日朝国交交渉20年検証会議第1回 報告

報告者:和田春樹

2021年4月29日

1 日朝国交促進国民協会の敗北

 日朝国交促進国民協会は2000年7月3日に発足した。嵐の夜で、星稜会館の外には行動右翼の宣伝カーがきたのを思い出す。協会は村山富市元総理が会長、三木睦子、明石康、隅谷三喜男の三先生が副会長、村山内閣の閣僚の宮崎勇氏、国際関係史の権威細谷千尋氏、NHK解説委員長であった山室英男氏、それに韓国朝鮮研究を代表する小此木政夫、小牧輝夫、木宮正史、水野直樹、田中宏、高崎宗司教授らを理事・諮問委員に迎え、国民協会の名にふさわしい顔ぶれであった。

 国民協会がスタートしたのは、1991年にはじまり92年に中断された日朝国交交渉が8年ぶりにその年4月に再開された直後であった。国際的にも2000年から01年にかけて、英伊独などEU13ケ国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなど国連軍参加国が北朝鮮と国交樹立したし、2000年には6月に金大中大統領の歴史的訪朝があり、10月にはオルブライト米国務長官の訪朝もあった。北からはナンバーツウの趙明禄国防委員会副委員長が訪米し、クリントン大統領の訪朝もありうるというかってない雪解け状態が生まれていた。

 だから、わたしたちは超楽観的になり、「日朝国交正常化交渉を2001年のうちに、おそくとも2002年のワールドカップ開催までに妥結し、国交を樹立することが必要でもあり、可能でもある」と設立宣言にうたったのである。

 国民協会は運動団体というより、シンクタンクとして活動した。2000年12月には村山・三木・隅谷正副会長を中心とする訪朝団が出かけ、金永南委員長と会見した。研究活動もおこなった。特筆すべきは、事務局長和田春樹が論文「『日本人拉致疑惑』を検証する」(『世界』01年1-2月号)を書いて、救う会全国協議会の動きに異議をとなえたことである。この人々は脱北工作員安明進を活用して、横田めぐみさんを平壌で見たと言わせ、政府に対して拉致被害者の帰還を要求せよ、進展がなければ国交交渉を打ち切り、制裁を断行せよと求めていた。私は、安明進証言は信頼できない、拉致証拠は原敕晁氏1件のみであり、他は行方不明者として交渉するしかない、国交交渉の中で慎重に交渉すべきだと主張したのである。これに対して猛烈な反発が示された。和田は2002年7月、論文集『朝鮮有事をのぞむのか--不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(彩流社)を出し、対抗した。

 国民協会は2002年6月にも第二回訪朝団を出したが、小泉政府が進めている秘密交渉についてはまったく知り得なかった。だから、2002年8月29日、事務局長はモスクワ大学集中講義のため日本を去ってしまったのである。小泉訪朝発表の前日のことであった。モスクワで小泉訪朝のニュースを知ったとき、私は東京に連絡して、起こりうる事態に対して協会を備えさせることをしなかった。首相訪朝を喜び、安心してしまったのであろう。首脳会談当日、『毎日新聞』に村山会長の談話「正常化へのレールを敷け」が載った。村山談話日韓共同宣言を参考にしてほしいと要望するもので、元総理としての談話である。

 首脳会談翌日には、小牧輝夫氏が朝日の識者座談会に出て、拉致問題は「真相究明して補償を」求めるべきだと述べ、北は誠意を見せて、体制立て直しをはかっている、と語り、平壌宣言支持を表明した。19日の毎日の識者座談会では小此木政夫氏が「署名は賢明な選択」だと平壌宣言支持を表明し、北朝鮮は後戻りできない、経済協力は地域の平和と安全に寄与するものにせよと前向きであった。だがそれだけで、9月17日前後に、日朝国交促進国民協会の声はひびかず、求められもしなかった。和田は9月25日に帰国し、協会の平壌宣言支持声明は実に一か月後の10月15日に発表となったのである。協会は平壌会談後の危機の中で、小泉首相、田中局長支持の国民世論をつくるために何もできなかった。

 和田はモスクワ滞在時に朝日新聞学芸部四ノ原記者の要請をうけ、帰国早々9月17日についての所感をまとめた。これは10月7日の夕刊に「拉致解明と国交交渉は不可分/『敵対の40年・失われた10年』を越えて」と言う見出し付きで掲載された。私は「日本の独自外交の幕を開けた小泉首相の決断は敬服に値する」と述べ、次のように結んだ、「日朝国交樹立、日本の対北朝鮮経済協力によって東北アジア平和の土台を築くことは、日本にしかできない誇るべき国際貢献である。」この論文は、拉致を否定して、間違ったのに謝罪していないと非難をあびせられることになった。

