日朝国交交渉20年検証会議第2回を開催

 2021年5月30日午後1時より第2回検証会議が52人の参加を得てonline で開催されました。和田春樹氏の司会で、蓮池透氏氏が「家族会と救う会」と題して1時間15分の報告をおこない、以後質疑応答がありました。以下、蓮池透氏の報告と質疑応答を掲載します。

蓮池透氏の報告 「家族会と救う会」

2021年5月30日

蓮池透氏 みなさま今日は、初めてお目にかかる方もいらっしゃると思いますが、よろしくお願いします。和田先生からのご依頼で、「家族会と救う会」というタイトルでお話しさせていただきます。

 私の弟が拉致されてから20年程度は、何もできずにただ待つだけという事で、私以上に両親が辛い思いをしておりました。終いには神仏とか占い師とかに頼るような状況にあったのです。1997年3月25日になって、家族会がスタートしました。発起人は日本共産党の橋本敦参議院議員の秘書である兵本達吉さんと、それから朝日放送のプロデューサーである石高健次さん、オブザーバーという形でその場に参加されたのが産経新聞記者の阿部雅美さんのお三方です。この方達の呼びかけで、浜松町のホテルの会議室で集まりを持ちました。参加したのは原敕晁さんの家族をふくめて、7家族ぐらいだったと思います。もちろん参加されない方もいらっしゃいました。最初に会の名前をどうしようかとなりまして、「北朝鮮による拉致被害者」という言葉が会議の場で提案されたんですね。その頃は「拉致」という言葉が市民権を得ておりませんで、「拉致ってなんだ?」というふうに思った方が大方だったと思います。今は若者も「拉致る」などと言うほどですが。その時「一寸待って」と異論を唱えたのは有本さんで、「うちは『拉致』じゃない。そういう強烈な、挑発的とも取れる言葉はふさわしくないんじゃないか」というような異議を出されました。「せいぜい、誘拐とかそういう言葉にできないか」とありましたけど、結果、「北朝鮮による『拉致』」とカギ括弧をつけて、そこを強調するような形で会の名称を決めました。

 日本会議もこの年に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」とが統合し、結成していることも非常に奇遇なことです。

 会の目的についても議論がありました。当時は「拉致疑惑」と言われていて、なかなか政府が動かないという状態でした。その時のこの10年ほど前に梶山静六国家公安委員長(当時)が国会で「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」であると言ったそうですが、それを我々が知る由もありませんでした。結局世論を盛り上げて日本政府を動かそうというのが、会の一番の目的となりました。

 ただ集まったのは、高齢者がほとんどでした。一番若いのが私と増元照明さんで、42、3歳でしたので、なかなか動きようがなかったです。

 代表を決めようということで、関東に住んでいる横田滋さんにお願いし、事務局も必要だろうということで、比較的若手の私と増元照明さんがなりました。それでとりあえず一家族1万円ずつ出すことを申し合わせて、今後何かあったときの連絡は、電話やファックス等で情報共有しましょうという程度で終わったんです。

 その年の夏ぐらいにいきなり、現代コリアのメンバーお三方が来られ、ちょっと話があるということでした。佐藤勝巳さん、西岡力さんと荒木和博さんから、全面的に会を応援したいという話しがありました。さっき申し上げましたように高齢者がほとんどでして、署名を集めようにも、署名用紙からボールペンからテーブル、あるいはスピーカー、テントとかタスキとか、そういうインフラが全くなくて、もちろんノウハウもなくて困っていたところです。彼らはノウハウとかインフラを無償で提供してくれたのです。それで、いろいろな都市で、いろいろな駅の前等で署名集めをやりましたが、なかなか署名してくださる方はいなかったような状況でした。当時も北朝鮮というと謎の国、こわい国というイメージがありましたので、名前を書くと朝鮮から誰か来るんじゃないかと、言われたことがあります。

 当時は関東中心にやっておりました。署名活動、陳情、ロビーイング、それから講演会です。新潟市では、先駆けて小島晴則さんが、横田めぐみさんをメインとした救出活動を半年前ぐらいからやっておられました。

 その後に、国会議員も動き出して、拉致議連ができ、多くの議員が名前を連ねてくれました。一番精力的に動かれたのは西村眞悟議員です。

 そうこうする間に全国各道府県に救う会の組織ができました。例えば長崎県では日本会議の人々が中心となってできました。全国の救う会の組織には、高校生とか大学生とか、本当に、真面目に救出したいという方も参加してくださったのは事実ですが、大体各地の代表という方は、いわゆる強面の方が多かったという印象があります。

 この後、全国各地の救う会をまとめる全国協議会ができ、その会長に佐藤勝巳さんがついたわけです。田町にある民社党系の友愛会館で定期的に勉強会が開かれるようになりました。当時われわれは、朝鮮情勢などは全く知りませんでした。どういう国なのか、どういう土地なのかさえ分からない状態で、われわれは情報に飢えていたわけです。それで、佐藤さんは、まるで昨日行って見てきたかのように朝鮮の話をしてくれるんですね。われわれは佐藤さんの顔に目が釘付けになるようにして聞くという具合でした。そういう状況が、長く続きました。われわれにとって、佐藤さんの話は、非常に貴重なものでした。

