東北アジア地域協力構想と東アジア共同体構想

東北亜地域自治団体聯合主催「国際経済フォーラム」にて報告
 2007年10月17日・韓国大邱






 1996年に東北アジア地域の交流促進、共同発展および政界平和への寄与を目的に、東北アジア地域自治体連合、日本語の正式名称では北東アジア地域自治体連合が誕生したことはまさに21世紀をひらく新しい地域主義の企ての幕開けであった。以来10有余年その活動を年々発展させてこられた構成自治体、関係者のご努力にこころから敬意を表す次第である。その2007年NEAR国際経済フォーラムに参加し、報告の機会を与えていただいたことに対して感謝申し上げる。

 私も、一人の知識人として、1990年代の前半から東北アジアの地域主義について考え、提言してきた者である。1990年、はじめて韓国を訪問したさい、東亜日報・朝日新聞共催のシンポジウムで、「東北アジア人類共生の家」をめざすべきだと提案した。

 「東北アジアのソ連極東、中国、南北朝鮮、日本、米国の新たな結びつきは、むしろもっとも多様な過去の文化と現在の複雑な問題をかかえる人類が共生する形だと言えましょう。東北アジアが平和的に、相互扶助の中に生きられれば、全世界がそのように生きられるのです。その意味では東北アジアがめざすのは人類共生の家であると言わなければなりません。その核心は、民主主義を基礎とする南北朝鮮の接近・融合でしょう。地理的にみても、まさに統一朝鮮、統一韓国が東北アジアの中心です。日本はこれまで経済成長にのみ全精力を注いできました。いまは隣国との関係をただすのに誠実に努力することによって、東北アジア人類共生の家構築の事業に応分の貢献をしていくべきときであるように思います。」

 1995年には、私は韓国の雑誌『創作と批評』に求められて、論文「『東北アジア共同の家』と朝鮮半島」を寄稿した(第87号)。ここでも、東北アジアの構成には、中国、台湾、ロシア、南北朝鮮、日本、アメリカを入れている。中露米の三大国が含まれ、「社会的・文化的・心理的に多様で、異質的な世界」であるからこそ、ここでの平和的協力の経験は世界に拡大できると私は述べた。さらにこの地域の共存共生のための架け橋、中心は朝鮮半島であり、南北朝鮮のブロックであることも引き続き指摘した。「朝鮮半島は古来より中国と日本の架け橋であった。」さらに「朝鮮人のディアスポラ」の結果、この地域のすべての国に居住している朝鮮人が「東北アジアの人間的、平和的協力のために働くのにもっともふさわしい主体」であると提案した。最後に「東北アジアの共同の家は共同の安全保障、共同の成長、共同の環境保護、共同の福祉を追求しなければならない」と結論したのである。

 その後、私は2003年にいたり、自分の考えを『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』なる著書にまとめ、出版している。

 というわけなので、皆様方の東北亜地域自治体連合、日本語では北東アジア地域自治体連合のシンポジウムにお招きいただいて、私がどれほど興奮し、精神的高まりを覚えているか、おわかりになると思う。

 

 地域主義への志向の高まり

 さて21世紀を迎えて、地域主義的志向は現実政治の動き、国際関係の中に高まり、定着したと言うことができる。第一はASEANプラス3首脳会議の動きである。韓国の金大中大統領が、1998年12月ハノイで開催された第2回のASEANプラス3首脳会議で、経済危機の克服のための意見交換を目的とした民間人中心のフォーラム(東アジア経済協力ビジョン・グループ)の設立を提案した。この提案が具体化され、99年に東アジア・ビジョン・グループが動き出すことになった。座長に座ったのは韓国の元外相韓昇州氏であった。このグループは2001年11月クアラルンプールでの第5回ASEANプラス3首脳会議会議に報告書「東アジア共同体をめざして――平和,繁栄、進歩の地域を提出した。報告書は次のようにはじまっている。

 「われわれ、東アジアの民 the people of East Asia は地域内のすべての諸国民の全面的な発展に基礎をおく平和、繁栄、進歩の東アジア共同体 East Asian community を創造することを希求する」