 協会が総力をあげて、シンポジウム「どうなる日朝国交交渉」を開催したのは、12月21日のことであった。すでに日朝国交促進勢力の敗北はあきらかであり、国交交渉をつぶした勢力は勝ち誇っていた。

 2002年に協会は敗北した。もとよりはるかに深刻なのは小泉政府の日朝国交正常化への挑戦が失敗に終わったことである。以下その点を検証しよう。これから話すのは私の問題提起だ。検証をお願いする。

2 小泉政府の挑戦

 小泉内閣は2001年4月26日に成立した。小泉首相、福田官房長官、田中真紀子外相といった顔ぶれである。最初の変化は、田中外相の解任であった。田中外相はこの間対ロシア領土交渉を主導してきた東郷和彦欧州局長と衝突した。東郷局長は鈴木宗男議員、佐藤優分析官と組んで、川奈提案を出し、それがだめとなると、二島プラスアルファ案を推進した。イルクーツク会談からの帰途、東郷局長は保守派の小寺ロシア課長に解任を通告した。これが実施され、小寺課長が英国公使に赴任すると、四島論の田中外相が介入して、英国の空港から小寺氏をよび返し、ロシア課長にもどすことをしたのである。その後、田中外相はNPOの処遇と関連して野上次官と衝突した。ついに小泉首相は2002年1月外相次官両者を解任することになった。後任外相には、民間人出身の川口順子環境相を横滑りさせた。この事件のあとは、首相の官邸外交への志向が強まったと考えられる。小泉首相は郵政民営化に対する強い意欲を持っており、靖国神社参拝タブーを破ることに執念をみせていた。しかし、小泉氏にとって、靖国参拝と村山談話支持とは矛盾せず、中国、韓国に対する戦争、植民地支配反省の表明を厭う気持ちはなかったのである。党幹事長はYKKの盟友山崎拓氏であり、その支持に依拠していた。

 ところで、小泉内閣発足直後、外務省の人事で、アジア局長が槙田邦彦氏から田中均氏へ代わった。実は、2001年1月森総理のところへ北の密使が連絡し、シンガポールで中川秀直・姜錫柱会談で行われた。森氏によれば、北朝鮮からは首脳会談の提案があった。拉致については首脳会談で回答を出す、これまでの補償要求を引っ込めて、経済協力を受け入れるというような内容だったとされる1)。森はプーチンとのイルクーツク会談が控えていて、動きが取れない。槙田局長はこの話を進める条件を見出せなかったのだろう。ただ、北代表とのコンタクトを後任の田中局長に引き継いだようである。

 田中氏は日朝国交に意欲をもっていた人であった。氏は北代表とのコンタクトを生かそうと考え、竹内次官と相談の上、小泉、福田に日朝秘密交渉を開始することを提案した。小泉首相が決断し、11月から交渉を開始することになった。2000年再開された国交交渉は3回で決裂していた。ここで秘密交渉を開始するということは、こんどこそ10年来つづけられても前進がない交渉をこんどは妥結にいたらせるという決意でおこなうということであり、合わせて拉致問題の解決もはかるということであった。

 当然ながら担当者はサンフランシスコ講和以後の共産国との国交樹立の前例を念頭においたであろう。1956年の日ソ国交回復、1972年の日中国交回復、1973年の日ベトナム民主共和国国交樹立の三例がある。前二例はいずれも国内外に反対意見があり、交渉内容も難しく(領土問題や台湾との断交)、首相が河野一郎、大平正芳といった大物政治家を同行させ、日ソ共同宣言日中共同声明に調印して、国交樹立を断行した。ベトナムとはパリ和平協定締結後、米軍撤退のあと、パリで2か月交渉しただけで、駐仏大使が国交樹立の交換公文に署名した。困難な国交正常化は首脳の決意、即決即断によってなされることが明らかである。

 2001年秋は、金大中路線が継続する下で、米大統領ブッシュがこの年1月の年頭教書で北を「悪の枢軸」に数えるように、対北敵視への転換が示された中であったが、北が日本に期待をかける姿勢であることが交渉に有利であると判断された。他方、国内では拉致問題解決要求運動がますます強化していた。家族会結成は97年3月、拉致議連結成は同年4月、救う会全国協議会結成は翌98年4月であったが、97年11月設立された日本会議が会議活動の第三目標に拉致疑惑解明と救済を掲げ、合流をはかっていた。救う会は被拉致者救出を基本的な要求として、政府のコメ支援や連絡事務所設置構想に強く反対していた。00年4月の横田めぐみさん救出第二回国民大集会は日比谷公会堂に2千人を集めており、01年10月の第三回大集会も日比谷公会堂で開かれたのである。

