日朝国交交渉20年検証会議第3回を開催

 2021年6月27日午後1時から第3回検証会議が43人の参加を得てオンラインで開催されました。和田春樹氏の司会で、金丸信吾氏が「1990年三党共同宣言と父金丸信が受けた攻撃」と題して報告しました。
 引き続き、和田春樹氏が「1990年代の佐藤勝巳氏の思想と行動」と題して報告しました。以後質疑応答がありました。

金丸信吾氏の報告 「1990年三党共同宣言と父金丸信が受けた攻撃」

2021年6月27日

金丸信吾氏 私はいま、政治家でも学識経験者でもなく、一民間人です。1990年金丸訪朝団に随行し、以降トータルすると、今日まで22回訪朝しています。今日は特に1990年の金丸初訪朝から1992年、金丸信が議員辞職をするまでの2年間のできごとについて、私の知る限りのことをお話しします。

 1990年9月、自民党の団長としての金丸信、社会党の団長としての田辺誠という訪朝団が結成されました。金丸信は、当時北朝鮮にあまり良い感情を持っていなかったことも確かです。それは、社会主義は全く自分の理念に合わない、というところもありました。平壌から帰った後、記者の質問に答えている文章が残っています。「実は私は、平壌には行きたくもなかったが、田辺誠君の強い要請で、拿捕された富士山丸問題の解決のために決意をした。しかし、私が行くとしたら、富士山丸問題は第1次的な問題ではないと思っていた。言い換えれば、北朝鮮と日本との厚い壁に、小さな風穴を空ける契機をつくりたいというのが、最も重要な問題であり、その次に富士山丸問題も人道的見地から、何としても決着をつけようとしたのが、基本的な考えだった。」、こういう決意のもと、訪朝をいたした訳です。当時北朝鮮は、日本との国交を結ぶということは、朝鮮半島に2つの国がある、分断を認めることになるということで、日本との国交正常化は、統一後というのが、正式な政府見解だったと記憶しています。このため、金丸信自身も、まさか金日成主席から国交正常化交渉の提案があるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。日朝関係に小さな風穴でも空けようという気持ちで行ったのです。

 訪朝した一行が大変な歓迎を受けたことも事実です。戦後正式に日本の民間飛行機が平壌順安国際空港に着陸したのは、初めてでした。その前によど号が飛んだことはありましたが、正式な便は初めてでした。ある意味、1990年の訪朝は歴史的な出来事でした。

 金丸信、田辺誠と金日成の三者会談が行われたのは、平壌に着いてから3日目で、それまでいろいろな歓迎行事がありました。三者会談がおこなわれたのは、平壌から列車で3時間位のところにある妙香山の招待所でした。ここで、金日成主席、金丸信、田辺誠の3名による会談がありました。後で金丸信に聞いたら、「儀礼的な話しで、大した話しはなかった。ただ、田辺誠君から富士山丸問題について人道的な解決をお願いしたいという要望はあった。それ以外、国交正常化の問題も何もその時は出なかった」ということでした。詳しい話しは、平壌に帰ってから、皆さんで十分詰めてください、というのが主席からの話しだったようです。それで、平壌に帰る支度をしていたら、当時の書記の金容淳氏が飛んできて、「金丸先生とだけ2人きりでもう一度話しをしたいと主席が望んでおられます」と言われました。金丸信は、田辺誠先生とは同格で来ているので、田辺誠君の了承をとってくださいと言いましたが、その時はすでに田辺先生をはじめ随行の方々、マスコミを含めて皆が平壌に向かう列車で出かけた後だということでした。「やったな!」という感じはしましたが、そこまでして金丸信と2人きりで話をしたいというのが主席の希望であれば、それを受けるのも政治家としての務めだと決心して、二者会談を受けました。それから都合3回にわたって、夕食もはさんで、会談が行われました。これにはわれわれは同席しておらず、金丸信と金日成主席の2人だけの会談でした。その話の内容を聞くと、主席は西側情勢について大変強い関心を持っている。特に、アメリカの情勢について大変熱心な質問があった。これには、日本の国益を損なわない範囲で、答えるべきは答えておいた。いろいろな話があったようですが、最後に主席から、日朝間国交正常化の政府間交渉を始めたいという提案がありました。その時、金丸信が主席に尋ねたのは、貴国の方針が変わったのか、ということです。そのことを確認したそうです。主席は、「変わったのだ。これからは、西側諸国とも大きな道を開いていかなければならない。その最初が日本である」と言ったのです。1990年というと、非常に微妙な時期でした。ソ連邦が崩壊し、東西冷戦が終わることが始まった時ですから、北朝鮮としても方針を変えざるを得なかったのかも知れません。金丸信も、そういうことなら非常に良いことであると、お受けしました。

 日本に帰ってから、そのことについて批判も受けましたが、そのことについて金丸信は記者の質問にこのように言っています。「北朝鮮という国は、多くの日本人にとって理解しにくい国であることは確かである。また、情報量が非常に少ないために、何を考えておるのか、何をしてくるのか分からないところがある国でもある。そういう国だからこそ、国際社会の中で、孤立化させてはいけない。常に国際社会の表舞台にひき出す努力をしなければいけない。そのためには先ずは、日朝国交正常化だ。そのことが、北東アジアの安定、平和につながる、私はそのように信じている。」そういう談話を発表しています。

 三党共同宣言の作成にあたっては、大変な苦労がありました。日本側からは、武村正義先生、石井一先生、池田行彦先生、社会党の久保亘先生、朝鮮側は、金養建さん等が中心になって、三党共同宣言づくりを始めたのですが、都合16時間話し合いは行われました。一番の問題点は、「戦後45年間の補償を認む」という文章のところです。もちろん、日本側はこの文章を入れるわけにはいかないと、突っぱねたわけですが、朝鮮側はこれがなければ我々も調印ができない、と言って、いくら話し合っても決着がつかなかったのです。

 日本側の国会議員が金丸のところにきて、「先生ダメです。まとまりません。今回は共同宣言なしで帰りましょう。」という話がありました。金丸が、「ちょっと待て、どこが問題じゃ」と言ったら、「戦後45年間の補償というところであります」。外務省から、後に外務事務次官になる川島裕参事官が同行していて、私はすぐに川島参事官をよんで、「戦後45年間の補償」という言葉を中に入れた場合、外交の専門家としてどのような問題が起こるのかを、質問しました。川島氏からは、「これはやはり、問題になるでしょう。もしかしたら、かなり批判をされるかも知れません。しかし、三党共同宣言をつくることに意味があるのであって、ここの文章は、金丸先生が批判を覚悟する腹を決めれば、大丈夫でしょう」という回答がありました。金丸信は「じゃあ、オレが腹くくればいいって言うんだな」ということで、三党共同宣言の中に、「45年間の補償」という文章が入ったわけです。

