であったことを完全に否定して、「竹島の日本領有は、疑問の余地がない」と主張したのである21)。これに対して、6月韓国政府は竹島を日本の侵略から守れとの命令を発し、駐留部隊を派遣して、これを占領した。韓国側の再々反論は9月25日に発出された。日本はすでにこの日、竹島問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案した。「竹島は史実からみても古来日本国領土の一部であることは明白であり、国際上もこれに何らの疑念をはさむ余地は存しない。」「竹島はあらゆる角度からみて完全な日本国領土である。」22) しかし、韓国側は国際司法裁判所に付託する理由がないとして、日本側の提案を拒否する口上書を10月28日に送った。

 日本側は1956年9月20日に第三の書簡をおくり、「竹島領有の正当性を決定するための最も基本的な問題は、日韓両国のいずれが、竹島について早くから正確な知識をもち、それをその領土の一部と考え、また実際にこれを経営してきたか、ことにそのいずれかの政府が、竹島について国際法上必要とされる領土取得の要件を満たしてきているかを明らかにすることにある」とした23)。そして17世紀の文献から検討し、一層詳細に主張を展開した。韓国側は3年後の59年になって回答を出した。

 このように領土をめぐる争いを歴史学的論争を通じて黒白をつけようとする日本側の態度はきわめて異例なことである。この論争において、日本はたえず主導的であり、自らの議論を絶対化させ、非妥協的なものにしていった。このような議論の仕方が久保田発言に示された歴史認識に支えられていることは明らかである。問われていたのは、植民地支配が終わった時点での両国間の領土の確定であった。この問題に対する韓国の側の基本的な姿勢は、1954年9月にビョン・栄泰外務部長官が述べた談話に現れている。

 「独島は日本の韓国侵略に対する最初の犠牲者だ。日本の敗戦とともに独島は再び我々の懐に抱かれた。独島は韓国独立の象徴だ。この島に手を付ける者は我が民族の頑強な抵抗を覚悟せよ。独島は、ただいくつかの岩塊でなく、我が民族の栄誉のイカリだ。これを失ってどうして独立を保つことができるだろうか。日本が独島を奪取しようとすることは即ち韓国に対する再侵略を意味することであることを忘れてはならない。」24)

 この完全にすれ違いに終わった日韓領土論争は、日本とソ連との領土交渉、領土論争に直接的な影響を及ぼした25)。

 サンフランシスコ条約のあと、日本はソ連に対して歯舞、色丹の2島の返還を求めていた。1955年に鳩山内閣が日ソ国交交渉をはじめるときの領土要求は2島の返還であり、それがみたされれば、国交を樹立するとの訓令が出されていた。しかし、ソ連が2島引き渡しを申し出ると、もうすこし交渉して、より多くの獲得をめざそうとする重光外相の路線と2島返還での妥結を回避するため、4島要求を逆提案すべきだという吉田派の路線がむすびついて、4島返還論が打ち出された。ソ連はこれを拒否した。

 1956年に重光外相が全権となってモスクワに赴き、4島返還を求めて交渉を行った。このとき、重光が出したのが、4島はわが国の「固有の領土」であるという主張だった。サンフランシスコ条約でクリル列島を放棄したことは問題にならない。「固有の領土」は「カイロ宣言」の領土不拡大の原則からして、放棄をもとめられるはずはない。この論理は、竹島をめぐる韓国との論争で鍛え上げた立場であった。

 だが、ソ連は2島返還以外には進まない。そこで戦争中の外務大臣で、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印し、A級戦犯として服役し、敗者の立場を知る重光は2島返還で平和条約を調印しようとした。しかし、4島返還の自由民主党の新党議にしばられた鳩山首相はこれを承認しなかった。重光は調印を断念して、モスクワをひきあげる。ここで鳩山首相が領土問題を棚上げして、国交を樹立するため、モスクワ行きを決断する。出発直前、2島返還で平和条約をむすび、のこり2島は継続交渉と明記させよという新党議が出される。モスクワに来た鳩山首相は2島の返還を獲得して、のこりは継続審議ということにしたいとの新提案をソ連側にすることをよぎなくされた。フルシチョフは、平和条約を結んだあと、2島を渡すということに同意するが、のこりの島についての継続協議には同意しない。継続協議にはあいまいさを残しながら、1956年10月19日、日ソ共同宣言が結ばれた。