 だからこそ秘密交渉が必要になったのである。小泉首相の意志で、官邸内では福田官房長官、古川官房副長官、別所総理秘書官のみ、外務省内では田中局長、平松課長の他、竹内次官、川口外相だけにしかしらされずに進められた。米国には知らせず、官邸内では対北強硬派安倍官房副長官には知らせないというのは非常手段をとったのである。

 秘密交渉がどのようにすすめられたかは、田中氏が語っているので、知られている。秘密交渉開始の直後の12月、東シナ海での不審船銃撃戦、不審船沈没、乗組員15名死亡という事件があり、翌2002年3月にはよど号関係者による有本恵子事件が浮上するにいたり、4月には拉致疑惑解決副大臣PTが安倍副長官をキャップに設置されたのであった。この間、小泉首相は米国大統領との首脳会談を繰り返した。9・11直後の第2回会談では、テロ戦争支持を表明し、翌年2月には東京で第3回会談、そして6月にはカナダで第4回会談といった具合である。その間小泉首相は秘密交渉について一言も話さず、日米同盟の強化の意志を表明しつづけたのである。交渉が明らかにされた時、米国に反対させないように布石を打ったと考えられる。

 田中局長の秘密交渉はめざましい成果をあげた。第一は、日朝国交の基本原則についての合意にいたり、日朝平壌宣言 をまとめたことである。もっとも、この宣言第一項には、この宣言の精神と基本原則に従い、国交正常化を早期実現するため、「正常化交渉を再開」するという玉虫色の表現がもちいられている。だが、第二項で、植民地支配のもたらした損害と苦痛に対して反省とお詫びを表明する、国交正常化後に経済協力をおこなう、請求権は相互に放棄することを表明した。在日朝鮮人の地位問題、文化財問題について協議するとされた。第三項では、国際法の順守、安全を脅かす行動をとらないことが確認された。日本国民の生命安全にかかわる懸案問題については、日朝が不正常な関係にあったときに起こった遺憾な問題として、今後再び生じさせない措置をとると確認された。これは拉致問題と工作船の侵犯問題をさしている。第4項では、東北アジアの平和に協力していくこと、この地域の信頼醸成を図る枠組みを整備していくことの重要性が確認され、核問題は関係諸国対話を進め、問題解決をはかることで合意し、北はミサイル発射モラトリアムを延長する。

 これによって、日朝国交基本原則は確定されたのであり、残るは経済協力の規模について了解をつくる問題のみとなったとみることができる。

 拉致問題については、北が回答を首脳会談で出すことを約束した。田中氏の『国家と外交』には、総理訪朝時には金総書記が「拉致を認めて、謝罪」し、「情報を提供し、生きている人を帰すという約束をする」だろうと考えたとあるが2)、約束されていたのは回答のみであったようだ。残りの点は首脳会談にのこされるのである。

 この報告をうけて、小泉首相は首脳会談のため訪朝することを決断し、その準備がはじまった。まず、首脳会談を行うことが発表された。8月21日外務省内の谷内総合外交政策局長、藤崎北米局長、海老原条約局長に知らせ、27日には来日した米国アーミテージ国務副長官、ケリー国務次官補に知らせ、30日朝までに安倍官房副長官に知らせ、その上で、この日の午後、福田官房長官が記者会見を通じて公表した3)。聞かされた外務省幹部も米国高官も衝撃をうけただろう。しかし、誰よりも精神的に深い傷をうけたのが安倍氏であったことはまちがいない。小泉首相はその安倍氏に平壌への同行を求めた。

 小泉首相は発表後ただちにアフリカでの国際会議参加のため外遊に出かけた。拉致運動の陣営は4月に新拉致議連が設立されたことでさらに強化されていた。新議連の会長には石破茂氏が就任し、幹事長は西村真悟、事務局長は平沢勝栄であった。首相は拉致議連とは会ったが、家族会・救う会には会わなかった。アフリカから帰ったあとは米国へ赴いた。問題は、首相が首脳会談後にとるべき次のステップをどのように考え、どのように相談して、準備したかが、わからないことである。つまり、国交正常化への工程表をどのようにつくっていたのかがわからないのである。船橋の『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』では、「小泉や田中は、すべてがうまくいった場合、1,2年以内に正常化を仕上げたい」と考えていた、「福田はもう少し慎重だった」とある4)。本当だろうか。もしそうなら、この人々は、おこりうべき事態をあまりにあまく考えていたことになる。