 「45年間の補償」を巡って、大変な批判を受けたことも事実です。右翼の街宣車は来るは、新聞はたたくは、最終的には狙撃事件にまで発展しました。北朝鮮の人たちはよく同情してくれるのですが、「金丸先生は、日朝国交正常化を一生懸命やってくれたために、アメリカに潰されましたね」といって、慰めてくれるのですが、それだけではないとは思いますが、大変な中傷、非難の中にありました。金丸信が亡くなってから30年近く経ちますが、まだ当時言われた「金丸信は北朝鮮から金塊をもらっている」という話しが、今でも一人歩きしています。事実であればそれは仕方が無いのですが、全く事実無根です。金などもらっているわけがありません。北朝鮮はそんな余裕がある国ではなかった、ということは皆さん方はご理解しておられるでしょう。しかし、残念なことに今もってテレビなどで著名な評論家たちが、堂々と「金丸は金塊をもらっているんだ」ということを、枕詞のようにいっているのが、残念です。

 三党共同宣言をつくるにあたり、海部総理大臣の親書を持参しました。それには、竹下総理と同じように、過去の日本の植民地支配に対する謝罪等の文章が織り込まれていましたし、金丸信も平壌での最初の歓迎会の席上、歴史への反省の演説をしています。

 訪朝の結果として、富士山丸問題は解決し、日朝国交正常化交渉の扉も開きました。風穴を開けるつもりが、本当に扉が開いてしまいました。実際に、1991年から1992年11月まで8回にわたる政府間交渉が行われました。1回目、2回目までは順調に進んでいたのですが、事務レベルでの話し合いだったので、難しい面もあったようです。一番の問題は、当時北朝鮮にでてきた核開発疑惑です。当時、北朝鮮は、IAEAの査察受け入れを拒否していました。金丸信は、私に、北朝鮮に行って主席に会って、「あなたと約束した国交正常化はIAEAの核査察を無条件で貴国が受け入れない以上、一歩も前進しない。世界で唯一の被爆国である日本にとって、核は大変重要な問題だ。このことを踏まえて、日朝国交正常化が前に進むためにも、是非IAEAの査察を全面的に受け入れてほしい」という要望をしてくるように、言いました。そういう話も含め、私は、2年間に都合10回訪朝しました。その内7回は、金日成主席と会い、日朝国交正常化交渉の中で問題になっているところの解きほぐしをしていたのです。

 三党共同宣言は8項目に分かれています。

  1. 過去の植民地支配の謝罪と補償。
  2. 国交正常化の早期実現。
  3. 政治、経済、文化などの各分野での交流発展。まずは、通信衛星と直行便の開設。これらは直ちにその後実行されています。通信衛星の開設についても、私は当時のKDDの幹部社員等技術者も連れて平壌を訪れています。
  4. 在日朝鮮人の人権と民族的諸権利と法的地位の保証と、パスポートの「北朝鮮を除く」という但し書きの除去。これは直ちに実行されましたけれども、現在の若い人たちは、パスポートの最初のページに、「北朝鮮を除く」という文字が載っていたことを知りません。それだけ月日が経っています。
  5. 朝鮮の平和統一の支持。
  6. 平和で自由なアジアの建設と、核の脅威の世界的除去の必要性。
  7. 国交正常化と国交樹立の実現と懸案の諸問題を解決するための政府間交渉を11月開催。
  8. アジアと世界の平和のために三党が関係を強化し、相互協調を発展する。
 というようなことが、決められました。

 核問題について、私は金日成主席に質問しました。「いま日本では、貴国の核開発についての疑惑が持ち上がっているが、核疑惑について、主席の見解を問う。」。金日成主席は、「わが国には、核を開発する能力も、経済力もない。よって、核を開発する意思は持たない」と明確に言いました。

 統一についてはどうなのか、質問をしました。「我々は、共和制による1国2体制の統一を希望している。武力による南進は絶対にやらない」という明確な返答をもらいました。当時、金日成主席には核を開発する意思がなかったというのは、本当かも知れません。その方針が変わったのは、次の金正日時代なのかなとも思います。

 主席とお会いしているときに、一番ビックリしたのは、「これからは若い者の時代だよ。若い者同士で話をするのが大事。あなたたちが中心になって世界を動かしなさい。」と、すごいことを言われまして、何のことだかよく分かりませんでしたが、次の日に連れて行かれたところにいたのが、金正日書記でした。1990年代前半は、もちろん金日成主席存命中ですので、表舞台にはほぼ出ていませんでした。日本での金正日評はあまり芳しいものではありませんでした。2人きりで、約1時間お話しさせていただきました。大変頭脳明晰な方だなというのが、私の第一印象でした。金正日氏の言葉で一番心に残っているのは、「お互い偉大な父親をもつと、苦労しますね」です。私は、「私はあなたの言うことはよく理解を出来ます。しかし、あなたは私とは全く違う。次のこの国のナンバーワンになるべく決まっている人ではないか。私は、ただの一市民ですよ。そこが全くプレッシャーが違います」とお話ししました。やはり、金正日さんも若干ファザーコンプレックスがあったのではないかという気がします。

 その後、いろいろな関係で、北朝鮮を訪問しました。民間の人たちを連れて行ったこともあります。また、地方議員300人を連れて行ったこともあります。先ほども言ったように、政府間交渉の流れを見ながら、たびたび訪朝をしました。残念ながら、第2回交渉のあとくらいに、李恩恵問題が浮上しました。李恩恵問題が浮上したことにより、拉致という問題が急激に日本の中で活発に報道されるようになったのも、事実です。拉致問題の浮上によって、それからの日朝交渉が非常に難しくなってしまいました。進み具合も、非常に遅くなってしまいました。しかし、私と主席がいわば"裏"でお話しをしている範囲では、日朝国交正常化は80%できあがっていたような感じがしていました。

 当時私が1人で北朝鮮に行って主席と会談する際に、金丸信に強く注意されていたことが一つあります。国交正常化に向かう中で、必ず一番問題になるのは、1965年の日韓基本条約のときに、日本が支払った経済協力金といわれる、有償、無償含めての5億ドル、それに相当する金額についてです。いかに主席から質問があっても、経済協力金の具体的な金額について、お前は一言もしゃべってはいけない。また、オレも言うことは絶対にない。こういう問題は、表の交渉の中で堂々と決めるべきである。そうしないと、日韓の時と同じような疑惑の目をもたれる。それだけは、注意しろ、と言われました。しかし、あからさまに言って、ある会談では主席から、日本は経済協力金どの程度考えているのかと、質問があったのは事実です。私の答えは、「それは私どもが決めることではありません。政府間交渉に任せたいと思っております」でした。逆に聞き返しました。主席は経済協力金はどの程度が妥当なのかと思っておりますか、という質問をしました。かなりニヤニヤしていましたが、実際具体的な数字は言いました。この数字を今言うと、後々いろいろ問題がありますが、皆さんが考えている数字より、若干上かなという数字で、私もその時ちょっと高いなという感じがしましたが、それだけの話で終わっています。80%、90%は国交正常化に向けての交渉は完了していた感じがします。しかし、第8回の政府間交渉が1992年11月5日で、第7回が1992年5月13日に北京で行われています。この間の1992年10月には、金丸信は佐川急便事件によって議員辞職をしています。ですから、それ以降、私は北朝鮮との交渉は、やるべき人間でもなくなりましたので、一切閉ざされていたわけです。あとはご承知のように、すべてが拉致問題一辺倒になってしまったのも事実です。