 このまったくの夢のようにみえた提案が急速に東南アジア諸国首脳たちに受け入れられて行ったのである。

 第2は、2002年9月17日の日朝首脳会談で合意され、発表された日朝平壌宣言が打ち出したヴィジョンである。その第4項には次のようにある。

 「4双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが重要であるとの認識を一にした。」

 ここで画期的な東北アジアの地域協力構想が端緒的に打ち出されたのである。首脳会談において、小泉首相は「六者協議による対話の場が整備されることが重要だ」と述べ、金正日委員長から同意をえた。六者協議とは、南北朝鮮、米国、中国、日本、ロシアの協議のことである。

 第三の動きは韓国の新大統領盧武鉉氏の就任演説である。2003年2月25日に就任した盧武鉉大統領はその政策構想の第一に「東北アジア時代」の到来を迎えて「東北アジア」の「繁栄の共同体」、「平和の共同体」をめざすことを掲げた。

 「われわれの前には東北亜時代が到来しています。近代以後世界の辺方にとどまった東北亜が、いま世界経済の新しい活力として浮かびあがりました。・・・わが韓半島は東北亜の中心に位置しています。韓半島は中国と日本、大陸と海洋を連結する橋です。このような地政学的位置が過去にはわれわれに苦しみを与えました。だが、今日はむしろ機会を与えているのです。二一世紀が東北亜の中心的役割を要求しているのです。・・・ 東北亜時代は経済からはじまります。東北亜に『繁栄の共同体』をつくりあげ、これを通じて世界の繁栄に寄与しなければなりません。そしていつの日か『平和の共同体』に発展しなければなりません。現在の欧州連合と同じ平和と共生の秩序が東北亜にも構築されることが私の長い間の夢です。そうなってこそ東北亜時代が完成されるのです。そのような日が近づくように渾身の努力を傾けることをわたしはかたく約束します。」

 北朝鮮との南北関係を解決した先に開ける目標として東北アジア共同体の創設という考えが打ち出された。何よりもその事業の中心に韓半島、朝鮮半島がなり、韓国がイニシアティヴをとって進んでいくと宣言されたことに意味があった。ついに韓国の大統領が「東北アジア共同の家」の構想を推進する時がきたと私は感じた。盧武鉉大統領は東北アジア時代委員会を設置して、構想実現の道をさぐっていくことになった。

 第四の動きは、ASEANが共同体化するという志向を明確にしたことである。2003年10月バリ島で開かれた第九回ASEAN首脳会議において、首脳たちは第二ASEAN Concord 宣言を採択した。それはASEAN安全保障共同体、ASEAN経済共同体、ASEAN社会・文化共同体という三本柱の努力によって,ASEAN共同体を実現するとの誓約であった。ASEAN諸国は東アジア共同体をめざす動きを前提として、まずASEAN自体を共同体化し、それを基礎にして東アジア共同体に向かうという戦略を立てたと考えられる。

 第五の動きは、2005年9月19日の第4回6者協議共同声明である。北朝鮮の核兵器開発問題の解決のために2003年4月に米朝中の三者会談が開かれ、それをステップとして同年8月に米朝中韓露日の6者協議が開催されることになった。だが、2004年8月に第2回、同年6月に第3回が開かれたが、さしたる進展がなく、2005年2月10日には北朝鮮外務省は6者協議参加無期限中断を発表し、核兵器保有を宣言したのである。ここにいたって、関係国は真剣な対応を見せたためなのか、同年7月26日に開会された第4回協議は大いにねばって、9月19日に共同声明を発するにいたった。ここで北朝鮮は核兵器開発放棄を約束し、アメリカは核兵器でも通常兵器でも北朝鮮を攻撃する意図をもたないことを確認し、米朝は平和共存し、国交正常化のための措置を取ること、日朝は過去の清算、懸案事項の解決にもとづき、国交正常化の措置をとることを約束した。それとともに、「6者は東北アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束し」、「6者は東北アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について提案していくことで合意した。」