 9月17日は小泉首相の日帰り平壌訪問、日帰り首脳会談の日であった。訪朝団は、首相、別所秘書官、高野紀元外務審議官、田中局長、平松課長、安倍官房副長官という顔ぶれであった。首相以外に有力政治家を欠いており、逆に官邸内反対派の安倍氏を入れているのでは、首相が力強い政治パフォーマンスを決断することはできない。

 首脳会談では、日朝平壌宣言が確認され、両首脳が署名した。日朝両国は国交樹立の一歩手前まで進んだのである。会談が終わって、別れる時、金正日委員長が「国交正常化ができたらまた会いましょう」と小泉首相によびかけたのは当然の期待であった。

 だが、小泉首相には北の告白、謝罪によってあきらかにされた拉致問題の現実が立ちはだかっていた。政府はこれまで公式には8件、11人の拉致疑惑者を数えていた。ところが、北は、13人拉致という驚くべき回答を出した。久米裕氏の入国は否定したが、欧州組の石岡亨、松木薫氏も拉致とみとめ、全く知られていなかった曽我ひとみ氏を生存被害者に加えて発表した。生存者5人、死亡した者8人という通告は残酷な印象をつくりだした。しかも北の出したリストは不完全なもので、混乱を含んでいた。

 会談のあと、平壌で小泉首相は記者会見をおこなった。首相はまず平壌に来て何を達成したかを語るべきであったが、拉致問題から語りはじめた。北の回答をえて、安否確認ができた、亡くなられた人を「思うと痛恨の極みだ」と述べた。それから正常化に真剣に取り組むが、そのためには北が拉致と安全保障の問題に誠意を見せる必要があるとした。そして拉致にもどり、金委員長から謝罪があった、家族との再会、本人の意思による帰国を実現したいと述べた。これで「諸問題の包括的な促進が図られるめどがついた」、「問題解決を確実にするため正常化交渉を再開させる」と宣言した。この主文はあいまいで、迫力を欠くものであった。何よりも平壌宣言の内容を全く説明しなかったことがよくない。とくに宣言の冒頭で植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたことを認め、反省謝罪するとしたこと、したがって日本は朝鮮に対して、国交正常化後に経済協力をおこなうことを明確にしなかったことは致命的な沈黙であった。首相はそれから不審船問題や地域の安全保障について協議を立ち上げたいと述べ、平壌宣言の原則と精神が守られれば、日朝関係は敵対から協調へ向けて大きく進むと結んだ。不審船問題は北が二度と送らないと平壌宣言の中で約束している。これ以上協議する必要はない。平壌宣言の原則で日朝関係がよくなっていくとは何を意味するのか。国交正常化が実現されると言わないのはどうしてか。質疑応答の中で「日朝関係の正常化を図るためにも、まず交渉が必要だ」と述べたが、これでは10年来断続的に交渉をつづけてきた過去の継続になってしまい、平壌宣言調印で何を達成したのか、わからないようにしてしまっている。ここははっきりと平壌宣言の調印で国交正常化に進む準備ができた、拉致問題の解決をはかって、次は国交樹立をおこないたい、と述べるべきだった。拉致問題については、拉致を認め、謝罪したのだから、償い金を支払え、生存被害者は全員解放し、帰国させよ、死亡したという被害者については状況の正確な説明と必要な措置をとれ、この点についてさらに交渉するとはっきり述べるべきであったのではないか。

 さらに首相は、国交樹立へ前進するつもりなら、帰国の飛行機の中で安倍副長官にやめてもらうという意向を伝え、それを実行すべきであった。政権の結束をかためなければ、突撃はできないのである。しかし、そのような措置はとられなかった。

 最後に、羽田に帰った首相は国民向けに記者発表をしなかった。首相は拉致被害者家族にも会わなかった。翌朝家族のもとを訪問したのは安倍副長官だけであった。

3 国民の反応

 国民はどのように反応したのか。首相は、当然自民党の幹部に説明し、ついで野党党首にも会って説明した。山崎拓自民党幹事長は「首相は毅然たる姿勢で臨み立派だった」と述べ、「正常化交渉の中で拉致完全解決を目指したい」と支持を表明した。公明党神崎代表も「懸案事項を解決」し、「正常化にむけた合意がなされた」「歴史の一頁」をひらいた「意味ある訪朝」だと評価した。だが、鳩山民主党代表は「国家的犯罪を厳しく追及しておらぬ」、「国交正常化交渉再開に入ったのは急ぎすぎ、国益損なった」と否定的であった。土井社民党首は「真摯な交渉」を望むと支持しながら、拉致の事実に「強い衝撃を受けている」と動揺を示した。志位共産党委員長は「包括的に道筋がつけられた」、「再開は妥当」だと支持を表明した。