 その話の内容というのは、朝鮮憎しという話です。それで、秋になると、もう朝鮮はこの冬は越すことができない、北朝鮮の政権は倒れる、ということを佐藤さんは繰り返し言っておりました。今考えるとなんだろうと思うんですが、北朝鮮が倒れれば、つまり政権が崩壊すれば、被害者は帰ってくるんだと、この一点張りです。振り返って今考えてみれば、非常に短絡的な話です。政権が崩壊となったら、まず権力者が海外逃亡するにしても、亡命するにしても、その前に自分にとって都合のわるい者は抹殺していくだろう、と考えられます。しかし、当時われわれは何も知識がなかったので、佐藤さんの言う通りなのかなと、思っておりました。

 都合、5、6年にわたって、毎年、北朝鮮の政権は今年の冬は越せないということを聞かされてきましたが、未だにこの政権は倒れておりません。こういう勉強会という名目で、当時右でも左でもなくて、はっきり言ってノンポリの、私も含めてみんなが、いわば白いキャンバスで、どんどん佐藤色に塗り固められて行ったというのが、実際のところだと思います。完全なる無自覚な右傾化、極右傾化と言ってもいいと思います。

 こういうことをやっていて、当時の拉致議連の会長であった中山正暉(まさあき)さんが訪朝されたあとに日朝友好議連会長になると、抗議文を出すとか、あるいは「拉致なんか怪しい」というメディアには抗議文を送ったりとかして、小泉訪朝前に排他的な姿勢が突出していました。

 抗議文とか声明文を出すのは、最初は救う会佐藤勝巳さん単独の名前で出していましたが、だんだん、家族会代表横田滋、救う会会長佐藤勝巳の連名で出すようになってきました。内容もだんだん過激になってきまして、アジテーション・ビラみたいなものも出るのですが、それは全て救う会が作りました。横田家に原案がファックスで入って、それを横田さんが追認するという形で、連名の文書になりました。とても滋さんが書くような文章ではないなと思いながら、連名の文書を発表していました。

 行動もだんだん過激になりました。例えば「コメ支援するな」と叫んで、外務省前に座り込んだり、自民党本部に抗議に行ったりしました。自民党本部のときは、建物の外で叫んでいると、田中眞紀子氏が会議が終わって本部の前に出て来られたんですね。こっちは救う会に言われて、「コメ支援反対!」「50万トン出すな」とか叫んでいたのです。そうしたら田中眞紀子さんは「50万トンなんてありえない!」と言うんですね。われわれが「そうだ、そうだ!」と言ったら、「100万トン出すべきよ!」と言ったのを、私は鮮明に覚えています。

 そういう座り込みをやったり、銀座の通りを横断幕を先頭にしてデモをしました。新潟の港に行って万景峰号に抗議したりもしました。私も行きましたけれど、あまりいい思い出はないです。

 デモにしても、先頭は家族なんですね。その後ろに隊列ができているわけですが、だんだん後ろにいくにしたがって、なんか怖い人たちが増していく、一番後ろには、太いストライプのスーツにサングラスをした、ちょっとこわい人がいるというような状況でした。

 毎年春に「今年の活動方針」を作るんですけれども、全て救う会が作ります。それを家族会が追認するというのが、いつものことです。もちろん大筋のこととか、基本的な路線に異をはさむ家族なんて一人もいません。ですから、単なる追認機関です。そういう状況を見て私は、発起人の兵本さんとか石高さんにも相談したことがあるんですが、石高さんにいわせれば「こりゃもうアカンわ」、兵本さんも「う~ん、困ったね」という感じでした。発起人の方々も、もう出る幕がないという状態になって、もう完全に家族会は救う会の下部組織、追認組織となり下がってしまった、というところだと思います。

 私も地方議会とか都内の23区議会を回ろうかと思ったんですが 、なかなか取り上げてもらえなくて、では多摩の方でやろうと、ということで、例えば三鷹市とか小金井市とか、そういう所に回って、要するに市議会で決議をしてもらいたい、拉致された日本人を救ってくださいという決議文を国会あてに出してくださいと陳情をしたことがあります。たしか武蔵野市でしたか、陳述する機会を与えてもらいまして、陳述を15分くらいしたんです。後ろの方に傍聴される方がいて、心強いなと思っていたんですが、陳情が終わってその場から離れましたら、私はぐるっと囲まれまして、「拉致なんてしない」とておっしゃるんで、よく聞いたら朝鮮総連関係の方々方でした。私にはそんなに強くおっしゃらなかったですけど、当時一緒に行った救う会の人たちは、ものすごい強烈な言葉で、罵倒されたという記憶があります。

 結局、市議会によっては、そういう決議をしてくれたところはあるんですが、「朝鮮」という言葉が入らないのがほとんどでした。当時は、「北朝鮮による拉致被害者の救出を求める決議」というような、「朝鮮」というキーワードの入った決議は、ほとんどなかったような気がします。

 そんなことをやりながら、5年ぐらい経って疲れてきた状況で、2002年小泉総理の訪朝があったわけです。われわれも、また小泉さんが訪朝して、コメ支援の約束でもしてくるのかなと考えました。というより、救う会にそう教わったのです。ところが事態は一転、金正日総書記が拉致を認めて謝罪したと言うんですね。これには本当にビックリしました。