 この決議が出た直後に、マカオのバンコ・デルタ・アジアの北朝鮮口座凍結措置がとられ、北朝鮮が反撥して、六者協議がふたたび再開不能になったのだが、決議の意義は消えなかった。本年2月13日、六者協議は再開され、2005年9月決議を実施するための方策が合意された、

 第六の動きは、同じ2005年12月クアラルンプールでのASEANプラス3の首脳会談と最初の東アジア・サミットの開催である。まず12月12日、ASEANプラス3首脳会議が開かれ、「地域及び国際の平和と安全、繁栄及び進歩の維持に貢献する東アジア共同体を長期的目標として実現していく共通の決意をあらためて表明し、ASEANプラス3プロセスは引き続きこの目的を達成するための主要な手段であり、またそこではASEANが推進力となる・・・ことを確信」するとの宣言を採択した。

 ついで、12月14日、最初の東アジア・サミットがASEAN諸国、中国、日本、韓国、オーストラリア、インド、ニュージーランドの参加をえて開かれ、「東アジア・サミットがこの地域における共同体の形成に重要な役割を果たしうるとの見方を共有」するとの宣言を採択した。

 このようにして、いまや東アジア共同体を実現するということがこの地域の各国首脳の共同目標と宣言され、東南アジア諸国はASEAN共同体をめざすことでも合意し、東北アジア六カ国は北朝鮮核問題を解決して、東北アジアの平和と安全保障面での協力に進むことで合意しているのである。東アジア共同体、東南アジア共同体、東北アジア安保共同体がいまやこの地域の地域主義の話題としてはっきりと浮かび上がったということができるのである。

 

 東アジア共同体と東北アジア共同体

 しかしながら、二〇〇五年一二月同時に二つの構成員の違う会議が開かれ、それぞれに東アジアの共同体の形成をめざすことを打ちだしたということの背後には、東アジア共同体の参加国をめぐる深刻な対立が存在するという事情があったのである。すなわち、中国はASEANプラス3の形に固執して、東アジア共同体もASEAN諸国と中国、日本、韓国で考えていくことを主張しているのに対して、日本はインド、オーストラリア、ニュージーランドの三国を加えたASEANプラス6ともいうべき東アジア・サミットを基礎にして東アジア共同体をつくろうと考えているのである。ここにはアメリカという存在をどう考えるか、東アジア共同体とアメリカの関係を考えるべきではないか、アメリカの参加へ道を開かなくてもいいのかという意識が関連しているのである。

 「東アジア共同体」を考えるASEAN諸国はこれにアメリカを加える考えをもっていないようである。中国にはそのような考えははっきりとない。当然ながら、アメリカは2005年春には、露骨に反感を示し、アーミテージのように、東アジア共同体に反対だという意見を述べた国務省関係者もいたのである。日本の中では、3月27日に読売新聞にJR東海会長葛西敬之が「空論『東アジア共同体』」と題する一文を発表し、「中国の狙いが、アメリカを排除した共同体構想に日本を引きずり込み、良好な日米関係に楔を打ち込むことにあることは想像に難くない」と主張したのである。

 2004年5月に日本の中で国論を喚起するための組織として生まれた東アジア共同体協議会(CEAC)は、中曽根元首相を会長とし、日本国際フォーラム理事長伊藤憲一氏が議長となっているが、当初はこの会の議論でも、アメリカを入れないのは当然のことと考えられていた。畠山襄元通産審議官はアメリカを「東アジア共同体の中にインクルードする必要は無論ない」と発言しているし、慶応大学の添谷芳秀教授も「アメリカをメンバーに入れないということは、ほとんどコンセンサスとしてあるだろうと思う」と述べている。

 しかし、外からの反撥が強くて、この組織も動揺せざるを得なかった。東アジア共同体協議会は2005年春に政策文書を作成発表することを目標としていて、東大教授田中明彦氏を起草者とする政策文書「東アジア共同体構想の現状、背景と日本の国家戦略」はできあがったのに、なかなかそれを発表することができなかった。ようやくアメリカを入れない形で話をはじめるという内容でまとまった文書は8月になって中曽根会長、伊藤議長以下56人が署名して発表された。