 新聞各社の翌朝の社説を見ると、朝日は「悲しすぎる拉致の結末/変化促す正常化交渉を」と見出しをつけるが、本文では首相の決断、植民地支配謝罪の表明を支持すると書いている。毎日は「許しがたい残酷な国家テロだ/拉致究明なき正常化はない」と見出しをつけ、消極的である。読売は「北は平壌宣言を誠実に守るか」と見出しをつけ、「原則的立場」を堅持し、「安易な妥協」をするな、「日朝関係が突出する、先行する」のに反対だ、とさらに消極的な態度である。

 他方で、世論調査の結果ははっきり小泉外交に対する国民的支持を示した。9月20日の朝日は、会談評価81%である。北の拉致説明に納得した人は15%しかいないが、国交賛成は59%に達している。同日の読売は、会談評価するが、81・2%であった。正常化については、できるだけ急げが20・5%、正常化すべきだが急ぐ必要なしが68・4%、正常化すべきでないは5・5%であった。

4 家族会と救う会の反応

 拉致被害者家族会と救う会は否定的、反発的であった。9月17日当日の夕刻、植竹外務副大臣によって平壌で明らかにされた結果が福田官房長官とともに家族へ伝達された。

 そもそも平壌が拉致を認めて謝罪するということ自体が救う会にはおどろきであった。救う会全国協議会事務局長であった荒木和博はこの時の自らの気分を「万事休す」と表現している。家族にとっては、拉致が認められ、事実となったということで衝撃をうけ、さらに生存、死亡の通告でそれ以上の衝撃、悲しみ、怒りの感情が爆発した。家族の一般の意見は、増元照明氏の言葉、「証拠隠滅のため、殺された可能性が大だ」、有本嘉代子氏の言葉、「どういう死に方をしたのか、それだけはきっちり聞きたい」に代表されている。拉致されて、死んだと言うなら、北朝鮮が殺したのではないかというふうに考えるのが自然であった。

 記者会見で、横田滋氏は、涙を流し、いい結果を待っていたが、「結果は死亡という残念なものであった」、ただ、結婚して、女の子がいると言うことを聞かせてもらったと語った。だが、横田早紀江さんは涙も見せず、次のように語った。「日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、また亡くなったかもしれない若者たちの心のうちを思ってください。・・・私たちが一所懸命に支援の会の方々と力を合わせて戦ってきたこのことが、大きな政治のなかの大変な問題であることを暴露しました。そのようなことのために、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています。本当に濃厚な足跡を残していったのではないかと、私はそう思うことで、これからも頑張ってまいります。まだ生きていることを信じつづけて戦ってまいります。」

 これは驚くべき決然たる、政治的な立場の表明であった。9月17日に発されたすべての言葉の中でもっとも光をはなつ決意の言葉であった。つまり、横田めぐみは大きな悪に抗して闘い、犠牲になって倒れた。その行為によって悪を暴露するという使命、意味ある役割を果たした。自分はその娘の闘いを続けて、悪を許さず、闘っていく。娘は死んだかもしれないが、自分がこれから闘うにあたっては、娘はまだ生きていると考えて、闘っていく。横田早紀江さんがそのように考えた気持ちは理解できる。横田さんはこれから20年間闘いつづけていくのである、北朝鮮を許さずに。だが、これは被害者家族の闘争宣言であって、正当であるが、日本国民の闘争宣言にはなりえないものであるのは当然だ。

 この日17日夜、家族会代表横田滋と救う会全国協議会会長佐藤勝巳の声明が出された。生存者4人の原状回復を求める。死亡と発表された6人の状況をあきらかにせよ。この二点を要求した上で、拉致は「許されざる国家テロ」であり、「絶対に許すことはできない。」このことを「知らされながら、国交正常化交渉を始め」たのは「国民に対する重大な背信」であり、「絶対に許しがたい」、方針を撤回せよ、このような「異常な行動は、およそ国家というに値しない」。このような日本国の状況と徹底して闘う。これはまさに異常な声明であり、政府も国民も受け入れがたい。この声明は報道されなかった。