 そこには、次のように書かれた。「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、・・・平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」26)

 ロシア語では「日本の要望にこたえ、かつ日本国家の利益を考慮して・・・日本に引き渡す」となるこの判断は実に重要な原理である。領土問題での回答を出すことは、おそらくこの原理をもってしかできないのではなかろうか。

 だが、米国の同盟国としての日本は冷戦の中でソ連との緊張を必要とした。北方4島要求は日ソ関係を緊張させるために使われた。アメリカの支持のもとに、日本は4島返還をあらためて強力に主張しはじめた。1960年、日米安保条約の改訂が行われると、ソ連は1月27日の覚書で、安保条約改訂に抗議して、2島の引き渡しの条件として、日本からの全外国軍隊の撤退を加えると通知したのである。日本は2月5日、これに抗議し、「歯舞群島、色丹島のみならず他の日本固有の領土の返還をあくまでも主張する」と述べた27)。そして、さらなるソ連の再反論に対して、3月1日に再々反論の覚書を提出した。「日本国民は固有の領土たる国後、択捉の両島の引き渡しを求めるのは当然のことと考えている。」28)

 1961年になると、退陣した岸首相にかわった池田首相は、10月3日、サンフランシスコ条約で日本が権利を放棄したクリル列島には択捉、国後島は含まれていない、そもそも南千島なるものは存在しないと国会で宣言し、この見解に立って、11月15日フルシチョフに書簡を送った。これは公然たる対決の論理であった。12月8日のフルシチョフの返書は池田の主張を斥け、もはや2島返還には触れなかった。ソ連はこのとき以降、領土問題は存在しないという立場をとるようになるのである。これまた対決の論理である。

 「固有の領土」論による北方4島返還の要求は、日本にとって、日ソ関係を緊張させておくための手段であった。この要求が拒否され、問題が解決しないことが日米関係の強化のためにプラスであった。冷戦の時代には、北方領土問題は十分に有効に機能したのである。

 1962年に日本は竹島問題についての新たな口上書を韓国におくったが、その中で「古くより一国の固有の領土であるか否か」と切り出して、「明治初期においても日本国政府が竹島を日本固有の領土として認識し」ていたと述べた29)。「固有の領土」という日ソ論争でつくられた言葉がこんどは日韓論争にもちこまれたのである。

 「固有の領土」論による竹島問題は日韓関係にどのような影響をもったのであろうか。久保田発言で決裂していた日韓会談は58年から再開されていたが、1961年の朴正煕政権の誕生のあとから妥結に向かって進み、1965年に日韓条約が調印されるのである。この過程で、日本はしばしば竹島問題の審議を持ち出したが、韓国側はその問題について取り上げることを一貫して回避した。日本は最後まで、植民地支配は合意による併合の結果であり、いかなる反省も謝罪もないという態度を貫いたが、竹島問題は日本が韓国側に圧力をかけ、その要求水準を下げさせるのに役立ったと考えられる30)。

 

 状況の変化、失敗した努力

 1980年代の末になると、東北アジアに新しい状況が生まれ、二国間の領土問題を解決することが可能であり、必要にもなった。まず韓国では、1987年6月、市民革命がついに実現し、軍事政権が終わりをつげた。日韓が真に和解する条件ができた。韓国の動きが日本にもよい影響を及ぼし、朝鮮植民地支配に対する反省、謝罪の空気が日本の社会の中に生まれた。1995年8月15日には植民地支配がもたらした損害と苦痛に対する反省とお詫びを表明した村山談話が出された。となれば、竹島=独島問題を議論する前提が変化するということである。だが、そのような変化は生じなかった。日本人は竹島問題を忘れていた。

 時を同じくして、ソ連でペレストロイカがはじまった。ゴルバチョフの積極的な新思考外交で、米ソ冷戦は終了に向かった。米ソが和解に向かえば、日ソ関係を緊張したものにしておくために、解決できないことが重要であった北方領土問題は、解決しうるもの、解決すべきものに変わるのである。日本国民の中に北方領土問題解決への期待が生まれ、4島返還は国民的な希望となった。しかし、冷戦時代にできあがった対決の論理を変えることは容易ではなかった。日本は択捉、国後島はクリルではないという論理を変えられず、四島一括返還論への執着は交渉の進展をさまたげた。そしてゴルバチョフも1956年共同宣言で与えた二島返還の約束を再確認することすらできなかった。