 ふたたび動き始めたのは、2002年だと思います。小泉訪朝が2002年9月でした。10年間訪朝していなかった私のところに、2002年6月、前に話した金養建氏から、一度平壌に来ませんかという、ご招待がありました。そのご招待を受けて行って、金養建氏との会談の中で、「金丸先生と金日成主席が約束した日朝国交正常化は、残念ながら今までうまく行っていない。停滞したままだ。しかし、今年は大きく変わります、大きく動きます、劇的に動きます」ということを強調して言われました。その劇的というのは何ですかと質問をしましたが、「それは今言うわけにはまいりません、見ていてください。そのために、金丸先生と一緒に努力をされてきたあなたにも、これからの日朝国交正常化のために、一肌脱いでもらいたい」というお話しがありました。何のことか具体的にはよく分かりませんでしたが、その3ヶ月後に小泉訪朝が発表され、これは大変な事だ、これでようやく国交正常化が実現するかなと、大いに期待したところですが、逆に火を付けてしまいました。

 この、平壌宣言以降については、和田先生が詳しい話しをしてくれるようですが、この平壌宣言は非常に重要なものです。これは、非常にいい宣言なのです。平壌宣言の中には、「拉致」という文言は一言も入っていません。しかし、読めば読むほど行間には「拉致問題は解決」と書いてあるのと同じことなのです。また、当時小泉首相は、この平壌宣言にサインをする前、金正日総書記からの拉致問題を認め謝罪をし、生存者は帰すという事に対して、了承しているわけです。特に、5人生存、8人死亡、横田めぐみさんはじめ、あとは死亡されているというところを、当時の小泉さんは了承をし、理解をしているわけです。ですから、この平壌宣言が調印されているのです。

 一方、小泉さん、それを引き継いだ安倍さんの日本に帰ってきてからの行動は、平壌宣言にすべて違反をしている行動です。日朝国交正常化という問題は、これからも非常に難しい問題であることも確かですが、私としては、是非2002年の平壌宣言の精神に立ち戻り、初めから掛け違えたボタンを直し、交渉をし直すべきだと考えます。また、拉致問題をはじめ、日朝間には様々な懸案事項がありますが、これらを解決する一番の近道は、まずは国交正常化であると信じて、この運動をこれからも体力の続く限りやっていきたいと思っております。

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和田春樹氏の報告 「1990年代の佐藤勝巳氏の思想と行動」

2021年6月27日

1 佐藤勝巳氏の前半生はよく知られている。1929年に生まれ、14歳で就職、戦中戦後船員として働いた。50年に船員をやめ,新制高校に入学したが、52年から4年間結核で療養生活をおくった。56年社会復帰とともに共産党に入党、日朝協会新潟支部の事務局長となり、在日朝鮮人の帰国事業を助けた。64年に上京、寺尾五郎のもとで日本朝鮮研究所で働くようになった。寺尾に従い、「朝鮮植民地支配が悪であった」と考えるところから日韓条約反対運動を熱心に行った。この年のうちに、朝研の事務局長となった。この間に共産党を離党した。寺尾の方は中国派として除名になった。70年に朝研は分裂し、事務所閉鎖となり、佐藤の自宅が連絡先となるにいたった。この時期以降梶村秀樹、内海愛子らが運営委員となった。佐藤は日立就職差別反対闘争に積極参加していった。76年には朝研代表になった。75年安藤彦太郎の団で訪中し、社会主義体制に幻滅した。77年小田実『私と朝鮮』を批判して、北朝鮮体制の批判を開始した。78年『わが体験的朝鮮問題』(東洋経済新報社)を刊行した。金日成個人崇拝のエスカレートと武装ゲリラの南派、「主体思想」と官僚主義、十大政綱の武力統一路線を批判した。こののち梶村、内海が朝研を去り、西岡力が加わった。佐藤は70年代に登場した韓国民主化運動に連帯する市民運動を批判的に対してきたが、『朝鮮研究』1981年2・3月号に「北朝鮮の統一路線と韓国問題」を発表するにいたった。北朝鮮を批判しないで、韓国民主化運動に連帯するという運動(日韓連帯委員会、韓国問題キリスト者緊急会議、雑誌『世界』と安江良介)は「韓国の反政府勢力よりも」「北朝鮮の統一路線により多く『連帯』している」と非難したのだ。1983年11月ラングーン事件がおこると、「民主化が本当に必要なのはどちらの社会だと考えているのか」と『進歩的文化人』や和田春樹、クリスチャンを攻め立てた。1984年『朝鮮研究』を『現代コリア』に転換し、北朝鮮ウオッチングの専門雑誌をめざした。活版刷り雑誌に切り替えた。資金をどこからえたかはわからない。小此木政夫、小牧輝夫氏ら朝鮮研究者に協力をもとめたが、中心は西岡力、荒木和博という若い所員と玉城素、久仁昌、田中明、黒田勝弘らの朝鮮韓国研究者、元官僚、ジャーナリストであった。

2 ところで、1980年代末、突然に日朝国交交渉へ日本政府が動き始めたため、佐藤勝巳と『現代コリア』派は不意打ちをくらった感じであったろう。
 この動きの発端は、1984年7月4日、全斗煥大統領の訪日を前にして、日韓連帯市民キリスト者が出した声明「朝鮮問題と日本の責任」にある。青地、大江、隅谷、鶴見、中嶋、和田ら136人が署名した。「日韓併合が朝鮮民族の意志に反して強行されたものであると認め、植民地統治時代を通じてこの民族に測り知れない苦痛を与えたことを反省し、謝罪する」との趣旨の国会決議を行い、この決議を韓国政府に伝達し、日韓条約第二条の解釈を修正する。それと同時にこの決議を朝鮮民主主義人民共和国政府と接触をもち、この決議を伝達し、植民地関係清算のための交渉をはじめる」ことが要求された。起草者はラングーン事件を深く憂慮し、北朝鮮の緊張を緩和する道を日朝政府間交渉にもとめたのである。さしあたり国会決議は夢物語であった。しかし、1987年6月には韓国民主革命が勝利し、翌年には盧泰愚大統領が「7・7宣言」を出し、日米と北朝鮮との関係改善を歓迎するという態度を表明するにいたった。
 そこで、88年9月8日、朝鮮政策の改善を求める要望書が、宇都宮、土井、田辺、隅谷、中嶋、安江、和田ら35氏の署名で出されるにいたった。これは1984年の国会決議要求声明をうけて、「日朝間に政府間交渉をもち植民地支配の清算を行うことを、すみやかに声明せよ」と求めたものであった。安江はこの声明の線で、田辺を動かし、田辺氏は金丸氏と提携して、訪朝する方向に進んだ。中嶋、和田らはまた内海、梶村、田中宏らとともに、89年3月から、朝鮮植民地支配の謝罪・清算の国会決議と新しい日朝関係を求める署名運動を開始した。
 かくして1990年9月24日、金丸・田辺代表団は訪朝し、国交正常化交渉の開始をのぞむ三党共同声明を発表するのである。