 この時の政府のやり方がちょっと私には理解できませんでした。われわれは、旧参議院議員会館の会議室で、一堂に会しておりまして、そこにマスコミ、メディアの方がたくさんいらっしゃったのです。午前中は何もなくて、午後になったら、政府のほうから場所を移動してくれと言われました。外務省の飯倉公館に行ってくれと言うのですよ。なぜそこに行かなければいけないのか、そういう疑問もあったんですが、とにかく行ってくれっということで、大型バスがなぜか用意されていて、それにみんな乗って、飯倉公館に移動したんです。飯倉公館に着きましたら、中央に大きなテレビがありました。自由に見てくださいと言われて見てましたら、NHKが速報を打ったんです。

 最初、「10人死亡」という、速報を流したんです。そのあと訂正して、「数人でした」という訂正をしたんです。"10"と"数"を間違えたのかなと、想像するしかなかったのです。そのあと、一家族ずつ呼ばれて、「おたくの、何々さんは亡くなった」と言われたのです。「なぜですか?いつですか?どこでですか?」と聞いても、「それはわからない。とにかく亡くなった」と言われて、「はい、次の方どうぞ」というわけです。曽我さんは別にして、生きているといわれた4人の家族はいっぺんに呼ばれて、当時の福田官房長官から「あなた方の家族は生きている」と言われました。「証拠は何ですか?」、「いや、生きているんだ」。結局、死んでる人は死んだと、死んだから死んだと。生きてるから生きていると、そういうわけのわからないやりとりがありました。救う会の佐藤さんもいらっしゃいまして、早紀江さんはボロ泣きで、佐藤さんも泣きながら、「申し訳ない。我々のやり方が誤っていた」と、そういう謝罪をしていました。ところが、今でも出てくる早紀江さんのあの発言ですね、「めぐみは大きな役目を果たした」というような、先日和田先生が指摘されたような発言がありました。あの発言は明らかに、早紀江さんは、めぐみさんはもう亡き人だということを踏まえた発言だと、私も聞いていました。

 ところが、あの泣いていた佐藤さんも含めて、すぐに態度が変わって、「証拠がないから全員生きている」に変わってしまったのです。

 私たちは小泉訪朝の翌日に外務省に行って、直接生きている5人に会ってきたという人と、死亡を聞いたという人に外務省で会って、「根拠は何だ?」というふうに、問い質したのですが、「根拠はない」という返事でした。生きていると言った人も根拠はないと、音声もなければ映像もない、なにか書いてもらって筆跡で確認できるものも何もない状況でした。ですから、生きていると言われた人も、亡くなったと言われた人も、とにかく証拠がない、証拠がないので全員生きているんだ、という動きが出ました。

 生きている人は、全員原状回復せよ、亡くなったと言われている人も証拠がないんだから全員生きている、生きているんだから全員返せというふうに、変わってしまいました。

 私は、小泉さんと金正日総書記と交わした日朝平壌宣言を全否定するつもりはまったくありません。独自外交で、核ミサイルのモラトリアムにまで踏み込んだというのは、非常に大きな成果だと思っております。

 過去の清算については、日本と韓国の基本条約に準ずるものであるので、そこは私は問題だなと思っています。今も日韓でいろいろな問題が起きていますから、日韓条約に準じた場合、将来的には日本と北朝鮮側とも、また大きな問題が起きる可能性があるのんではないかと思っています。

 小泉さんは日朝平壌宣言にサインすることにものすごい情熱を傾けていた。とにかく、日朝国交を成し遂げるんだということには、非常に懸命にやっておられたというのはわかります。そこには拉致問題っていうのがあって、拉致問題をどうするんだということが、悩みの種であったのでしょう。これは実際に交渉に当たった田中均局長もそうだったと思うんですが、アメリカを差し置いて電撃訪朝して、金正日総書記と会ったということは、そこまでは私は良かったと思うんです。小泉さんは結局、向こうが拉致を認めて5人生存、8人死亡で詳細は知らないと言ったことを、そのまま鵜呑みにしたというか、受け取ってしまったっていうのが、今こんなふうになっている原点ではないのかなって思っています。もっといえば、そこは田中さんとミスターXといわれている人の詰めが甘かった。もし拉致を認めるんだったら認めなさい、生きているんだったら小泉さんが連れて帰る。亡くなったというならそれなりの証拠を出しなさい、賠償はどうするんだ、賠償するよね。そういうことを決めた上で日朝平壌宣言にサインしているのであれば、アメリカの妨害が入るとは思いますけども、こんなに停滞することはなかったと思います。ですから、私は一言でいうと小泉さん、田中さんのやり方は、拙速であって、詰めが甘くて、拉致被害者たちの人権への配慮が足りなかった、というよりも欠如していたのかなという気がします。

 小泉さんが帰ってきて、これは大変なことになったということで、じゃあもう1回行こうかということになったと思いますね。

 その間に5人の一時帰国というのがありました。一時帰国ということについては、私も戸惑いました。最初に中山恭子内閣官房参与から聞いた話は、今回は一時帰国です。次回は全員帰ってきますという話だったんです。

 帰ってきた弟の話しをきくと、とても次なんてないなと思いました。では、一時帰国ってなんだということになりました。自分が生まれた母国に帰ってくるのに、なんで一時帰国なんだ、という疑問が大きく頭の中にわいてきました。これは止めるしかないな、一度戻ったらもう二度と帰って来られない。止めるしかないなと。止めるといっても、これは弟の判断が一番尊重されるべきものですので、我々は止めますけども、本人は何て言うか分かりません。地村さんご夫婦はもう最初から戻りたくないと言っていました。弟たちはなかなか頑なでした。曽我さんはあまり多く語らない人なので、いつも他の被害者の皆さんの意向に従うというようなスタンススタイルでした。