 1991年にソ連が終焉し、あとを受け継いだロシア連邦のエリツィン政権は問題解決のイニシアティヴをとろうとして、1992年、2島返還、2島交渉という形で、領土問題の打開をはかることをひそかに日本側に打診したが、4島一括返還が可能だと考える日本政府は応ぜず、機会は逃された31)。

 ようやく1996年にいたり、新任の東郷和彦欧亜局審議官を中心に、交渉を通じて問題の解決をはかる精神に立った新しい対露外交のチームが日本外務省の中に生まれた。97年7月に橋本首相はユーラシア新外交を唱える経済同友会演説を行い、エリツィン大統領からよい反応をえた。11月クラスノヤルスクでの非公式会談で、エリツィンは橋本に2000年までに平和条約の調印に努力しようと述べた。そこで、東郷チームは、国境画定という枠の中で、4島に対する日本の主権さえ認めてくれれば、いつ返してくれてもいいという川奈提案を4島一括返還要求の線上でのギリギリの譲歩案として用意した。東郷を支えていた情報局分析課の佐藤優主任分析官の発想であった32)。川奈での第二回非公式会談で橋本からこの案を聞かされたエリツィンは興味を示したが、帰国直後から経済的、政治的危機に見舞われ、肉体的な力も失った彼にはこの案でロシア国民を説得することができなかった。4島一括返還という主張はついにぎりぎりの譲歩案でも受け入れられなかった。転換は必至だった。

 エリツィンは川奈提案を拒むとともに、二段階条約案を提案していた。第一段階は4島共同統治を決める条約で、第二段階が国境画定条約と説明された。川奈提案の失敗で混乱している日本側はこの案に対応できなかった。

 1999年夏エリツィンが退陣し、プーチン新大統領が生まれた。2000年9月の訪日のさい、プーチンが川奈提案の拒否を最終的に確認した上で、1956年の日ソ共同宣言の有効性を確認する意向を示したことから、新しい転換が可能になった。4島一括返還論から、2島引き渡しの約束を再確認させ、のこる択捉、国後島についてさらに交渉するという段階論、4島段階交渉論への転換である。この困難な転換で外務省を助けたのが鈴木宗男議員であった。森首相と結んで追求されたこの路線は2001年4月のイルクーツク声明で結実をみた。プーチンは日ソ共同宣言を全面的に認め、NHKとのインタヴユーで2島返還の約束は義務的なものだと明言した。さらにのこり2島について交渉していくことは4島帰属問題を解決する交渉を声明で明言したことで担保された。これは画期的な前進であった。

 しかし、これに対して外務省の内部にも、専門家の間にも、政界にも、メディアにも、強い反発がおこり、これでは二島返還論になり、国益をそこなうとの非難があびせられた。2002年2月にはじまる鈴木宗男騒動の根源はここにある。現象的には、鈴木議員の数々の不始末や不当行為、専横が批判され、社会的に糾弾された。鈴木議員は逮捕された。東郷元局長はオランダ大使を解任されて、外務省を追われ、国外に亡命した。東郷局長の部下で、鈴木議員の協力者であった佐藤優主任分析官は逮捕された。

 この結果、イルクーツク声明は忘れられ、日本側にとっての領土問題は四島一括返還要求に逆戻りした。日露領土問題の交渉は停止した。

 

 和解と共生へ――領土問題逆転の時

 2005年、竹島問題については、ある事件を契機に激しい嵐が生じた。この年、島根県議会が「竹島の日」条例を制定し、韓国側の激烈な反撥をよびおこしたのである。

 島根県側は竹島が島根県領となった1905年から100年になったということを記念して、この条例制定に向かったのだが、はからずも、この年は日本が韓国を保護国とした乙巳条約から100年であった。韓国側の怒りの爆発によって、竹島が日本領になった事情が誰の目にも明らかになったのである。

