BACK TO THE FUTURE


大泉市民の集い40年の会





  2008年8月9日(土)午後2−5時

  大泉勤労福祉会館ホール (西武池袋線大泉学園駅南口徒歩3分)

      発題「1968年と2008年」        和田春樹

      DVD上映「日本の中のベトナム――朝霞反戦放送の記録」

      講演と映像「ベトナム戦争、枯れ葉剤の悲劇はいまも」

                       フォトジャーナリスト・中村梧郎




 いまから40年前、大泉学園駅から北に向かうバス通りのつき当たりに、米軍の朝霞野戦病院がありました。ベトナム戦争の最中、傷ついた米兵が、横田基地を経由して、大泉学園町の上空を行き来するヘリコプターで、野戦病院へと運ばれていたのです。

 その爆音を日々耳にしながら、わたしたちは、米国の戦争の被害者であるベトナムの人々を思い、その戦争の遂行を助けているわが国のあり方にいたたまれない気持ちを感じました。そこで、ついに、わたしたちは「もはや沈黙するのもまた苦痛である」と、戦争反対の声をあげ、行動をはじめたのでした。

 「ベトナム戦争に反対し、朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集い」の運動は、こうしてはじまりました。最初の会は1968年7月7日、大泉教会で行われました。

 わたしたちは、朝霞基地の鉄条網越しに、米軍の傷病兵たちに向かって「反戦放送」を行ない、朝霞と大泉で戦争反対のデモを毎月続けました。やがて基地の中の米兵は、わたしたちの援助で、反戦GI新聞を発行するようになりました。この動きは日本の全国にある米軍基地にもひろがりました。

 ベトナムの人々は闘い続け、米国内でも戦争反対の気運が高まり、ついに米軍の撤退が開始されました。朝霞野戦病院も1970年の暮れには閉鎖されることになりました。わたしたちはその後も戦争のつづくベトナムへ進出して利益をあげようとする日本企業を批判するなど、戦争反対の運動をつづけました。そして1975年4月30日、ベトナム解放のその日を迎えたのです。アメリカは最終的に敗北し、ベトナムから去りました。

 しかし戦争が終わった後も、恐るべき被害が残されました。枯葉剤です。解放戦線の活動の根拠を奪い去ろうと、米軍はベトナムのジャングルや田畑に枯葉剤を散布しました。それは人類史上最強の毒物といわれるダイオキシンを含む「化学兵器」でした。10年ものあいだ散布され続けた枯葉剤は、マングローブの森を枯らして土壌を汚染し、収穫前の穀物に降り注いで人々の体を蝕みました。体内に入ったダイオキシンは、ガンを誘発し、遺伝子に損傷を与え、母親から胎児へと受け継がれて、何世代にもわたって被害を及ぼしています。治療のために日本を訪れた、ベトちゃん・ドクちゃんのことを覚えておられるでしょう。ベトナム人の被害者は300万人とも言われています。だから、ベトナムの人々にとって、「戦争」はまだ終わっていないのです。

 枯葉剤は、それを散布した米兵の側にも、大きな被害をもたらしました。参戦した韓国軍の将兵もまた、枯葉剤の被害者となりました。80年代からアメリカで帰還兵たちが枯葉剤を製造した企業を訴えはじめ、最終的に和解が成立しました。韓国兵たちは90年代に入ると、ようやく声をあげはじめ、韓国政府から4000人が被害者として認定をうけましたが、補償はされていません。

 ベトナム人の被害については、アメリカ政府も企業もいっさい謝罪も補償もしようとしません。裁判所は彼らの訴えを却下しています。

 「大泉市民の集い」結成40年を迎え、かつてこの運動に参加したわたしたちは今夏、記念の集まりをもつことといたしました。 あの時代の運動とその精神は今日の日本と世界の現実の中でどのような意味をもつのかを考えてみたいと思います。

 そして枯葉剤の問題に注目し続けているフォトジャーナリストの中村梧郎さんのお話をうかがい、今日もなおはっきりとつづいているあの戦争の被害をみつめ、のこされている課題を考えたいと思います。 かつてともに歩いた仲間たち、そして新たな友人のみなさんとの出会いの場となることを願いながら、このメッセージをお届けします。

 

   ベトナム戦争に反対し朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集い

    加藤久美子、加藤安政、巨島聡、斉藤久夫、佐伯昌平、佐藤久

    清水知久、田中美智子、田村晴久、中野康雄、中原里美

    中山康子、平山茂、山田英雄、和田あき子、和田春樹

       連絡先 178-0061 練馬区大泉学園町7-6-5 和田方




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