 結局弟は、向こうに帰って子供を取るか、日本に残って親兄弟を取るかという、究極の選択を迫られたわけです。それを選択するというのは、彼にとっては非常に厳しいので、両方取るにはどうしたらよいかを考えて、本人に言いわせるとギャンブルに出た、と言っています。結局日本に残ることが両方取ることを可能にするということで、今の状況になるのです。

 当時私は、いろいろな方に叱られました。お前が日朝の国交正常化に進む道を閉ざしてしまった。お前が約束破りの張本人だと、結構叱られました。そもそも、一時帰国って何ですか。そんな約束を日本政府と北朝鮮政府がするんですか。国交正常化のための国と国との約束が国益だとしたら、国益のために家族を捨て石にするんですか。というふうに考えたら、私はそれはできないということで、必死に弟を止めました。

 インターネットでも相当叩かれましたし、直接言われたこともありますけれども、そういう時には、あなたがそういうお立場でしたら、どうなさいますかっていうようなことで、いつもお話をしてきた経緯があります。

 子供たちはまだ帰国していないということで、待つこと1年半近くで、ようやく小泉さんが再訪朝して、子供たちを連れて帰ってきてくれた。ジェンキンスさんと曽我さんのお子さんたちは、まだ帰ってこなかった。

 ところがこの時、救う会と家族会が一緒になって、「小泉さん行くな」、「再訪朝なんてするな」と言い始めた。「再訪朝するより経済制裁しろ」というふうな声明文を出したのです。私は、家族会がそれを出すのはやめてくれと主張して、すったもんだして、結局救う会の名前で再訪朝反対、再訪朝より経済制裁をという声明を出すというふうに、変わったんです。

 小泉さんが日帰りで、夜遅くなって、帰ってきた5人も出席する中で、説明に来たんですね。そうしましたら、家族会は小泉さんを罵倒するわけですよ。「今日は最悪だ」とか、「子供の使いか」とか、「プライドあるのか」とか、のっけからいい出した。これはテレビで中継、あるいは録画で放映されたものですから、日本中から救う会に、何千という抗議のメールが入りました。「お前ら何様だ」、「一国の宰相に向かってなにを言っているんだ」、「どんだけ偉いんだ」というメールが、たくさん来たんです。

 小泉さんが帰ってくる前も、首脳会談は午後1時過ぎに終わったと、連絡がありましので、もっとやれ、もっとやるように平壌に連絡しろとか、すごい剣幕で外務省の役人に食ってかっていた人もいました。普通はテレビって頭撮りしかしないので、会合の中身はあまり放映されることはないのですが、不思議なことにこの時ばかりはずっとテレビカメラが回っていたんですね。

 小泉陣営としては、称賛されても、支持率はあがるでしょう。逆に、あまり想定していなかったでしょうが、抗議があっても、その跳ね返りで、また支持率があがるだろうと、そういう目論見があったんじゃないかなと、私は考えております。

 その後、アメリカからも横槍が入り、多分小泉さんは悩んだと思いますが、それ以来、拉致問題に対する情熱も失せてきて、国交正常化もなかなか難しいんじゃないかなと思うようになったんじゃないかと、私は想像しています。

 みなさんご存じだと思いますが、安倍さんが5人を引き留めたという美談が当時流れていましたが、あれは真っ赤なウソです。本当は、安倍さんは地村さん夫妻に早く帰れっていっていたんですね。地村さん夫婦は「イヤです。安倍さん、自衛隊が一緒に行ってくれるんですか」くらいのことまで言ったそうです。ですから、安倍さんご本人も、「止めた」といった方が、国民受けするんだろうなという思惑もあったんだろうと思いました。

 安倍さんは平壌になぜか官房副長官で行ったわけですが、あの時小泉さんに「拉致を認めなかったら机を蹴飛ばして帰りましょう」と言ったという武勇伝も結構流れていましたので、そんな風潮に押され、結局小泉さんから、次は安倍さんだと、いうふうになったのだと思います。

 ちょっと話しがズレるかもしれないですが、私たちは政府、外務省の担当課長、あるいは警察庁から、情報をもらったことは未だかつて一度もありません。外務省が説明するより 、報道が先行するんですね。テレビ・新聞で知ったことを、外務省や当時の内閣官房参与室に呼ばれて行って、説明を受ける。小泉さんが訪朝するというニュースも、新聞やテレビが先です。5人が帰って来るというのも、私はメディアの方から聞きました。

 外務省に聞くと、これは外交機密なので言えない、家族だけでもここだけの話ということで聞けないか、と言っても、いや外交機密だから言えないと言われます。警察庁に行っても、われわれは法と証拠に基づいて捜査していますと言うだけです。何か情報があったら、と聞いても、これは捜査上の機密で教えられないということです。地元の警備課長が、今でも訪ねてきますけれど、当時も訪ねてきて、何かありましたかというんです。何かありましたかって、こっちが聞きたいくらいです。未だかつて、外務省なり、対策本部なり、政府なり、警察などから新規の情報をもらったことは一切ないということを申し上げておきます。われわれに対して、丁寧な説明など一切なかったし、いまもない、と申し上げておきたいと思います。