3 不意を打たれた佐藤勝巳氏は猛然とこの動きに反対する活動を開始した。まず90年秋、『諸君!』11月号に「金丸は何をしに訪朝したのか」を書いた。そこで、「戦後45年国交がなかった国である。しかも日本とも関係する次のような事件を起こした国だ。」として文世光事件、ラングーン事件、大韓航空機事件、アベック拉致を列挙した。「そのような金日成政権を相手に国交“正常化”を金丸元副総理が突然熱心に主張し始め、謝罪を、と言い出したのだ。実に不可解な話である。」11月には、おなじ雑誌に「『謝罪』すべきはどっちだ」を書いた。三党共同宣言で戦後45年の損失に謝罪補償するとしたのは「『売国奴』の所業」だと決めつけた。朝鮮戦争は南解放のための北の戦争だ。北は「二つの朝鮮」を認めない。日本からカネをとることをめざす。「日本の信用を失墜させる」このような外交交渉」に反対する。なぜ性急に日朝関係改善を計るのか。
 だが、日朝国交交渉ははじまった。1991年1月30日に第1回本会談が開かれた。
 2月にはこんどは西岡氏が同じ雑誌に「北朝鮮『拉致』日本人の利用価値」を書いた。「北朝鮮はこれまで15人の日本人を拉致した疑いが大変濃厚である」として、「外務省は『北朝鮮は日本人を自分の意志に反して国内にとどめておき、そのことを家族が日本で公表すると、その人の命に危害を加えかねない国だ』という認識を持っていたことになる、そのような国に対して、なぜ経済協力をしなければならないのか」と控えめである。
 3月には佐藤氏が「自民党はテロ国家を支援するのか」を、『現代コリア』に書き、「いまや総聯は堂々と自民党と共同行動をとれる御墨付きを手にした。韓国を孤立化し、最終的に赤化統一させようとするための統一戦線に、ついに自民党までが抱き込まれてしまったことになる』と嘆き、「わたしたち『現代コリア』も小さいけれど全力を尽くして発言し続けなければと考えている。」と書いた。日朝国交交渉の進行を阻止することができないことを認めた瞬間であった。
 この春、佐藤氏は、新しい本、『崩壊する北朝鮮――日朝交渉急ぐべからず』をネスコから出した。帯には「まず謝るのは北朝鮮だ」と書かれている。北はテロ国家であり、誤るべきは北朝鮮の方だというのである。だが、このときはまだ北と植民地支配の後始末をつける必要があることはみとめていた。「北朝鮮に個人独裁政権ではない、南北共存を認めるノーマルな政権ができたなら、その政権と植民地支配の後始末の話し合いをすべきである」とかいている。
 だが、佐藤氏にとって幸いなことに、日朝交渉は核査察問題と「李恩恵問題」で92年11月、第8回会議で決裂した。佐藤氏は93年1月号の『諸君』に「日朝交渉の決裂を祝す」を書いた。

4 しかし、日朝交渉の開始とともに、佐藤氏たちにとって悩ましい問題が民主化した韓国からつきつけられた。慰安婦問題である。1990年10月、韓国女性八団体は、慰安婦問題6項目要求を提起して、日本政府に回答を迫った。翌月、これらの団体は挺身隊問題対策協議会を設立する。これに対して、佐藤氏は反発した。91年2月、『現代コリア』1月号に「植民地支配がなぜ“謝罪”の対象か」を書いた。植民地支配はどこにでも見られた、『謝罪と償い』が問題になったことはない。日韓条約での経済協力合意は、朴正煕が「第二の李完用と言われても」と言って、命がけでまとめたものだ。韓国経済の発展に貢献したではないか。ここにおいて1965年の立場は完全に捨て去られた。
 日本政府の方は加藤紘一官房長官を先頭に、韓国からの主張に応える談話を出し、努力をはらう。これに対して、佐藤は2月に『文藝春秋』に登場して、「『謝罪』するほど悪くなる日韓関係――実りなき宮沢訪韓を叱る」をのせ、慰安婦問題は甘えの構造を助長しただけだと全否定した。
 92年8月14日には、金学順ハルモニが記者会見をしたが、これに対しては西岡力が『日韓誤解の深淵』亜紀書房を出して対抗した。佐藤の方は、93年7月に『北朝鮮「恨」の核戦略』光文社を出した。この本では、「日本マスコミが唱える『軟着陸』論のウソ」を強調して、北朝鮮の本質は変わらない、信じてはだめだと主張しているが、同時に「まんまと北朝鮮ペースに乗せられた『合意書』の採択」、「『反日』でいとも簡単に団結する南北コリア」と言って、韓国が北朝鮮と合体して、日本に迫っていると警告しているのが特徴である。その中心問題が植民地支配の反省、謝罪要求ととらえられている。いまや南北共通の謝罪要求を断固拒否するという立場である。
 「朝日新聞の社説を読んでいると、植民地は悪、『謝罪と償い』が必要、という言葉がよく出てくる。東京大学の和田春樹教授などは、植民地支配に対しわが国の国会が謝罪決議をすべきだ、と言って署名運動までしている。」と言って、「植民地支配についていえば、1965年の条約と協定によってすでに解決している。」と主張する。
 だが、日本政府は93年8月4日河野洋平官房長官談話を出して、事実を認め、謝罪した。この点でも佐藤氏たちは政府国民の動きをおしとどめることはできなかった。