 しかし、なぜか、この文書発表も新聞はほとんどとりあげなかった。その中で外務省の雑誌『外交フォーラム』だけが、10月号で「東アジア共同体の形成にむけて」を特集した。この間外務省内で「東アジア共同体」構想を推進してきた中心人物で、退官した前外務審議官田中均氏がこの号の基調論文を書いている。田中氏は、「東アジア共同体」のメンバーシップについて、アメリカはのぞき、「当面はASEANプラス日中韓プラス印、豪,NZと概念するのが常識的ではなかろうか」と述べている。これに対して、外務省内でこの問題を担当するアジア地域政策課課長山田滝雄氏は『外交フォーラム』英語版に同じ時に発表した論文の中で、「米国は東アジアにとって不可欠のパートナーであり」、日米同盟が地域の安全保障において「中心的な役割」を占めている以上、「この地域から米国を排除するということは東アジアにとってのオプションではない」と述べている。山田氏は、「東アジア共同体」に米国を入れるかどうかについてはオープンなままにしておくという考えをにじませていたのである。

 東アジア共同体の構成員をどうするか、ASEANプラス中国、日本、韓国でやるのか、インド、オーストラリア、ニュージーランドまで入れるのか、さらにアメリカをどう考えるかという問題は、これはまずASEANプラス3のところで、時間をかけてよく相談すべきことである。そもそも構成員をどういう基準で、どういう手続きをへて、決めるかということから議論されるべきであろう。これが中国、日本のヘゲモニー争いとみえるような形で議論されるのは不適切であった。

 ところで、2005年はじめには、東アジア共同体の議論とともに、東北アジアの地域安保協力の考えが、ほかならぬアメリカ人たちによって、六者協議を手がかりに、熱心に行われた。その例は、『フォーリン・アフェアーズ』1/2月号でのフランシス・フクヤマの論文である。彼は、「東アジアに新しい安全保障構造をつくり上げる」というブッシュ政権の課題は、六者協議という「予期せぬ形で北東アジアに出現した」この枠組みを活用することによって解決されると提案している。「北朝鮮の核開発危機が収拾へと向かえば、これを中国、日本、韓国、ロシア、アメリカの五カ国間の協議のためのチャンネル、五カ国フォーラムとして活用すればよい。」フクヤマは「東アジア共同体」の動きを無視している。ブルッキングス研究所研究員のジェームズ・グッドビー氏も六者協議を基礎にした東北アジアの安保協力機構を考えていて、韓国でその意見を積極的に発表した。そういう議論の上に9月の六者協議の共同声明が出たのである。アメリカは東アジア共同体に入れてもらえないとしても、東北アジアの六者の中にはしっかりと入っていくという決意であると見える。

 東北亜、東北アジアという概念は中国、韓国、北朝鮮に長く存在した概念で、それらの国々では百科事典に載っている。北朝鮮の2004年刊の『朝鮮百科事典(簡略本)』を見れば、「アジアの北東部を占めている地方。わが国、中国東北地方、ロシア沿海辺境とその以北地方及びクリルーカムチャツカ地方、日本列島中部の本州を包含する」とある。日本の部分の説明が少々おかしいが、四国五方の考えである。中国では、「五国六方」といっている。中国、ロシア、南北朝鮮、日本、モンゴルである。「東北アジア地域自治体連合」の概念は、この「五国六方」の考えにほぼひとしいと拝察する。韓国政府では、地理的概念としての「東北亜」にはアメリカは入らないが、機能的な概念として考えれば、アメリカを入れることはできるとしているようである。六者協議のホスト国としての中国の政府も、このかぎりではアメリカが東北アジアの六者の一つであることを当然にうけいれている。

 北朝鮮の核問題の解決ということなら、この地域の安全保障問題を考えるなら、アメリカを入れなければ、答えは出ない。安全保障問題なら、アメリカを入れてもいいが、東北アジアの共同体ということならアメリカを入れることはできないという考え方もあるだろう。しかし、韓国にも日本にもアメリカ軍が駐留しており、台湾問題があり、沖縄のアメリカ軍の基地がこの地域の最重要基地である以上、地域協力の最重要問題である安全保障にかぎってアメリカを受け入れるというふうに狭く考えるべきではないと思われる。