 前後しますが、救う会の幹部の一員だった荒木和博さんが独自に、北朝鮮に拉致された疑いを排除できない人たちを「特定失踪者」と命名して、そのリストをつくり、政府側に提出しようとしたことがありました。そうしたら、佐藤勝巳さんと仲違いが起きまして、結局荒木さんは排除されて、特定失踪者問題調査会をつくるにいたります。この特定失踪者という方々の中には、状況証拠からみて少し怪しいと思われる方もいらっしゃいます。政府は特定失踪者という名前を使いませんが、拉致問題対策本部のホームページに、「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」のことが挙げられています。そこに警察庁ホームページへのリンクが貼ってあります。そこにジャンプすると、873人いると、そのうち公表していいと言っている人が455人いると書いています。特定失踪者といわれる方々も特定失踪者家族会というのを作っています。そこは荒木さんが一生懸命やっています。現地調査をして、国に早く認定してくださいと言いっているんです。政府はこの人々については、情報を集めて認定できる人はするというような曖昧な態度をとっていますが、拉致対策本部のホームページには、「認定、非認定に関わらず、全ての拉致被害者を帰国させる」と、書いてあります。認定、非認定に関わらず、政府が何もしないことには変わりないと、私は思うんですが、認定にこだわっている方も多いです。

 いま政府認定者は17名です。5人帰ってきたのであと12人だということです。特定失踪者を含めて八百数十人をまとめて帰せという、政治家もいます。古屋圭司さん(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟会長)も、テレビで堂々とそう言っていました。しかし、現実的には800名も拉致するはずはないのです。日本では、年間約9万人の行方不明者がでると統計的には言われています。そのうち90%以上の人は2、3年で所在が分かるんです。亡くなった方は死亡が確認されたり、そうでない方は住んでいる場所が分かったりするのですが、全員見つかることはないんです。

 そうなりますと日本に行方不明者がいる限り、特定失踪者は永遠にゼロにはならない。北朝鮮に対して返せ、返せということになる。そう考えると、いい加減政府も姿勢をはっきりすべきだと思います。政府の姿勢は非常に曖昧です。私は警察庁の怠慢じゃないか、と思います。探したけど見つからない。3年、4年経っても見つからない。これはもう荒木さんの会におまかせだ。そういうことは私はまずいと考えます。

 安倍さんは首相在任最長期間を記録した方ですが、家族会と救う会とは全く蜜月関係で、「安倍さん何やってんの!」という声は、絶対聞こえてこないです。政府側でも、対策本部が専門家の意見を聞くといって、荒木さんとか西岡さんを呼ぶんです。和田先生は絶対に呼ばないと思います。(笑)

 そういうわけで、救う会と政府は一体化しているような感じがしました。一体化すると同時に、ますます先鋭化している。国民大集会は、はじめは日比谷公会堂でやっていたんですが、そこにはいろいろな方が日の丸の旗を持って来ていました。旧陸軍兵士の格好をした方、ゲートル巻いて、まさかサーベルは持ってなかったと思うけど、そういう方がたくさんいました。我々が「返せ!」と言っているのと、右翼の街宣車が言っていることが、同じなんですね。それにちょっとショックを受けまして、「おい、待てよ」と感じた次第です。

 この国民大集会というのは、一応、拉致被害者家族会、救う会と荒木さんの会が一緒になって開くのですが、一昨年の大集会で、安倍さんとか官房長官とか拉致担当大臣とかも出席する会なんですけれども、ここの席で、荒木さんがわずか5分くらいの間に6、7回「戦争だ!戦争だ!」と言ったのですね。櫻井よしこ氏が司会をやっていて、「私の最優先課題だ」と安倍さんがいうと、「何年経ってると思うんだ!」というようなヤジが飛ぶ。そうすると、櫻井さんは「まあまあ、総理の温かい、ありがたいお言葉、静粛に聞きましょう」と、止めるんです。ところが、荒木さんが、「戦争だ!戦争だ!戦争だ!」といっているのに、何も制止することがなく、黙ってみんな聞いている。家族会も、「戦争っておかしいだろう」って言わない。誰もその場で異論を唱えないのが非常に不思議なことで、まさに危険です。亡くなった佐藤さんも、いつも声高に「日本も核武装しなければけりゃならん」と言われたのを思い出します。

 最近の家族会・救う会の動きを見ておりますと、まずは「全員帰国させろ」と言うのはよくわかります。まずとりあえず、スタートラインは全員生存を前提に全員返してくれと主張する、それは分かります。その次に「全員一括返せ」というようになった。今は「全員一括即時帰国させろ」です。「即時」は今この時点で破綻していると思います。裁判所の即時抗告でも、確か一週間ぐらいだったと思うんですね。「即時」というのは、今この時点で不成立です。それから「全員」と言って、何人だとは言ってないんです。先の政府と同じ立場です。12人なのか、あるいは特定失踪者も含めた870人以上なのか、一切言ってない。それで、例えばめぐみさんが見つかった、生きている、帰りたいと言っている、とすると、彼らはノーを出すわけですよ。「一人じゃダメなのです。一括なんです。」これは本当に、欺瞞というか詭弁であって、わざとハードルをあげて、無為無策の安倍さんに助け舟を出している。これは、現在の菅政権へも同様だと思います。