5 1993年8月、政権交代が実現し、細川連立政権が誕生した。細川首相は、初の記者会見で、「侵略戦争」、「間違った戦争」と発言した。それで、戦前未練派は震えあがって、立ち上がった。日朝交渉、慰安婦問題につづく、歴史認識をただす第三の波の到来であった。94年6月には自民社会さきがけ三党連立村山政権が誕生した。連立協定には戦後50年国会決議が入っていた。未練派保守の反動勢力との闘争がはじまった。佐藤氏たちは未練派保守の抵抗の動きに同調しつつ、自分たちの闘争をおこなった。
 もとより戦争謝罪派と謝罪反対派の闘争が中心であった。1994年8月11日に自民党靖国関係三協議会は、細川発言に抗議する申し入れをおこなった。9月9日には、佐藤は「日本は侵略国ではない」国民委員会の産経新聞意見広告「日本は侵略戦争をしたのでしょうか」に、秦郁彦、勝田吉太郎、大原康男、田中正明と並んで、登場した。
 ところが、秋になると、連立与党最高意思決定会議で、自民党の斉藤十朗氏参議院議員会長が、日朝国交正常化を村山政権の課題と提起し、合意が生まれた。金丸、田辺の訪朝団の志を継承して、日朝交渉を再開しようとする動きである。
 他方、対抗勢力の側では、12月1日、自民党内に「終戦五十周年国会議員連盟」が結成された。会長奥野誠亮、幹事長村上正邦、事務局長板垣正、事務局次長安倍晋三である。結成趣意書には「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げた戦没者を忘れるな、歴史的禍根をのこす国会決議に反対するとあった。95年2月には、民間の勢力が総結集して、終戦五十周年国民委員会を結成した。会長加瀬俊一、副会長黛敏郎ら、運営委員長毛利義就(明治神宮権宮司)、事務局長椛島有三である。
 連立政権の側は、加藤紘一自民党政調会長の努力で、95年3月28日、連立与党訪朝団が訪朝した。渡辺美智雄ら自民党代表団、久保亘ら社会党代表団、鳩山由紀夫ら新党さきがけ代表団で構成され、外務省竹内行夫アジア局審議官が同行した。3月30日、三団長と朝鮮労働党の金容淳書記は、「日朝会談再開のための合意書」に署名した。
 これに対して、佐藤勝巳と『現代コリア』グループが立ち向かった。4月25日に出た『現代コリア』5月号に、玉城素がおこなった加藤紘一政調会長のインタビュー「北朝鮮を積極的に支援すべきだ」を載せるとともに、玉城素・佐藤勝巳の対談「日朝交渉再開に反対する」を載せた。佐藤はこの中で、三党代表団に加藤紘一スタッフとして新日本産業の吉田猛社長が同行したが、この人物は日本国籍を取った在日朝鮮人で、「北朝鮮のエージェント」であると断定し、「北のエージェントを日本与党代表団がアドバイザーとして連れて行った」と攻撃した。
 国会決議阻止の勢力は、5月29日に終戦50周年国民委員会主催で「追悼・感謝・友好・アジア共生の祭典」を武道館で開催した。12か国からの来賓が出席し、国会議員39名も参加して、戦没者への感謝と未来の平和をうたう「東京宣言」を採択した。だが、6月9日、ついに衆議院で戦後50年決議が、賛成多数で可決された。終戦50周年国民委員会の活動家椛島、大原らは必死で、決議文案を無害化しようと工作したが、決議は、加藤紘一の意をうけた保利耕輔政調会長代理の統合案通り、「近代史上の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」というものになった。奥野議連の幹部たちは、安倍晋三も、衛藤晟一も、中川昭一も抗議欠席した。参議院での決議を阻止するのが精一杯のところだった。7月19日には、村山政府は、慰安婦被害者に対する謝罪と償い(贖罪)の事業をおこなうアジア女性基金を設立した。そして、8月15日、村山首相は、侵略戦争と植民地支配がもたらした苦痛と損害を反省し、お詫びするという総理談話を発表した。ここにおいて戦前未練派保守勢力は完敗した。あたらしい日本の公共的な歴史認識が確立したのである。
 自分たちの戦線が総崩れになる中で、佐藤たちは、日朝交渉再開を許さないというキャンペーンをつづけた。こんどはコメ支援の問題が攻撃の焦点になった。6月25日の『現代コリア』7月号には玉城・佐藤の対談「独裁政権を助けるコメ支援」が載った。しかし、北朝鮮は自然災害の中でコメ支援を求めていた。10月3日、北京で第二次日朝コメ協議がおこなわれ、日本は20万トンのコメを10年据え置き、30年の延べ払いで供与するとの合意文書に調印した。おなじときにおこなわれた南北協議は合意にいたらず、韓国金泳三政権は日本の踏み込んだ北朝鮮支援に不快感を抱き、反発した。
 10月5日、村山首相は、参議院本会議で「日韓併合条約は法的に有効に締結された」と答弁した。これを真っ先に批判したのは、北朝鮮であった。そのあとから韓国からも批判が出た。金泳三大統領も批判した。韓国の村山首相批判は佐藤勝巳グループを助けた。
 10月25日の『現代コリア』11月号は「コメ支援をめぐり交換されたFAX書簡」を暴露して、加藤紘一政調会長がコメ支援において「異様な低姿勢」を示したと指摘した。そして、11月の『文藝春秋』12月号に佐藤・西岡の共同論文「加藤紘一幹事長は北の操り人形か」を発表した。ここでも加藤紘一が在日朝鮮人吉田猛と結託して、北朝鮮との交渉を進めたということが一番の攻撃ポイントである。だが並んで掲載されたのは現代コリアの寄稿者で、元関東公安調査局第二調査部長の久仁昌の文章、「私が愛した『北朝鮮スパイ』」であった。これは、北朝鮮機関の要請をうけて、自分に接触して来た吉田龍雄なる人物との交渉、人間的な交流を描いたものであった。吉田龍雄は吉田猛の父親である。佐藤はこれまでは吉田猛のことを「北朝鮮のエージェント」とよんでいたのだが、ここでは久仁の文章を利用して、吉田猛を父親吉田龍雄同様「北朝鮮スパイ」だと思わせるという巧妙な仕掛けをつくり、加藤紘一氏は「北朝鮮のスパイ」と結託しているかのように言い立てたのである。ここから、加藤氏について、あらゆるえげつない個人攻撃が週刊誌やイエロー・ジャーナリズムに広がることになった。加藤紘一氏は社会的に葬られたと言っていい。
 11月14日 村山首相は、金泳三大統領あてに親書を送り、植民地支配について謝罪したが、同時に日朝関係においては、韓国と「緊密に連携しつつ、南北関係の進展との調和の原則に従う」と約束した。これによって日朝交渉の再開はとめられたのである。
 1995年に新しい日本国家国民の戦後的歴史反省の公論が形成されようとしたのに対して決起した戦前体制に未練をもつ保守勢力は敗北した。その中で佐藤勝巳と『現代コリア』グループは例外的に村山内閣の進める方向に打撃を与え、日朝交渉再開の動きを阻止したのである。注目すべき存在となったと言えよう。