 東北アジア共同の家にはロシアとアメリカが入り、東アジア共同体にはロシアとアメリカは入らないと考えることもできる。メンバーの違う協力機構を重層的に積み重ねて、相互に良い効果を期待するのがおそらく現実的で、正しいやり方である。ASEAN共同体と東北アジア共同体を並べて、その二つの上に東アジア共同体をのせるのだと考えれば、意見の対立はのりこえられる。インドとオーストラリア、ニュージーランドの問題は、一義的にはASEAN共同体の問題だと考えることもできる。ともあれ、この三国の問題とアメリカの問題を切り離せば、議論は可能であると思われる。

 

 地域主義を妨げる要因

 地域共同体の構成員の問題は地域主義の根本的な障害ではない。より大きな問題は別のところにある。私たちの地域の深刻な問題が北朝鮮問題として存在していることは明らかである。北朝鮮が経済的に長期に危機的な状態にあり、自然災害がくりかえされ、食糧不足が慢性化していること、その上にあらたに核兵器を開発し、保有を宣言したこと、正常な国際関係の中に完全には入っていないことなどが指摘される。しかし、この北朝鮮危機は六者協議を通じて、いわば地域主義的に解決が図られており、前進もある。だから、北朝鮮の核問題が解決すれば、東北アジアの地域安全保障体制への突破が勝ち取られるのである。この点では危機は同時にチャンスであるという関係になっている。

 ところで、いま一つの問題は、日本の外交政策の動揺と混乱である。このことが目下地域の大きな問題として浮かび上がっているように思われる。

 小泉首相は2002年9月、平壌を訪問し、金正日国防委員長と会談して、早期国交樹立に努力することで合意し、日朝平壌宣言に調印した。小泉首相は「植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛をあたえたという歴史的事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。」金正日委員長は、「日本国民の生命と安全に関わる懸案問題」について、「遺憾な問題が今後再び生じることがないように適切な措置をとることを確認した。」拉致問題と工作船の派遣について、二度としないと誓約したのである。

 にもかかわらず、日本国内で拉致への非難が高まると、小泉首相は平壌に同行した安倍官房副長官にこの件での対処をまかせ、圧力を行使させ、日朝交渉が完全に停滞するのを許したのである。他方で、小泉首相は自民党総裁になるときの公約を守るとして、靖国神社への参拝をつづけ、中国、韓国との関係を決定的に悪化させていった。

 その小泉首相は、2005年1月20日、通常国会の開会にあたって所信演説をおこない、その中で、「多様性を包み込みながら経済的繁栄を共有する、開かれた『東アジア共同体』の構築に積極的な役割を果たしていきます。」と宣言した。これは重大な首相の表明であった。60年前「大東亜共栄圏」構想をもって開始した戦争に完敗し、以後地域主義を完全に忘れて生きてきた日本の総理大臣が新しい地域主義の目標を国民の前に提示したのである。

 しかし、このことを国民に理解してもらう努力はまったくなされなかった。翌日の新聞各紙もこの点に注意を向けず、いかなるコメントもしていない。やがて、中国、韓国のはげしい反日デモが日本をゆさぶるようになった。小泉首相は中国を訪問することを拒まれたままであった。中国と話し合いができないでは、東アジア共同体を語ることはできない。

 中国の戦国時代の戦法として知られている「遠交近攻」の策というものがある。遠くの国と交際して、近くの国を攻めて、滅ぼし、領土を拡大するという策である。近代の戦争の時代に、日本が英国と同盟して、アメリカの支持をえて、朝鮮を侵略したのも、その策の通りである。いまは、戦国時代でも、帝国主義の時代でもない。しかし、近くの国、隣国とは心を開いた関係をもてず、遠くの国とは親しくできると考える思考方法がいまも存在する。日本はながく韓国、中国とは親しくできず、東南アジアの国とは緊密な関係をもとうとしてきた。それでは新しい時代の新しい地域主義を実践することはできない。東アジア共同体をめざすという首相が中国、韓国とはよく話し合えないまま、北朝鮮とは国交をもたないまま、東南アジア諸国と結びつこうとしても、目的は達されないのである。