 最近思うのは、家族会は本当に救出を望んでいるのかどうか、私は首をひねらざるを得ないのです。少なくとも救う会の目的は、救出ではなくて北朝鮮打倒です。あとは右翼系の政治家、そういう人たちは、拉致というのは日本が持っている「被害国カード」、彼らにとっては、「被害国だ」という、カウンターで出せるカードは非常に有効である、だからこのカードは手放さないのではないかという気がします。それは前回の和田先生の話しとも共通するかと思いますが、つまり、日本が「加害国、加害国」とか言われるのを嫌って、認めたくない、にもかかわらず加害国といわれるから、それのカウンターとして拉致問題で日本は被害国だと言いたてる。私が考えるに、植民地支配の加害国に比べれば、拉致問題の被害国というカードは、ものすごく小さいと思うんですが、それでもそういうカードを持っていたいんじゃないのかなと思います。

 救う会もそうですし荒木さんの会もそうですし、これは未解決のまま、長続きした方がいいんです。なぜなら、彼らの生業だからです。

 そういうことで結局私は、この問題がとんでもないことになってしまった、膠着状態に陥ってこんなに長期間経ったのは、救う会が入り込んできたためだと思います。救う会が入り込んで来なければ、家族会は何もできなかったのかもしれませんが、それにしても救う会がつくった罪は非常に大きいと思います。

 実は小坂浩彰さんのレインボーブリッジにも家族会がご相談に行ったことがあるんですね。でも救う会からやめろというような指示がでたのです。ですからいろいろなところにブレーキをかけて、変な方向にアクセルを踏むというのが、救う会のやり方で、うまい具合に家族会をコントロールしながら、自分たちの真の目的をあらわにしないようにしながら、実は自分たちの目的に突っ走っているというのが、救う会の真の姿ではないのかなと思います。

 最後に、国の拉致対策本部のお金の使い方です。これはホームページで見ることができます。支出の項目に「情報収集とそれの分析」があるのですが、安倍政権の約8年の間に約69億円使っているのです。これだけ使えば、何かの情報を獲得しているはずです。北朝鮮は、拉致問題は必ず解決済みだと言いますから、本気で交渉する気があるのなら、解決済みだって言わせないようにしなければいけないんです。どうしたらいいか。生存情報を取ってきて、テーブルの下で彼らにつきつければ、解決済とは言えなくなるはずだと思うんです。それなのに、安倍さんの約8年間で69億円使っても、北朝鮮につきつける生存情報を獲得できていないのです。

 それと、ろくでもない短波放送。これに約9億円です。今は二本立てでやっています。拉致問題対策本部がやっているのは、極めて情緒的な短波放送。「何々ちゃん元気、待っているよ」と呼びかけています。その後に当時流行った歌謡曲を流す。その放送メニューが毎週毎週私たちのところに送られてくるんですよ。いらないって、言っているのですが、送ってくるんです。あるとき、今週の曲は、沢田研二の「勝手にしやがれ」だというんですね。それを見て、「勝手にしやがれ」はないだろうと思ったんです。すごい皮肉だなと思いました。

 それともう一本は、荒木さんの会、特定失踪者問題調査会がやっている短波放送です。これはいつも妨害電波にあって、なかなか聞き取れないんですけれども、非常に攻撃的で挑発的で、危険な放送だと思います。

 その挑発的な放送は問題外なのですが、非常に情緒的な放送の方も、問題です。向こうでは短波ラジオなんて聴けないと思うのですが、弟は隠れて聞いていたというので、仮に隠れて聴いている人がいるかもしれません。しかし、向こうで生きているんだったら、もう日本に行くなんてことは忘れようとして生きていると思うんです。そこに、「何々さん元気」などという声が聞こえてきたら、その人の心情はより複雑になると思うんです。そういうこと考えないのかな。「助け0に行くから、何月何日ここに決起しろ」みたいな呼びかけならいいのでしょうが、そんなことができるわけがないのです。そういうことを考えないで、長年にわたり、毎年1億円くらい使って、こういう短波放送をやっているのです。

 私が一番腹立つのは、「理解促進」という名の啓発活動です。これに安倍政権は、8年間で約14億円も使っている。やれ作文コンクールだ、ポスターだ、めぐみさんの映画だ、アニメだ、若年層へのアピールだといって、やっています。若年層というのは、小学生とか中高生とかの作文を募集しているのです。これは、そんな人達に託すような問題なんですかと、私は思うんですね。そういう次世代につなぐような問題じゃなくて、今の世代で何としなきゃいけない問題なのです。教育とか啓発とかの材料も、全てとは言わないですけど、どちらかといったら「朝鮮が悪い」という内容のものばかりです。めぐみさん、13歳の少女を拉致して行く朝鮮はけしからんという話がほとんどです。そういう話を小学生、中高生に植えつけてどうするんだと、私は疑問に思います。6月29日にもオンラインでシンポジウムが開かれますが、あんなものやっても、私は全く意味がないと思います。
 *日本、米国、オーストラリア、EU政府の共催で「拉致問題に関する国連シンポジウム」が開かれる。