 この条例制定を推進したのは、県会議員細田重雄氏が会長をつとめる県議会竹島領土権確立議員連盟である。この議連は2002年に発足したものだが、その背後には、竹島周辺で認められている漁業が韓国船の妨害をうけて十分にできないという島根県の漁業関係者の不満があるとみられている。議連事務局長上代義郎氏は、これまでの抑留者4000人、拿捕300隻以上、死傷者40人以上を出している、と述べ、今回の行動は「竹島問題の風化を懸念しての行動」だと主張した33)。細田氏の実兄は官房長官細田博之氏である。細田博之氏は国政に責任ある立場であってみれば、日韓関係を悪化させることをよしとするはずはない。

 島根県は環日本海協力推進の中心県のひとつであり、とくに韓国の慶尚北道に本部がおかれた東北亜自治団体聯合(北東アジア自治体連合)NEAR(The Association of North East Asian Regional Governments) の日本側窓口である。県立大学には北東アジア地域研究センター(NEARセンター)が存在し、慶北大学とは姉妹大学である。当然にこのような条例の制定には島根県の内部からも批判の声があったはずである。

 それでいて、あえてこのような条例の制定が推進されたのは、問題が解決されないままに時がすぎていくことへの焦慮があったと考えられる。冷静な論調を続けている『山陰中央新報』は条例が成立した3月17日の論説で、「外務省が『いま無用な摩擦を避けたい』とするのなら、ことあるごとに公式見解を述べるだけでなく、竹島問題をどうするのか、その決意と処方せんを示すべきだろう」、「このまま水掛け論を続けていては、『百年河清をまつ』に等しい」と述べたのは、この事態をチャンスとして生かすように求めたものである34)。

 島根県の動きは韓国側の激烈な反応をよびおこした。3月17日には国家安全保障会議常任委員会声明を統一部長官鄭東泳氏が発表した。この声明は、独島を「過去の植民地侵略の過程で強制的に編入させられたが、解放によって回復したわが領土」だと規定している。この言葉は、日本人に問題の抜本的な解決を考えることを迫まるものであった。

 ハンギョレ新聞に毎月コラムを寄稿していた私は、3月21日のコラムで、この鄭東泳声明に反論することはできない、植民地支配を反省し、謝罪するなら、竹島への領有権主張を取り下げなければならないという韓国側の主張には妥協の余地はないようだ、だから、「過去の植民地支配を反省し、謝罪する気持ちから韓国の独島領有を認める」と言ったらどうかと提案した。6日後、朝日新聞論説主幹若宮啓文氏が3月27日に「風考計」という自らのコラムで、「今回思い知ったのは島に寄せる彼らの深い情念だった」、「竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。見返りに韓国はこの英断をたたえ、島を『友情島』と呼ぶ。周辺の漁業権を将来にわたって日本に認めることを約束」する、と書いた。さらに日韓交流史の専門家、津田塾大学教授高崎宗司氏が、6月3−4日に韓国で開かれた乙巳条約100年、日韓条約40年記念のシンポジウムで「文化財問題と竹島=独島問題」について報告し、次のように述べたのである。

 「私は、竹島が歴史的にも国際法的にも明々白々たる韓国の領土であるとは思わないし、日本領土であるという証明がなされているとも思わない。しかし、少なくとも1905年に日本のとったいくつかの措置は不当であったと思う。・・・したがってここは再び、政治決断で竹島を韓国に引き渡したほうがよいと考える。」

 韓国側では、この年半ば、世宗大学教授朴裕河氏が著書『和解のために』(プリワ・イパリ出版社)を著し、韓日の歴史論争を検討した上で、独島を韓日の「共同領域」、共同領有とする案を提案した。この本が2006年に翻訳されて、11月に日本で出版されると、朝日新聞の若宮氏が12月25日のコラムで取り上げ、島を「平和友好の島」にするという夢をふたたび語るにいたるのである。このコラムの中には、おなじくこの年11月に日本で出版された玄大松・東京大学准教授の著書『領土ナショナリズムの誕生――「独島/竹島問題」の政治学』(ミネルヴァ書房)も合わせて取り上げられた。

 竹島は「日本の固有の領土」であるという主張を堅持しながら、この問題の解決は棚上げして、将来状況が変化したところで、解決をはかることにしたいという日本政府の態度は、非歴史的であり、非現実的である。時が経てば経つほど、韓国側の主張は不動のものとなり、独島の実効支配は確固たるものになるだろう。日本が領有を主張すれば、ますます挑発行為となり、一層激烈な反応を呼び出すことになるであろう。このままでは漁業権の正常な行使を願う島根県の漁民の訴えに応えることができない。慶尚北道と島根県との交流も途絶えたままになる。