 対北朝鮮強硬論の故に人気を博して2006年10月に小泉首相のあとをうけて総理になった安倍晋三氏のもとで、事態は一層の混乱を見せている。安倍首相は靖国神社参拝を控えて、中国を訪問したのは、よかったが、拉致問題の解決とは拉致された人全員の帰国だという主張をかかげて、北朝鮮船舶の入港禁止、貿易の禁止をつづけ、日朝関係はまったく打開できていない。アメリカが必死になって、六者協議を前に進めようとしても、何拉致問題の進展がなければ協力はできないという態度をとりつづけている。いまや、日本は六者協議の中で孤立している。そして安倍政権のもとでは、東アジア共同体の推進は日本政府の外交課題からははずされたかの観がある。施政方針演説では安倍首相はこのことに一度もふれていない。八月のインドネシア、インド、マレーシアの訪問において安倍首相が打ち出したヴィジョンをみると、むしろ地域主義には積極的に反対であるような印象が生まれる。安倍氏はインドネシアでは、ASEAN共同体には賛成すると表明したが、東アジア共同体には触れなかった。インドの国会演説では、「日本とインドが結びつくことによって、『拡大アジア』は米国や豪州を巻き込み、太平洋全域にまで及ぶ広大なネットワークへと成長するでしょう。開かれて透明な、ヒトとモノ、資本と知恵が自在に行き来するネットワークです。ここに自由を、繁栄を追い求めていくことこそは、我々両民主主義国家が担うべき大切な役割だとは言えないでしょうか」と述べた。

 「拡大するアジア」を語り、米国、日本、インド、オーストラリアに言及したのは、これらの国々は価値観を共有し、アジアを指導していくべきだという安倍氏の構想をにじませたのである。ここまで来ると、中国を封じ込める体制づくりというふうに見えてしまう。これは時代精神に逆行する動きだといわざるをえない。

 安倍氏はインドで極東国際裁判の判事であり、法の遡及適用に反対するという見地から東条以下の被告全員に無罪を主張したパール判事のご子息に会い、「極東国際軍事裁判で気高い勇気を示されたパール判事は、たくさんの日本人から今も変わらぬ尊敬を集めている」.とパール判事を称え、演説の後半で、自分の祖父岸信介首相の思い出を語った。岸氏はA級戦犯容疑で逮捕された人である。安倍氏のジェスチャーは、さながら日本の過去に対する否定的な意見を斥けたいという願望をあらわしているように受け取られる恐れがあった。事実韓国外務部のスポークスマンにより批判をうけたのである。

 安倍氏は総理になったのち、日本の侵略と植民地支配を反省し、謝罪した村山総理談話、慰安婦問題での反省と謝罪を述べた河野官房長官談話を継承すると声明したが、ながらくこれらの談話に反対してきた経歴が知られているが故に、アメリカ下院で慰安婦問題について正式に謝罪声明をせよとの決議が採択されるにいたったのである。

 このような外交姿勢、パフォーマンスでは、東アジア共同体、東北アジア共同体のために、日本が積極的な役割をはたすことができないと言わざるを得ない。

 

 東北アジア共同体を進めるためにまず必要なこと

 結局のところ、中国と朝鮮と日本を含むこの地域で地域主義的な企てを真剣に考えるとすれば、この地域の特殊性に正面から立ち向かうほかはない。この地域の特徴は、1894年から1975年までの80年間、不断に戦争をつづけていたということである。このような戦争まみれの地域は世界のどこにもない。だから、この地域は単に平和であるというだけでは満足できない。和解しなければ共生できないのである。