 それから、先々週ぐらいに地元で話題になったのは、「めぐみへの誓い-奪還-」という演劇の監督がクラウドファンディングで映画にしたものが上映されていることです。これも結構フィクションが入っていて、朝鮮の強制収容所がどうしたとか、ホロコーストがどうしたという話も出てくるのです。拉致問題は人権問題の一環だということは確かですけど、私はあまり人権問題として一般化して強調すると、中国のウイグル問題ではないですが、北朝鮮側も態度を悪くするというふうに私は考えております。

 政府は北朝鮮人権問題週間を毎年12月にやっていますけど、そんなことしている暇あったら、独自外交を開発して、なんとか交渉をしてみろって、私はいいたいと思います。それは意味がないということを地元でもわかってる方が、だんだんではありますが、増えてきています。

 メディアの方にもお願いしたいことがあります。もうすぐ横田滋さんの命日が来るのです。中央のメディアでやるかどうかわからないのですが、地元のメディアでは、私に取材依頼がありました。「何ですか?」と訊くと、「いや滋さんの命日なので、ちょっと特集を組みます」と言うのです。「私に何を聞きたいんですか」と言いましたら、節目節目で滋さんが何をおっしゃったかとか、どういう表情をされていたかとか、どういう行動されたかを聞きたいと答えがありました。「それでまた感傷的なストーリーをつくるんですか。そんな記事だったら私は一切協力しません」と言いましたら、「ではご両親はいかがですか?」と言うのです。「いや、両親は息子のことで一生懸命で、滋さんの表情なんか、見ている暇なかったんじゃないですか」と言いましたら、それ以降全然電話がかかってこなくなりました。

 少なくともメディアでは、家族会と救う会が聖域化されて、皇室みたいな扱いになっていて、なかなか批判できないのです。今の東京五輪と同じだと思うんですね。救う会のやり方がおかしいと言うとか、家族会の悪口を言うとか、それから、横田めぐみさんが亡くなっているとは言わないまでも、それに近いような表現を使うとかすると、抗議がいったり、裁判に訴えられたりしますので、マスコミの人は腰がひけて、どうなっても感傷的なことばかり報道するしかなくなってしまうのかなと思います。いうふうな感想をもっています。

 メディアが常に使うのは、横田めぐみさんの中学校の制服姿、桜の木の下で写っている写真です。めぐみさんは、あの報道の仕方では、ずっと13歳のままなのですね。めぐみさんの現実はもうすぐ還暦を迎えられる歳にあるわけですよ。そういうふうに、いつまで経っても13歳の中学生と印象付けるというのは、どうなんだろうなと私は思うんです。それは13歳の女の子が拉致されたということは非常にショッキングで、インパクトは大きいことなのですが、現実はそうじゃないので、そういうところも報道するんであれば、もう56歳というような、正確な歳を報道することが、私は必要なんではないかなと思っています。

 最後に救う会に対して、恩義を感じている家族が結構いるということもあります。これは申し上げましたように、家族たちが何もできないときに、ボランティアで助けてくれたということに由来するのです。そういう方も、だんだん少なくなってきましたけれど。

 私の話をここで終わらせていただきます。ありがとうございます。

討論 司会者和田春樹氏

質問 救う会と家族会の関係を詳しく説明していただき、はっきりしました。救う会の中心人物であった佐藤勝巳氏があれほど家族会に強い影響力をもち、政府との交渉をも主導し、政府の政策決定にも関与し、安倍氏の顧問の役割を果たすまでにいたったことについては、佐藤氏その人が横田めぐみさんの拉致ということを『現代コリア』のホームページにはじめて発表したことが大きかったのではないかと考えますが、どうでしょうか。
 第二に家族会の運動、救う会の運動には行動右翼の人々が参加されたこと、さらに運動が全国に拡大するさい、同じ時期にスタートした日本会議がとくに長崎県ではこの運動に参加してきたことをご指摘になりましたが、私も最近日本会議のホームページをみて、2002年11月18日の日本会議創立5周年の大会で安倍官房副長官とともに特別挨拶した横田滋氏が、各地の救う会では、「日本会議という名称で活動されてはいませんが、実質的には日本会議の方が中心的な役割を果たして下さっておりましたことに感謝しております」と述べていることを知りました。
 第三は、「被害国カード」というご指摘に関わることです。1995年には、過去の侵略戦争、植民地支配を反省し、謝罪するという日本の新しい公式的な立場が国会決議、村山談話で打ち出され、そのような国会決議を許すなという運動が敗北しました。そういう勢力が97年からまきかえしをはかり、2002年まで5年間努力した結果、2002年の小泉訪朝、日朝平壌宣言路線の敗北であったのです。拉致問題は植民地支配反省の精神で日朝国交正常化をはたすのを阻止するカード、「被害国カード」として使われたと思います。日本は謝罪する必要はない、向こうが加害者なのだからとするカードです。