 となれば、2005年に提案された方向で問題解決をはかる他はない。2010年には韓国併合100年がくる。そのときまでに、1965年の日韓条約を補足する歴史領土条約を締結する。そこには、村山談話、日韓共同宣言にしたがって、植民地支配のもたらした苦痛と損害に対する反省と謝罪をうたい、日本は韓国の願いにこたえ、韓国と日本の利益を考えて、独島=竹島に対する韓国の領有権を認める、韓国は島の周囲の海域での日本漁民の漁業権を保証することを明記する。このような解決を真剣に考えるべきときである。

 北方4島問題では、2005年末に出た一冊の本が話題になった。岩下明裕・北海道大学スラブ研究センター教授の著書『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』(中公新書)である。岩下氏は中露国境交渉の成功の経験に学び、フィフティ、フィフティの相互譲歩による解決を提案した。岩下氏の真意は3島返還の実現をめざすところにあるという観測がロシア側から出された。4島を面積で折半するという考えだという議論も出た。だが、岩下氏は自分は2島プラスアルファを主張しているのだと説明した。

 この岩下氏の著書が2007年1月朝日新聞大佛次郎論壇賞を獲得したのである。それが発表された数日後に麻生外務大臣が面積での4島折半論について言及したことで、一層注目を集めることになった。閉塞状況にある北方4島問題も、なんとか新しい打開策を考えねばならないという空気が流れはじめたのである。

 1956年の日ソ共同宣言の再確認の上に、いかなるプラスアルファを獲得できるかがひきつづき基本問題であることは衆目の一致して認めるところである。2001−2年の失敗があって、プーチンが大統領を退任するところに来ている今となっては、「日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して」、3島返還してほしいと説得するのは非現実的であるように思われる。2島返還にプラスするアルファは共同経営案とするのが現実的である。

 実は私は1986年に北方領土問題の解決を最初に考えたとき、2島返還プラス4島共同経営という案を提案した35)。1996年に4島返還論に主張を変えたのだが36)、いまふたたび共同経営案にもどるべきだと考えている。しかし、このたびは4島共同経営でなく、国後島と色丹島の2島共同経営案である。

 色丹島が日本に引き渡されるとして、色丹島に60年住み続けたロシア人を追い出すことはあってはならない。色丹島の住民はロシア人が主となり、これに新たに移り住む少数の日本人が加わるということになるだろう。とすれば、色丹島に住み続けるロシア人にはロシア国籍の保持をみとめ、かつ日本国籍を与えるのがよく、自治行政はロシア人主体にして、第一公用語はロシア語となるほかない。さらに色丹島は国後島とともに従来南クリル地区をなしてきた。色丹島のロシア人を国後島のロシア人から切り離すことは適切ではない。領土の帰属は異なっても、国後と色丹のロシア人コミュニティの一体性を維持する必要がある。このように考えれば、国後島と色丹島を南クリル(千島)日露特別共生区域化することは2島返還の実現のためにも必要だということになる。国後島のロシア人住民で希望する人には日本国籍を与えることも考えられる。そうなれば、もはや国後島の領有権を問題にすることも意味なくなるだろう。これは領土、国境を越えた共生の新しい実験である。

 このような北方領土問題の解決を竹島問題の解決と同時に進めるのがよい。そうしてこそ、サンフランシスコ条約の欠落部分を埋めて、戦後処理をおえることができ、かつ東北アジアの共同の家に前進できるというものである。このような考え方に立てば、尖閣列島=釣魚島問題の解決の道もまた見いだすことができるように思う。

 

 

 註

 1) 私の最初の論文は、「『北方領土』問題についての考察」、『世界』1986年12月号。著書は『北方領土問題を考える』岩波書店、1990年。『開国日露国境交渉』日本放送出版協会、1991年。『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社、1999年。

 2) 矢部貞治『近衛文麿』下、弘文堂、1952年、560,561頁。

 3) 敗戦直後の日本人の朝鮮観については、古いものだが、和田春樹「第二次大戦後の東アジア――日本・朝鮮・中国の民衆」、『歴史学研究』312号、1966年。山田昭次「八・一五をめぐる日本人と朝鮮人の断層」、『朝鮮研究』69号、1968年1月。

 4) Minor Islands Adjacent to Japan Proper. Part I. The Kurile Islands, the Habomais, and Shikotan, November 1946, pp. 6, 8. 原貴美恵氏のご厚意による。

 5) Sung-Hwa Cheong, The Politics of Anti-Japanese Sentiment in Korea: Japanese-South Korean Relations under American Occupation, 1945-1952. New York: Greenwood Press, 1991, p. 39. 文書の表題は Minor Islands Adjacent to Japan Proper. Part IV. Minor Islands in the Pacific Ocean and the Sea of Japan., June 1947 であろう。

 6) Ibid., pp. 39-45.