6 拉致問題を開発し、強力な国民運動組織へ努力
 1995年に敗北した保守勢力は、96年「新しい歴史教科書をつくる会」の設立、97年2月「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の発足で活動を再開した。その中で佐藤勝巳と『現代コリア』グループは、横田めぐみさん問題を開発して、拉致運動をつくりだし、日朝国交正常化を阻止する活動を展開した。
 拉致運動の開始を最初によびかけたのは、1995年6月に出た金賢姫『忘れられない女――李恩恵先生との二十ヶ月』文芸春秋社刊の本である。帯には「李恩恵先生の救出に日本は全力をあげるべきです!」とよびかけていた。日本のジャーナリストの中では、テレビ朝日系列のディレクター石高健次が拉致問題を熱心に取材し、この年5月14日番組「闇の波濤から――北朝鮮発・対南工作」を放映した。彼は拉致問題の取材結果をまとめ、1996年10月はじめ『金正日の拉致指令』を朝日新聞社から出版することをめざしていた。彼の取材の白眉は亡命工作員安明進との二回のインタビューで、安から平壌の教育機関で市川修一氏をみた、蓮池薫氏もみたように思うという証言をえたことだった。
 他方、これまで佐藤勝巳は拉致に特別の重点を置いてみていなかった。テロ国家の犯罪の一つと言う見方であった。しかし、模索の年、1996年に佐藤は日朝交渉に反対する運動を強めるため、拉致問題に特別な関心を向けたと考えて間違いはない。
 ついに1996年9月25日の『現代コリア』10月号に少女拉致の特別の情報が載せられた。それは次のような内容であった。1976年ごろ、13歳の少女が、学校でのバドミントン練習を終えて、帰宅する途中で、海岸で拉致された。彼女は「双子の妹」である。彼女は賢い子で、朝鮮語を習得すると、お母さんのところに帰してやると言われて一生懸命勉強したが、18歳になって帰れないことがわかり、精神破綻をきたし、病院に収容されるにいたった。これはおどろくほど詳細な情報であり、のちの経過からすると、正確であった。正確すぎて、疑惑がうまれるほどである。
 この情報は石高健次が書いた「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」という文章の末尾に含まれていた。石高は、この情報の入手先については説明せず、94年韓国に亡命した北工作員がもたらしたものであり、日本の警察にも伝えられたと述べていた。ということはこの情報は韓国情報機関から日本の警察に伝えられた情報だということになる。石高のみならず、日本の内調、警察とも連絡があり、在京の韓国情報機関ともつながりのある佐藤らも知りえた可能性がある情報だということになる。
 重要なことは、佐藤がこの情報に接して、ただちにこれを新潟の失踪少女(横田めぐみ)と結びつけたことである。西岡も、佐藤自身もそう書いている。これは決定的な重大発見であったはずだ。だが、現代コリア関係者はこのことを誰にも語らず、ほぼ3か月何もしなかったのである。佐藤や西岡は当然石高に話したはずである。しかし、石高も全く動かなかった。あたかも10月号の情報に誰か、第三者が、たとえば新潟の人々が注目してくれないかと待つことにしたと決めていたかのようである。
 12月15日、佐藤は、新潟で小島晴則にたのまれた講演をした。この講演の中でも新情報にふれなかった。ようやく講演後の懇親会でなにげなく佐藤は語りだしたのである。「『確か新潟海岸で行方不明になった少女がいましたよね』『あぁ、めぐみちゃんです』『彼女北朝鮮にいるようですよ』近くにいた人達が一斉に『エッ』と声をあげた。」このまま佐藤は東京にかえり、小島にたのんで新潟日報の記事を送ってもらったと言う。しかし、話を聞いた小島自身も15日の会以後何も行動をおこさなかったのは奇妙なことである。みなが何も動かずに待っていて、1997年1月8日、現代コリア研究所ホームページに横田めぐみ北朝鮮拉致が発表された。彼女の失踪を報じた新潟日報77年11月22日記事も掲載された。かくして、現代コリアが情報を発表し、現代コリアが身元をつきとめ、横田めぐみ事件を世に出したのである。これは佐藤勝巳の大きな成功であった。
 ここからゆっくり他の人々がこのニュースを広めていく。1月21日、橋本議員秘書兵本達吉氏のもとに現代コリア・グループの黒坂真から石高論文と新潟日報の記事が送られた。兵本は色めき立って、横田めぐみの父、日銀勤務であった横田滋をさがし、即日発見する。翌日、横田滋氏は、兵本の呼び出しを受け、議員会館を訪れ、兵本から娘の北朝鮮拉致という話を聞くことになった。これより先、元民社党青年組織で働いていた荒木和博から連絡をうけた西村眞悟議員は、1月23日「北朝鮮工作組織による日本人誘拐拉致に関する質問主意書」を政府に提出し、その中に現代コリア掲載の新情報と新潟日報横田めぐみ失踪記事を紹介し、横田めぐみは北朝鮮工作員に拉致されたと断定できると書いて、政府の考えを糺した。動かなかった石高氏も、この日横田氏宅を訪問している。
 1月25日『AERA』記者も横田氏宅を訪問したが、この日に出た『現代コリア』1・2月号に佐藤勝巳の発表、「身元の確認された拉致少女」がのった。ようやくここで自分が横田めぐみ拉致を発見したと表明したのである。2月3日、『産経新聞』と『AERA』が横田めぐみ拉致を報道し、西村議員が衆議院予算委員会で質問した。
 ここでもう一つの重要なプロセスがはじまる。2月4日、電波ニュース社の高世仁は、安明進を取材した。そのさい、日本での横田めぐみ報道の記事を安にみせると、安は平壌で横田めぐみをみたと語りだしたのである。安が前年に石高に2回取材をうけたときには、そんなことは言っていなかったのである。この高世仁の安インタビューは2月8日にテレビ朝日で放映されたが、巧妙にも安を匿名で登場させたのである。北からのがれた未知の新しい亡命者本人が平壌で横田めぐみを見たと証言したということはめぐみさん拉致を決定的に確認するものとして受け取られた。安の証言の信憑性については私は詳しく論じたことがある。今日振り返ってみて、安の話はほとんどが虚言であったと考えている。