蓮池氏 佐藤勝巳さんは元々北朝鮮への帰国事業をしていた人です。その人の心境の変化は私にはよくわからないのです。左翼的な思想を持っていた人が180度転換してしまうと、非常にたちがわるいと言われますが、その通りだと思います。『現代コリア』は定期的発行もおぼつかなく、われわれも手伝わされることもありました。そういうマイナーな雑誌を出すのに苦労していた佐藤氏が救う会全国協議会会長になったのです。われわれが最初に政府に申し入れしたのは小渕外務大臣でしたが、その時、佐藤さんが先頭に立って会議室に入っていき、上座に座ったのです。佐藤さんはようやく自分のやっていることが日の目を見たという感覚をもったのではないかと思います。2002年に13人拉致を認めたという報告がありましたので、拉致は疑惑ではなくて、本当だっただろう、自分の言ってきたとおりだったろうと胸をはる、佐藤さんはものすごくエネルギーをえたのだと思います。佐藤さんはメディアに顔を出す、政府と会うときには横田さんと並んで一番前に出る。私を含めた家族会もなんか舞い上がってしまって、勘違いした面があるのかなと思いますが、佐藤さんはいろいろ脚光をあびて、影響力も大きくなり、お金も入ってくるということもあったわけです。北海道の篤志家から現金1000万円を受け取って、カバンに入れて帰ったという話もありました。ただし、石高さんがつかんだ情報を横田めぐみさんというところに結びつけたところでは佐藤さんが果たした役割は大きかったと思います。

質問 安倍首相の拉致問題取り組みについてうかがいます。ストックホルム合意までは、交渉、解決の意欲をもっていたようですが、その後は米国大統領に被害者家族を会わせる以上のことはしなくなったように見えます。どう考えますか。

蓮池氏 安倍さんはあれだけ自分が拉致問題を解決すると大見えを切った人だから、やらなければならなかったのだが、ストックホルム合意は福田内閣のさいに取り付けた合意の延長線上のものでしかなく、それも途中で投げ出してしまった。トランプ氏と話をするのなら、トランプ氏と北朝鮮の取引に日本の経済協力も加えて、拉致問題での新たな措置を引き出すというようなやり方をしてもよかったと思います。ただアメリカに拉致問題の解決を頼むというのではだめでしょう。バイデン政権になって、どういう交渉がはじまるのかわからない。時間があったのに、安倍首相は実質的には何もやらなかったと見ている。あまりやる気がなかったのではないでしょうか。田中実さんの帰国意志確認はやってもよかったと思うのに、それもやらなかった。
 万景峰号の入港禁止などの制裁措置をまた二年延長しましたが、これも一年ごとの措置にして、北朝鮮側の出方をうかがうというようなやり方をとるべきだと思います。

質問 第一は、家族会の事務局長をやめる経過について。福岡でお話をうかがったとき、やめさせられたというふうにお聞きしたのですが、その点どうでしょうか。
 第二は、拉致問題の解決は国交正常化と一体にして交渉するか、国交正常化を早めにしたあとに拉致問題の解決をはかるかのどちらかではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 第三は、二階自民党幹事長の最近の発言について、どうお考えですか、伺いたい。

蓮池氏 家族会にはもともと事務局長というポストはなく、自分と増元照明氏は事務局だったのです。地方議会をまわるために名刺をつくったときに便宜上事務局長と勝手に名乗ったことがあり、それからそのように扱われてきたのです。自分がやめたのは、たしかにやめさせられたというのが近いと思います。議論として、あなたの所は帰ってきたので、あなたの発言には説得力がないと、いわれました。だったら他の人がやればいいという流れでした。また、増元氏が選挙に出るので事務局長という肩書が必要だと言う話があって、それならどうぞということにもなったのです。
 国交正常化については、とうに進めるべきことだったし、そのためには過去の清算が必要だということも当然だと考えています。経済協力のプログラム、額と内容を具体的に提示したらいいのではないかと思います。拉致問題解決がどこまでいったら、経済協力をここまでやるというふうにしたらいいのです。国交正常化のプロセスと拉致問題の進展をシンクロナイズして、進めていって、拉致問題が解決すれば、あとは国交正常化ひとすじで進むというようにするのがいいと思います。
 二階発言については何とも言えません。北朝鮮と無条件で向き合うということは言わない方がいいと思います。

質問 自分は佐渡島出身でして、10数年前に曽我さんに話を聞いたことがあります。曽我さんの語られたことは救う会の語り口とは大分違うという印象をうけました。蓮池さんの今日のお話もとても筋がとおっているお話でした。こういう被害者家族の声が知られれば、国民の考えも変わるのではないかと思いました。

蓮池氏 曽我さんの立場はとても複雑で、拉致被害者でありながら、被害者家族会の一員でもあるのです。西岡力氏に呼ばれれば、国民集会に出ざるを得ないのです。家族会の中ではやはり一番は横田早紀江さんだと思います。拉致問題は基本的に横田めぐみさん他の問題なので、早紀江さんの発言が一番影響力があると思います。ですから早紀江さんに率直な声をあげてほしいのです。しかし、昨年滋さんの葬儀のときの記者会見をみると、早紀江さんは西岡さんと息子さんにはさまれて、発言を抑えられているようです。早紀江さんには活動家としてではなく母親として語ってほしいと願っています。

司会者和田氏 「拉致問題の解決とは何か」を考えることが必要だと蓮池さんが言われたことが重要だと思います。たとえば、拉致の事実を認め、謝罪させる、補償を支払わせる、生存者を帰国させる、死亡したとされた者については事実経過の明確な説明、遺骨の所在の開示をもとめる。家族の立ち入り調査を求める。さらにもっと必要なこともあるでしょう。そういうことを明確にして、そのどこまでが達成されたのかを議論し、国交樹立までにどこまで達成するか、ここからは国交樹立後交渉をつづけるということをつめて議論しなければならないと思います。

日朝国交交渉20年検証会議第3回のご案内(略)

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