 18日になって、救う会佐藤会長単独の声明が出た。北朝鮮が提出した「安否情報」は「まったく根拠のない」として、「死亡とされた八人は現在も生きている可能性が高い」と述べている。横田めぐみの娘は北が「準備」した人であるとして、偽物であると示唆している。救う会は横田めぐみが生きている情報を二つもっていると述べている。北朝鮮はうそつきであることを前提にして、北が死んだと言う被害者は生きている、ただちに全員を帰せと主張するこの声明は以後の救う会活動の土台をつくった声明となった。死んだということを受け入れれば、残るのは謝罪と賠償を要求するだけであり、運動は遠からず終了するが、死んだと言うのは嘘だ、生きているのだから、返せと言えば、永久闘争が可能になるのである。家族会は当然にこの主張にすがりつき、途方もない力をもつようになるのである。

5 外務省と家族会・救う会とのやりとりつづく

 外務省と家族会・救う会とのもみあいがただちにはじまった。9月19日、小泉首相は、午前ホテルでの内外情勢調査会で講演をし、午後には内閣記者会でインタビューをうけた。質問はリスト問題に集中し、首相は事実解明に全力をつくすと述べただけであった。首相は21日にはデンマークでのアジア欧州会議第4回首脳会議出席のためコペンハーゲンへ出発してしまう。家族が前に見るのは、平壌に行かなかった川口外相と田中局長だけである。

 この局面で政府は家族訪朝を交渉再開前に実現する方向で調整していると朝日19日夕刊が報じている。これは北側が家族面会に便宜をはかると言ったのをうけた提案であろうが、無意味な提案であった。救う会の佐藤会長の25日の意見書で簡単に拒否されてしまうことになる。

 9月20日の衆議院外務委員会では、川口外相と田中局長が答弁した。川口外相は、外務省に被害者家族支援室を立ち上げつつあると述べたが、これも家族会、救う会から拒絶され、消えることになる。田中局長はこの日の委員会で、安否リスト問題で陳謝した。救う会全国協議会と家族会は、これに対して田中局長に公開質問状を出すことになる。

 このように追い込まれた田中局長は平壌とのチャンネルを利用して、打開策を求めたようにみえる。というのは、9月25日、田中局長は先の公開質問状に回答書を出したが、その中で事実調査チームを28日に出すと明らかにしているからだ。北側と協議した結果であるはずである。

 ところで、この回答書に対して、佐藤会長が「現時点における私たちの立場」という文書を出し、家族訪朝提案に反対するとともに、生存者を一カ月以内に帰国させよと要求し、家族会の外務省不信が強いので、安倍中心のPTに一括した対応をしてもらうのをのぞんでいると述べた。露骨な田中不信任、安倍介入待望の表明である。

 9月26日、川口外相、田中局長は参院決算委員会で答弁したが、このとき、田中局長は答弁中に落涙し、朝日は「涙の答弁」と報じた。この日外務省の家族支援室構想は撤回され、内閣府に参与室が設置され、中山恭子氏が参与に就任した。

 ようやくここにいたって、9月27日、小泉首相が、家族会と初めて会った。小泉首相が言ったことは、「拉致問題の解明なしに、日朝の正常化はない」ということだった。家族会代表の横田滋氏は、生存者5人の一カ月以内の帰国を求める、歴代外務省担当者の責任を問う、認定被害者11人以外の人々をどう救うのか、安倍副長官を窓口にしてもらいたいとの要求書を読み上げた。これは救う会と共同で作成したものであろう。首相との会見は双方にとって苦いものにおわった。翌9月28日に斉木昭隆参事官ら調査チームが訪朝した。

6 アメリカの動き

 この間にアメリカの動きが始まっていた。10月3日から5日にかけて、ケリー国務次官補が訪朝し、北にウラン濃縮を認めさせた。10月6日ケリーが来日して、官房長官と外相に訪朝結果を通告した。明らかに日朝交渉の進展にブレーキをかけてきたのである。

7 逆襲・反対勢力の総反撃

文藝春秋新聞広告 この状況で、小泉首相の日朝国交樹立へ向かう動きに反対する勢力の総反撃がはじまった。小泉訪朝、日朝首脳会談、平壌宣言、田中局長の秘密交渉に対する反感、反発、非難、攻撃は、9月17日前から、代表的な週刊誌によっておこなわれていた。『週刊新潮』は「いまからでも遅くない、訪朝はドタキャンせよ」と主張し、『週刊文春』は「愚かなり小泉訪朝」、「小泉首相よ あなたは無法国家と手をむすぶのか?」と書いていた。9月17日以後、これらの週刊誌は一斉に、小泉首相と田中局長を攻撃した。9月26日発売の『週刊文春』10月3日号は巻頭グラビア「嘘で固めた小泉訪朝」を掲げ、そのトップに田中局長の写真をのせ、「外務省田中均局長殿 拉致家族の目を見て真実が話せますか?」と書き、さらに小泉首相の写真をのせて、「やはり目をそらしている小泉首相 どうしてもっと早く謝罪しないのか」と書いた。本文の総力特集は「痛恨会談のA級戦犯たち」で、中山正暉、小泉総理、中島梓氏らを特筆した上で、「8人を見殺しにした政治家・官僚。言論人、一死以て大罪を謝せ」をのせ、阿南惟茂、槙田邦彦ら外務省幹部、金丸信、石井一、鳩山由紀夫氏ら政治家、吉田康彦、和田春樹らを非難した。