7 佐藤勝巳は自信を強め、横田めぐみさんをはじめとする拉致被害者を救う運動の開始をうながし、ゆっくりとその運動の先頭、中枢に立つにいたるのである。
 まず兵本達吉、石高健次が中心になって働いた結果、3月25日、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会が結成された。代表は横田滋、事務局は蓮池透、増元照明という人事となった。ついで4月15日、拉致議連が発足した。会長は中山正暉、事務局長代理が西村眞悟、事務局次長が安倍晋三という人事である。
 だが、4月23日、外国人記者クラブで横田夫妻が記者会見をおこなったとき、同席したのは佐藤勝巳現代コリア研究所長、西岡力現代コリア編集長、新潟の小島氏の三人であった。これは横田夫妻の真の後見人、背後操縦者は現代コリア・グループだということを世に知らしめた機会であった。5月1日 伊達興治警備局長が、拉致疑惑は横田めぐみを加えて、6件9人から7件10人になったと国会で確認した。
 まさにこのとき、95年に敗北した主勢力が復活した。5月30日、日本会議が結成されたのである。議長加瀬俊一、運営委員長黛敏郎、事務総長副島廣之(明治神宮権宮司)という人事が発表された。事務総長はのちに椛島有三となる。
 他方で、日朝交渉の再開をもとめる政権内部の野中広務らの勢力は8月21日に日朝予備交渉を北京で開催した。ふたたび努力がはじまった。いらだった佐藤勝巳は、8月25日の『現代コリア』9月号に「日朝交渉、問題は日本国内に」を書いた。この中で吉田猛を労働党統一戦線部対日工作員とよび、彼がふたたび工作を活発化していると言い、野中広務を攻撃した。それとともに、自国民を拉致されているのに、食糧援助要請に応じないのは「国家の品格を落とす」などとテレビで信じ難い発言をするとして、小此木政夫、小牧輝夫氏ら、代表的な北朝鮮研究者を非難した。「金正日ファッショ政権の手で北朝鮮国民が餓死させられ、日本人が拉致されていると言う、人間の生死の問題を終始笑いながら話していた。」
 9月15日、小島晴則会長の「横田めぐみさん等拉致日本人救出の会」が新潟で発足し、10月4日には「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が東京で結成された。東京の会長は佐藤勝巳である。
 10月8日、金正日が労働党総書記に就任すると、10月9日、閣議は、6万トン余の無償コメ支援を了承した。すると、10月16日には自民党外交部会、対外経済協力委員会、外交調査会の合同会議で拉致家族会12人が経緯を説明した。ここに佐藤、西岡、荒木が同席した。さらに、10月23日には、佐藤勝巳が、自民党外交調査会朝鮮問題小委員会で講演した。このときは120人が出席した。佐藤がこれらの機会に主張したことは、10月25日の『現代コリア』11月号に書かれた佐藤勝巳の文章「『贖罪意識』は売国の道」にうかがえる。「北朝鮮の主張を要約すると、拉致問題を棚上げにして、日本からコメ100万トンをただでとる。日朝交渉即時再開、『謝罪』させ『賠償金』1兆円を取ると言う筋書きである。」そうしなければ、「金正日政権の命脈は尽きる」。このような情勢評価に立って、佐藤氏は野中氏を批判する。野中氏にとっては「贖罪意識からすると、拉致があっても『過去の清算をすることが先だ』ということになる。だから「『贖罪意識』は売国の道」だということだ。最後に佐藤は、国益のために野中幹事長代理を日朝問題から外すべきではないか。」とのべているが、さすがにここまでは自民党の会で語らなかったであろう。
 11月8日 第一回日本人配偶者里帰りがおこなわれ、11日には森喜朗団長の連立三党代表団が訪朝した。政府は経済危機の中、非常国家体制をひいた北朝鮮に対して、コメ支援をおこない、植民地支配の清算をめざして国交交渉を再開しようとしていた。
 11月、日本会議中央大会が九段会館で開催され、活動の目標として憲法調査会早期設置、防衛省設置とならんで、北朝鮮による日本人拉致疑惑の解明と救済が掲げられた。しかし、日本会議からの加勢ははじまったばかりで、12月18日に銀座ガスホールで開かれた「北朝鮮に拉致された日本人を救出し、侵害された主権を回復する緊急国民大会」に参加した人の数は250人程度であった。
 1998年2月、韓国では金大中氏が大統領に就任するという逆風が吹き始めたが、4月には北朝鮮に拉致された日本人を救うための全国協議会が結成され、佐藤勝巳は会長に、荒木和博は事務局長に就任した。そして、4月2日には全国協議会と家族会の名で、佐藤勝巳の名義で『ニューヨーク・タイムズ』紙に拉致被害者救出を訴える意見広告を掲載した。7月末には全国協議会は安明進を招き、全国縦断講演会を組織した。これが8月8日まで続いた。このような努力もみのり、日本会議系の参加もありで、救う会の集会には多くの人が集まるようになった。1999年5月2日の「横田めぐみさんたちを救出するぞ」国民大集会は日比谷公会堂で開かれ、1900人が参加したのである。
 この8月佐藤勝巳は『北朝鮮の「今」がわかる本』を三笠書房文庫から出した。その本の結びで、彼は、北朝鮮は「テロ政権」で、「恐怖政治」を敷いている、300万人もの餓死者を出したので、短期間のうちに倒れるだろう、との見通しを示した。その上で政府も国民も、自国民の拉致に関心を示さなかった、日本国の内閣総理大臣には、自国民救出のために戦争も辞さずという不退転の態度が見られない。もはや、この国の政府にまかせられないとして、政府のコメ支援、日朝国交交渉再開方針に絶対反対することを主張している。
 こんどは、8月31日、北朝鮮が、人工衛星光明星1号を発射したと発表した。米国はテポドン発射とみて、約束した援助を取り消した。つづいて、日本政府も9月1日日朝交渉と食糧支援の凍結などの制裁措置を発表した。元気づいたのは佐藤氏たちである。西岡力は10月の『現代コリア』11月号に「金正日政権打倒への道」の連載をはじめ、荒木和博は翌月号に「拉致された人々の実力による救出を」を発表するまでに進んだ。
 この中で、村山前首相と野中広務氏は12月1日、村山団長の全党訪朝団訪朝を実現し、日朝交渉を再開する、拉致問題は赤十字会談で協議するとの方針で合意を取り付けるのである。2000年4月日朝会談(第9次)が8年ぶりに平壌で再開すると、4月30日、横田めぐみさんを救出するぞ!第二回国民大集会が日比谷公会堂に2千人を集めておこなわれた。北朝鮮は、2000年には1月4日イタリアと、5月8日にはオーストラリアと国交を結んでいる。日本はまして深い因縁と深刻な懸案を持っている国なのである。国交樹立に向かいながら、拉致問題も解決していく他に道はないはずである。
 7月3日、日朝国交促進国民協会の設立集会が開かれた。会長は村山元首相,副会長は明石康、隅谷三喜男、三木睦子の三氏である。集会では、佐藤氏が非難してやまない野中広務氏、槙田邦彦外務省アジア局長が挨拶し、創立記念講演は理事の小此木政夫氏がおこなった。事務局長の和田春樹は年末に雑誌『世界』に「『日本人拉致疑惑』を検証する」を書いた。安明進の証言は信頼できないとして退け、拉致疑惑事件について辛光洙事件一件をのぞいて、確実な根拠がないので、行方不明者として交渉する他ないと主張した。
 10月3日、長谷川慶太郎・佐藤勝巳の対談本『朝鮮統一の戦慄』光文社がでた。佐藤は「ならば日本は外交戦略の究極の目標として、金正日政権を倒す、と覚悟を決めるべきだ」と言い切った。12月、中西輝政が編纂した本『北朝鮮と国交を結んではいけない』小学館文庫が出された。中西は、日本は合法的に朝鮮を植民地化した、合法的な植民地支配に賠償金を支払った国の例はない、国としての誇りをもつことが大事だと佐藤の主張を繰り返した。櫻井よしこも「拉致を認めない国と友好関係は結べるのか」と主張した。佐藤勝巳は『諸君!』4月号に「いい加減にしなさい和田春樹センセイ!」を書き、荒木和博は『草思』4月号に、「拉致問題に横槍を入れる、和田教授の裏事情」を書いた。荒木は、和田はアジア女性基金にも入り込んで、利権をあさっている、と非難して、拉致被害者の救出にあたっている自分たちは「戦争をしているのだ」、妨害する者は責任をとってもらうと威嚇した。
 結局のところ、救う会全国連絡協議会会長佐藤勝巳氏は、拉致問題の解決をはかるというよりは、拉致問題をてこにして、北朝鮮政権との一切の交渉、協力、援助を否定し、この政権の崩壊を促すことをめざしていたのである。