 まず80年間の最初の50年間は日本の戦争が続いた時期であった。最初は1894−95年の日清戦争である。主題と戦場からすれば、これは最初の朝鮮戦争だといえる。1904年からの日露戦争も朝鮮全土を支配することをロシアに認めさせようとして日本が起こした戦争で、この戦争の結果、日本は朝鮮を保護国化し、ついで併合し、40年間支配することになった。この間に日本は中国へは二回出兵し、1930年の満州事変以降は15年間戦争した。ロシアとは、さらに1918年のシベリア戦争、1939年のノモンハン戦争、1945年の日ソ戦争を戦った。ノモンハン戦争はモンゴルとの戦争でもあった。最後にアメリカとは1941年からの大東亜戦争を戦った。まこと半世紀のあいだ、日本は西、北、東の隣国すべてと複数回戦争している。つねに日本が侵略する側、ないしは攻撃する側だった。侵略された側、攻撃された側には癒しがたい傷、消えざる痛みがのこった。明成皇后殺害、旅順と対馬、乙巳条約、盧溝橋、南京虐殺、パール・ハーバーは忘れられないことだろう。もちろん、日本の側にも、東京大空襲、広島、長崎原爆投下など、消えざる記憶がある。

 日本の戦争が1945年8月15日の降伏をもって終わると、日本は軍隊が解体され、非軍事化され、憲法9条のもとで生きることになった。しかし、日本の戦争が終わったからと言って、この地域で戦争の時代が去ったわけではない。ただちに、中国の全土で国民党軍と共産党軍との内戦がはじまり、1949年までつづいた。翌年には朝鮮戦争が起こった。米ソに分割占領された朝鮮の南と北に生まれた二つの国家が武力で国土統一、完整をめざして戦争したのである。その戦争は朝鮮の地における米中戦争となった。戦争は統一をもたらさず、破壊と南北の体制の異質化のみをもたらしたのである。

 朝鮮戦争は停戦状態のままにとどまり、インドシナの戦争はベトナム戦争につづいた。ここが共産主義者と反共産主義者の闘いの舞台となった。韓国は1965年にこのベトナム戦争に参戦した。そして10年間戦いつづけた。北朝鮮も空軍のパイロットが参戦した。ベトナム戦争においても、米軍の枯葉剤の使用により多数の奇形児がベトナムで生まれている。

 日本の戦争が終わった後に来たのは、共産主義的民族主義者と反共産主義者の民族主義者、そしてアメリカとの戦争の30年間であった。この30年は基本的には、1975年ベトナム戦争におけるベトナムの民族共産主義者の勝利によって閉じられた。

 80年間の戦争の恐ろしい記憶となおつづく苦痛は今日なおこの地域の人々を引き裂いている。加害者は謝罪し、犠牲者の悲しみと痛みは癒されなければならない。回復できる損害は補償されるべきである。そして最後には憎しみが克服され、許しが与えられなければならない。

 80年間戦争をつづけたこの地域の人々は全面的な和解を希求している。その方向にみなが歩みだしてこそ、地域の共同体への前進が可能になるのであり、かつ和解を希求するその気持ちがこの地域を一つに結びつけるのである。

 

 地域共同体へ進むのに次に必要なこと 東北アジアの地域協力から共同体へ進むためには、90年代半ばより先駆的にすすめられてきた経済協力、環境保護協力の努力を6者協議で進められる安保協力組織への動きとを徐々に結びつけていくことがのぞまれる。アメリカをこの地域に入れるという観点からすれば、ハワイとアラスカをこの地域に入れると考えるのがよい。

 そうなれば、ハワイをふくめて、サハリン、済洲島、沖縄、台湾などの大きな島に特別注目して、これらの島の行政の代表者を7カ国の代表者が集まるところに、参加させるということも重要である。台湾の自治体の代表者を自治体連合に招ける日が来ればいいと思うが、島の代表者として台湾の代表者を招くこともあっていい。いずれにしても、中国が同意できるかたちで、台湾にも地域協力への参加をうながすことが重要である。この点では環境保護の共同体がはたすべき役割が大きい。渡り鳥も、鳥インフルエンザも、黄砂も、台風も、津波も国境にかかわりなくひろがるものであり、国境にかかわらない取り組みをも必要としているのである。




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