 9月30日に小泉改造内閣が発足して、拉致議連会長石破茂氏が入閣したため、議連会長の後任には安倍晋三氏の盟友中川昭一氏が就任し、この陣営の連携が強化された。

 10月2日に出た『諸君!』11月号は特集「テロ国家に舐められてたまるか」を組み、拉致議連事務局長平沢勝栄氏の「国賊外務官僚田中均の暴走」、石原慎太郎「こんな売国奴は殺されているな」を載せた。3日発売の『週刊新潮』10日号は「金正日に馬鹿にされた小泉訪朝つらい後始末」を載せた。そして、10日発売の『文藝春秋』11月号は特集「非道なる独裁者」を組み、「李恩恵は地下室で殺された」、「金王朝五十四年の罪業」、「北が入手した小泉の身上調書」、萩原遼「金正日にまた騙されるのか」、「独断外交官田中均とは何者か」、中西輝政・平沢勝栄・福田和也「小泉総理は虎の尾を踏んだ」、西岡力「死亡4人に確実な生存情報」を載せた。さらに石井英夫「親朝派知識人、無反省妄言録」を載せ、日朝国交のために努力した人々を撫で切りにしている。村山会長も、私も非難された。

8 政府の混乱、5人の一時帰国という重大な失敗

 10月1日に斉木調査チームが平壌から帰国した。その報告がさまざまな波紋、反発を呼び起こした。3日には、福田官房長官が、国交交渉を10月中に再開すると発表した。このころ、小泉首相、福田官房長官、川口外相、田中局長らが、話し合って、平壌に5人の一時帰国を要請することを決め、実施したのであろう。田中氏の本、『外交の力』には、9月17日以後、5人の帰国を求める交渉をつづけていたとある5)。一時帰国であっても、はやく帰国させるということに拘ったと書いている。船橋本『クエスチョン』では、米国が北のウラン濃縮を持ち出したので、田中氏が逆流を心配して、5人の「一時帰国」をミスターXにのませたのだと書いている。とにかく5人の「一時帰国」は田中氏ら日本政府の案であったのだろう。しかし、これは2002年の日朝交渉を失敗に終わらせることになる致命的な愚策であった。

 5人の生存者の帰国は9月17日以後の小泉政府の基本的な要求であったことは間違いない。5番目の生存者曽我ひとみが母親と行方不明になっていた佐渡の女性であることは9月20日にはわかっていた。彼女が北朝鮮に亡命した米軍脱走兵ジェンキンスと結婚していることは斉木調査チームの報告であきらかになった。とすれば、彼女とあとの二組の夫婦、蓮池夫妻と地村夫妻とはあきらかに立場が違う。要求の出し方も慎重に考えなければならないはずである。そこが考えられた形跡がない。家族会と救う会は一時的帰国など一度も要求しておらず、一時的帰国に賛成するはずもない。他方で、生存者が5人だと北が言った以上、これ以上に北が日本に与えうるものはないのである。北としては、国交正常化したら、5人を最終的に帰国させるというふうに考えると見るのが自然である。子供を人質にとっているし、5人は北朝鮮に忠実だから、一時的帰国させても、かならずもどってくると北朝鮮が考えたとしたら、甘い見方である。それで一時的帰国させて、日本側が5人を北朝鮮にもどさないことにしたら、北朝鮮は約束違反だとして、激怒するだろう。この局面で約束をやぶることは致命的である。一時的帰国を決めた小泉政府はこれぐらいのことを考えなかったのか。この軽率さは外務省が家族会、救う会からの圧力でおいつめられていたことから結果したものなのであろうか。

 10月8日、北朝鮮が、突然、5人が15日に「一時帰国」すると通知してきた。すると、翌9日、政府の関係閣僚会議が、生存者の「一時帰国」を受け入れ、10月29・30日に国交交渉を再開すると決定したと発表した。交渉基本方針も決定したとされ、拉致を最優先事項とする、安全保障協議を立ち上げる、慎重に交渉する、日米韓連携下で進めるとの方針が発表された。