 7) Tsushima, July 1949. 日本外務省文書、B'. 4.1.0.15. sheet 0084-0102.

 8) 和田春樹『北方領土問題』194−198頁。

 9) 塚本学「平和条約と竹島(再論)」、『レファレンス』44巻3号, 1994年、39−41頁。

 10) 塚本孝「米国務省の対日平和条約草案と北方領土問題」『レファレンス』482号、1991年3月、116頁。National Archives, USA., RG59, Decimal File 1945-1949, Box 3513, 740. 0011PW(PEACE)11-249.

 11) 同上、117頁。Ibid., 11-1949.

 12) 同上、118頁。NA, RG59, Lot 54D423 JAPANESE PEACE TREATY FILES, Box 12, Treaty Drafts 1949-March 1953.

 13) 和田春樹『北方領土問題』211−212頁。塚本学「平和条約と竹島(再論)」、『レファレンス』44巻3号、45−46頁。玄大松『領土ナショナリズムの誕生』ミネルヴァ書房、2006年、76頁に、イギリス案の付図がある。

 14) 『サン・フランシスコ会議議事録』外務省、1951年、63頁。

 15) 塚本学「平和条約と竹島」50頁。FRUS 1951, Vol. VI, p. 1203.

 16) 金炳烈「独島の歴史」、『竹島・独島 史的検証』岩波書店、2007年、213頁。

 17) 玄大松、前掲書、88頁。

 18) 同上、92−93頁。

 19) 塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」、『レファレンス』2002年6号、50−51頁。

 20) 『海外調査月報』1954年11月号、67頁。

 21) 同上、69頁。

 22) 同上、66,67頁。

 23) 塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」52頁。

 24) 玄大松、前掲書、278頁。

 25) 日ソ交渉については、和田春樹『北方領土問題』の第9章を要約する。

 26) 『日露(ソ連)基本文書・資料集(改訂版)』財団法人ラヂオプレス、2003年、153頁。

 27) 同上、164頁。

 28) 和田春樹『北方領土問題』269頁。

 29) 塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」55,58頁。

 30) 玄大松、前掲書、110,112−113,114,116,121−122、126−127頁

 31) このいまだ公式に説明されていない日露交渉史のページについては、東郷和彦『北方領土交渉秘録』新潮社、2007年、164−169頁を参照してほしい。

 32) 同上、244−246頁。

 33) 『山陰中央新報』2005年3月11日、27頁。

 34) 同上、2005年3月17日、2頁。

 35) 和田春樹「『北方領土』問題についての考察」

 36) 談話、『朝日新聞』1996年10月16日。










ハンギョレ新聞コラム 「竹島=独島問題を考える」






 島根県議会が日本政府の竹島領有宣言から100年になるのを記念するとして、2月16日を「竹島の日」と定める条例案を可決したことは、日韓間にある根元的な問題を明るみに出し、韓国の国民と政府からの厳しい反応を引き起こした。17日に韓国政府は国家安全保障会議常任委員会声明という異例の形で対日方針転換を発表するにいたった。

 竹島=独島問題は主権国家間の領土をめぐる紛争ではなく、日韓両国関係の歴史の根本に関わる問題であり、その解決から目を背けて、係争中だということを確認して、棚上げしておくことができない問題であることが明らかになったのである。この問題がおこるや、日本の新聞の社説も、要路の政治家たちも、そして日本外相の声明も、論理のぶつかり合いを避け、対立をあおるような言動を抑制し、友好、協力の維持につとめようと述べている。しかし、この態度ではもはや事態の打開はできないのである。

