日朝交渉20年検証会議メール通信 第4号

2021年7月27日発行

事務局からの報告

〇運営相談会を行いました

 運営に参加して下さると申し出ていただいた方々を中心に運営相談会を7月4日にオンラインで行いました。さまざまなご意見をいただきましたが、2002年を検証するためには田中均氏のお話をうかがいたいものだということで合意がうまれました。そこで元雑誌『世界』編集長の岡本厚氏が田中均氏との交渉を引き受けて下さいました。ありがたいことに田中氏は8月末の会議で話をすると快諾して下さいました。

〇検証会議7月例会は中止させていただきます

 7月末に第4回会議を予定していましたが、報告者をお願いできず、延期することにいたしました。

〇8月の会合をご案内いたします

第4回検証会議 8月29日(日)午後1時―3時半
報告者 田中 均氏(元外務省アジア大洋州局長・外務審議官)
主題 2002年日朝首脳会談を振り返る
司会者 岡本 厚氏(前岩波書店社長)
田中均氏は検証会議の記録を読んで、報告を準備して下さるようで、ありがたいことと考えます。

〇外務省に対する資料公開請求に関する件

 本年6月1日、外務大臣にたいして、和田春樹名で二点の行政文書の開示を請求しました。
 1 平成14年(2002年)9月17日平壌で行われた日朝首脳会談記録(詳細速記録に近いもの)
 2 平成16年(2004年)5月22日平壌で行われた日朝首脳会談記録(詳細速記録に近いもの)注記 2009年11月8日NHKスペシャル「秘録日朝交渉」で部分的に公表された
 これに対して7月1日、外務大臣名で次のような通知がありました。
 第1文書については、「令和3年7月30日までに相当の部分について開示決定等を行い、残りの部分については、令和3年8月16日までに開示決定等を行う予定です」、第2文書については、「令和3年7月30日までに相当の部分について開示決定等を行い、残りの部分については、令和3年9月14日までに開示決定等を行う予定です」です。このように開示決定等の新たな期限を設定した理由としては、文書が大量である、担当課が処理すべき文書が著しく多い、事務繁忙である、開示・不開示の審査に慎重な判断が求められるという4点があげられています。おそらく最後の理由でしょう。結果を待ちたいと思います。

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[投稿]

報告「佐藤勝巳氏の思想と行動」に対する補足、あるいは後書き

和田春樹

 6月例会で報告をした直後に会議に参加された記者の方から、自分は吉田猛氏に会ったことがある、さらに吉田氏は『新潮45』に回想を載せている、それを見ていないのかという御指摘をうけました。それで大変ありがたく、また恥ずかしくもなり、教えていただいて、吉田氏の文章も読み、吉田氏を紹介していただき、お会いして、聞き取りもさせていただきました。とりあえず重要ないくつかの点をご報告いたします。

 吉田猛氏について佐藤勝巳氏は『現代コリア』1995年5月号で最初に吉田氏問題を取り上げたさい、次のように書きました。「この吉田猛という人物は、表向きは日朝貿易商社社長となっていますが、実は60年代後半に日本国籍を取った在日コリアンなのです。・・・私にいわせれば北朝鮮のエージェントです。・・・そういう人が加藤紘一事務所のスタッフとして日本与党訪朝団の随員となっているのです。」

 だが、吉田猛氏はその回想「『大物工作員』と呼ばれた男の告白――北朝鮮と私①」(『新潮45』2013年9月号)の冒頭で、「私の父は戦前にソウルから日本にやってきて帰化し、陸軍の松井石根大将のもとで物資調達の仕事をして居ました。その松井大将のお宅に千葉から行儀見習いに来ていたのが母です。だから生れはまったく関係ない。北の人間でもエージェントでもなく、いうなれば、コーディネーターという立場なんです」と書いています。吉田猛氏の父吉田龍雄は京城出身の朝鮮人であり、日本帝国時代には帝国臣民であったが、内地の吉田氏の娘と結婚し、吉田籍に入籍したため、戦後も日本国籍を保持した人であったようだ。したがって、1948年に生まれた吉田猛氏は最初から日本国籍の人であったのであり、60年代に日本国籍をとった在日朝鮮人だというのは嘘だということになります。

 吉田氏はルーツが朝鮮人であることから父のつくった会社に入って、日朝貿易の仕事をしながら、「日朝友好と日本の安全保障や国益のためを思って協力してきた」と自分の活動を説明しています。吉田氏が日朝外交の仲介役を演じた最初は1986年のことであり、外務省の鈴木勝也アジア局審議官とコンタクトをもったのが最初であったと『新潮45』2013年11月号の連載③に書いています。鈴木氏の次には川島裕審議官に紹介され、川島氏が金丸田辺訪朝に関与するにともない、吉田氏もこの行動に関与するようになったとのことです。金丸・田辺訪朝団の出発に先立って、吉田氏が許錟労働党書記に連絡をして、パリで日朝の外務当局者の会談が行われたと吉田氏は書いています。北からは宋日昊氏、日本からは川島裕氏と岡本毅北東アジア課長補佐が出席したとのことです。川島裕氏は1996年4月5日の衆議院予算委員会で新進党米田建三議員の質問に答えて、吉田氏は「当時与党がいろいろと北朝鮮側とのやりとりをしておられる際に、いろいろ北朝鮮側との連絡において役割を果たしておられた方というふうに認識しておりました」と述べ、さらに自分がアジア局審議官をしていた時、「第18富士山丸の乗員の釈放につきまして、・・・いろいろとその時期お手伝いをいただいたことは」あるとも語っています。

 日朝の交渉をおこなうさい、北朝鮮と強いパイプをもつ経済人に仲介者になってもらうということは何も問題はないことだと考えられます。そういう仲介者がいるからこそ、交渉ができるのです。佐藤氏が吉田猛氏を「北朝鮮のエージェント」ときめつけて攻撃し、はては「北朝鮮のスパイ」であるかのように主張して、加藤紘一氏を政治的に失脚させるのに利用したことはあまりに不当であることが明らかです。

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