 10月10日の衆院外交委員会には、安倍副長官が政府委員として出席し、自民党議員の質問にこたえて、小泉訪朝を知らされたのは発表当日の朝であったと答弁している。安倍氏の存在がますます大きくなったこと、政府内反対派であることが明らかになった瞬間であった。これからは安倍氏を中心に逆流が音を立てて、流れ始めた。

 10月13日、家族会は、5人が帰れば、北には帰さないということで合意した。そして15日、拉致被害者5人が帰国した。国民協会は初の声明「国交正常化早期実現に向け、交渉の再開をうたった平壌宣言支持する」を出し、福田官房長官に伝達したが、すでに情勢に完全に立ち遅れた無力な声明であった。福田長官の部屋で声明を差し出した時、テレビが5人の羽田到着を報じていたのを思い出す。

 10月22日、安倍副長官、中川拉致議連会長、平沢事務局長、佐藤救う会会長、荒木事務局長の五者会談がおこなわれた。5人を帰さないという方針が決められたのであろう。23日、安倍副長官が家族会と会った。24日、蓮池薫氏が中山参与に電話し、自分たちは帰らないと伝えたといわれている。午後、拉致議連は、5人を返すなという要望書を提出する。安倍副長官が動き、5人を帰さないという政府方針が決まった。この間、曽我ひとみさんからどのように意思確認がされたのであろうか。

 10月29日、クアラルンプールで日朝交渉がはじまったときには、日朝間はすでに深刻な対立状態にあった。鈴木大使が、5人は帰らぬ、家族を返せと言い、死亡8人の疑問点を問いただすと、北代表は5人を帰せと主張した。協議は不可能だった。日本側は核ミサイル問題が解決しなければ、過去清算の協議に応じられないとのべ、事実上交渉を不可能にし、次回の日程についての北側の提案にも応じなかった。

9 国交阻止勢力、勝利の凱歌

 2002年の終わりには、小泉訪朝、日朝平壌宣言に基づく日朝国交正常化をつぶした勢力は勝利の凱歌をあげ、その真の相貌をあらわにした。

 11月24日、東京ビッグサイトで開催された救う会全国協議会特別研修会で佐藤勝巳会長は基調講演して、述べた。必要なことは「北朝鮮のあの軍事独裁政権を内部から崩壊させる工作をすることです。政治的、外交的に圧力をかけ、さらに内部工作を行えば、内部矛盾が拡大して、金正日政権が崩壊すれば、拉致の問題も、軍事的脅威も一挙に解決します。これを実行する勇気が有るか無いか、後はそれだけです。これを是非とも、我が国の政府に期待を致したい。」

 これが仲間内の議論だというだけではない。12月10日、衆議院安保委員会で佐藤勝巳、フォラツェン、中江要介、和田春樹がよばれ、参考人陳述をおこなった。自民党推薦で出席した佐藤勝巳氏は、「私は、現在の金正日政権を個人独裁ファッショ政権というふうに理解をしております」と話しはじめ、「この政権は、話し合いの対象ではなく、あらゆる方法で早く倒さなければならない政権だと考えております」と結んだ。政権打倒の方法について尋ねられ、万景峰号の入港規制を行えば、三カ月以内に崩壊すると語ったのは滑稽だった。だが、金正日政権を「相手にして、拉致の解決ができる、幻想です」と言い切ったのは、実に明確だった。

 佐藤はこの月『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』(小学館文庫)なる本も書いたがそこでもはっきりと、「救う会は今後も被拉致者全員の帰国を目指して活動を続けていく。金正日政権が存在する限り、拉致の解決は困難であり、金正日政権の崩壊が絶対必要条件である」とのべている。

 日朝国交に反対し、北朝鮮国家をおいつめて、崩壊させることをめざすこの勢力に日本の政府、国民、メディア、世論が制圧されてしまった。これは日朝国交促進国民協会の敗北であるだけでなく、小泉首相、日本政府の敗北であると言わざるをえないだろう。


1)『諸君!』2002年12月号、53-54頁。
2) 田中均・田原総一郎『国家と外交』講談社、2005年、44頁。
3) 読売新聞政治部『外交を喧嘩にした男――小泉外交二〇〇〇日の真実』新潮社,2006年、26-30頁。
4) 船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』朝日新聞社、2006年、44-45頁。
5) 田中均『外交の力』日本経済新聞社、2009年、130-131頁。

ページの先頭に戻る