 竹島=独島問題は日本とロシアの間にある「北方領土」問題とは性格を異にしている。クリル諸島とサハリンというアイヌの土地に攻め込んだロシアと日本は支配したところを自らの領土としようとして、互いに争いあった。第二次大戦後はソ連がサハリンもクリル諸島もすべてをわがものとしてしまったのに対して、日本はそれではあんまりではないか、すこしは日本によこしなさいと言っている。理屈はいろいろつけているが、赤裸々に言えば、そういうことである。だから、争いがあっても、本質的対立にはならない。

 これにくらべて、竹島=独島問題は、日本と朝鮮の間の無人の岩の島をめぐる古くからの争いが基礎となっている。日本がこの島を竹島と名付けて、領有を宣言したのは、朝鮮を占領して、ロシアと戦った日露戦争のさなかであり、朝鮮全土を支配して、保護国化し、併合していく植民地化の過程の一環であった。日本帝国主義の敗北ののち、朝鮮が独立するのと同時に、1946年1月アメリカ占領軍司令官の命令で竹島は日本の主権の範囲からのぞかれた。したがって、朝鮮は竹島をふくめた全領土をもって独立したという意識なのである。この小さな岩の島は植民地とされ、そこから解放された朝鮮=韓国を象徴するものとなっているのである。

 だから、鄭東泳声明が、独島を「過去の植民地侵略の過程で強制的に編入させられたが、解放によって回復したわが領土」と主張しているのに、反論することは日本側には難しい。日本政府が植民地支配のもたらした損害と苦痛に対して反省し、謝罪するなら、竹島への領有権主張を取り下げなければならないというのが、韓国側の主張であり、そこにはいかなる妥協の余地もないというのである。

 竹島は「日本の固有の領土」であるという主張を堅持しながら、この問題の解決は棚上げして、将来状況が変化したところで、解決をはかることにしたいという日本政府の態度は、歴史から目を背ける態度である。また政府の気持ちの中には、日本国内でのナショナリズムの高揚を恐れる気持ちもあると考えられる。しかし、時が経てば経つほど、上記の論理構造をもつ韓国側の主張は不動のものとなり、日本が領有を主張すれば、一層の挑発行為となり、一層激烈な反応を呼び出すことになるであろう。現在なら、過去の植民地支配を反省し、謝罪する気持ちから韓国の独島領有を認めると日本が言えば、いささかの印象を韓国国民に与えることが可能かもしれないが、将来時が経てば経つほど、日本のそのような表明は韓国民にいかなる印象も与えなくなるだろう。そして、もとより日本がこの島に手をのばせる可能性は現在も将来も皆無である。

 となれば、この機会を好機として、竹島=独島問題をどのように解決すべきかを、日韓間で徹底的に討議し、すみやかに結論を出し、日本国民の合意をつくりだすべきである。韓国側では独島のことは日本と討議する対象ではないという気持ちであろうが、日本が「東北亜の平和と安全をともに具現していく同伴者」であるとすれば、独島を韓国領だと認めることが日本のためにもなるし、日韓協力のためでもあると日本人を説得することが必要になるのではないだろうか。

 学者専門家の討論からはじめて、各層の討論をおこなうべきである。島根県は島根県立大学をもつが、そこには北東アジア地域研究センターがあり、この地域の協力を推進する県のシンクタンクとなっているのである。そのような県の県議会が歴史に対する無知と外交感覚の欠如を示す決議を推進したという矛盾におどろくばかりだが、実は、日本全体がこのような矛盾の中にいるのである。ということは、議論をしていけば、状況は変えられるということである。

 そもそも領土問題を三つもかかえていては、東アジア共同体も、東北アジア共同の家もできないのである。

 最後にお願いしたい。韓国国民の正当な怒りは理解するし、それを表現するデモは当然だと思う。日本国旗には苦しい過去の記憶が結びつくのも理解できる。しかし、日本国旗をいま焼くのは日本を総体として否定する行為となる。それはどうしてもやめてもらいたい。

 また一部の報道では、韓国政府は日本に対して、韓日協定には反映されていない慰安婦、サハリン残留者、原爆被害者などに対して日本側の補償を求めていく方針であるかのように伝えられた。慰安婦問題については対立があるとしても、サハリン被害者、原爆被害者については、日本政府はこれまで相当に努力してきて、そのことは被害者たちからも認められていると承知している。だから、この点の方針は正確に表現していただきたい。

 ハンギョレ新聞 2005年3月15日




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