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討論 司会者:和田春樹氏

金丸信吾氏の講演について

質問 金丸信先生が、平壌で朝鮮植民地支配を反省するという発言をなさった。それはどういう席で、どういう反応があったのか。もう一つは、最終的に金丸信先生に対しては、非常な攻撃が加えられて、政治的には失脚されることになった訳ですが、金丸信吾さんからご覧になって、このことは朝鮮との関係を開くために努力した先生に対する、懲罰であったと感じられるか、の2点を伺いたい。

金丸信吾 過去の植民地支配に対する謝罪は、到着した日の歓迎晩餐会の席上で、自民党代表団団長としての挨拶の中で、冒頭に金丸信が謝罪をしています。これは、竹下総理の謝罪の答弁とまったく変わっていません。朝鮮側の反応としては、もちろん大歓迎ということでした。帰ってきてからの攻撃についてですが、ありとあらゆる攻撃を受けたのも事実です。いろいろな評論家、マスコミが、あることないこと書き立てました。よくまあここまで物語が書けるなあという感想をもちました。一例をあげれば、重村智計さんが次のようなことを書いています。「金丸先生のご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております。私どもとしては、本当に嬉しく思うばかりです。ご先祖やご両親、ご家族の方々は、日本で本当にご苦労なされたことでしょう。その苦労を乗り越えて、金丸先生が日本を指導する大政治家になられたことは、わが民族の誇りとするところであります。」これは、金日成主席と金丸信との会談で、金日成が述べた言葉だとされているんです。ウチの先祖は、武田二十四将の土屋昌続の子孫で、純然たる日本人です。また、その後には、「金丸が政治資金規正法違反で捜査された際に、刻印のない金の延べ棒が見つかり、北朝鮮のものである」とも、平気で書いています。そのような週刊誌的な問題は、我々は気にしませんでした。金丸信自体も「そんなこと気にしていたら何にもできないじゃないか」と言っていました。
 一番の問題は、アメリカからの圧力です。金丸信が訪朝すること自体でも、相当な圧力がありました。三党共同宣言の中には書かれていませんが、金丸信と金日成主席との話の中で、国交正常化を実現するまでの間、先ず日本と平壌に連絡事務所を設置しようという、二人だけの約束がありました。金丸信は日本に帰って、外務省にその指示を出しました。外務省は連絡事務所の設置を極力進めようということで、作業は進んだけど、この時のアメリカの反対はすさまじいものがあったのも事実です。特にびっくりしたのは、「総連本部に連絡事務所を置くことは100パーセントまかりならん」とアメリカ側から言われたのをよく記憶しています。
 その他の攻撃については、おやじは受け流せということで、いつもやっていました。最終的には、91年末に、どうしても行き詰まってきたときに、もう一度訪朝してもいいという意思ももっていましたが、その頃から佐川問題が公けになり、身動きがとれなくなってしまい、再訪朝ができなかったことが、今思えば非常に残念なことです。何もなく再訪朝がされ、金日成主席ももうちょっと長生きをされ、金丸信も現役の国会議員としてあと2、3年その場にいたら、日朝交渉の行方はもう少し違った方向に行っていたのではないかなという気がします。

質問 1990年代の初めに金日成主席と何度も長時間お話しをされたというのは、おどろきました。そこで、8割方問題は解決していたと言われました。北朝鮮も日韓国交正常化交渉と同様に、賠償でなく経済協力として問題を解決をするという意向を持っていたのか、1990年代初頭に金日成主席も、そのような意向を持っていたのか、感触でも結構ですので、教えていただきたいと思います。

金丸 私が金日成主席と単独で7回交渉していた当時、並行して日朝の政府間交渉は行われていました。金日成主席との会談の中での感触では、先ほど80パーセントほどできあがっていたと話しました。これには理由がありまして、1965年の日韓基本条約が下敷きになっているわけです。これと全く違うものをつくるわけにはいきません。ある程度同じ扱いをしなければならないということで、日韓基本条約が基本になるということで、ほぼ80パーセントできあがっていた。あとは、経済協力金がいくらになるかが最大の問題で、途中から核査察問題と拉致問題が入ってきてぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ始まったのですが、主席の感触としては、日朝国交正常化をやりたいというのは、先方の切なる願いであったと受け止めています。
 金丸信と金日成主席が2人で話して、最後の別れ際に金日成主席が言った言葉があります。「金丸先生、これで我々は同じ船に乗りました。しかしこの船は泥船になるかも知れない。しかし、泥船になっても日朝国交正常化という目的地に向かって、2人で一緒にこの船をこぎましょう。」と発言しました。この時、私は金丸信の隣にいましたから、強烈な印象として、今も心に残っています。主席は、熱烈に国交正常化の実現は希望はしているが、そう簡単にはいかないかも知れないという懸念を持っていたのではないかという感じがします。今になってみれば、完全に日朝国交正常化交渉という船は、泥船どころか沈没寸前なのです。残念ながら主席の懸念は当たっていました。今でも彼らは、誇り高き、自尊心の高い民族ですから強いことはいいますが、本当のところは日朝国交正常化はやりたのです。今お金を受け取れるのは日本しかないわけですから、やり方によっては国交正常化は進んで行くと私は今も思っています。

質問 金丸さん、ありがとうございました。最後に、国交正常化がすべての問題の解決の道だと言われたのに、私も大賛成です。国交正常化に向けて日本の機運を高めるにはどうしたらよいのか、いま福岡でも頑張っているのですが、進んでいかないというのがあります。国交正常化、さらには在日の子どもたちへの支援、拉致問題も含めて総合的に解決に向って進めるには、今回のオンライン会議が、もっともっと広がって、日本中に広げたらいいのではないかと思います。金丸さんに、国交正常化に向けて私たちはどうしたらよいのか、アイデアを教えていただければと思います。

金丸 いい案があれば国交正常化や拉致問題も解決しているんですが、拉致問題はここまで長期化しぐちゃぐちゃしちゃうと、まったく出口が見つからない状況なのです。今はコロナでここ1、2年訪朝はしていませんが、一昨年の9月に訪朝したときに、向こうの高官と話をしまして、もし仮に日本の国会議員が超党派での訪朝団を組織した場合、貴国は日本の国会議員の訪朝団を受け入れることができるか、という質問をしました。そしたら、喜んで受ける、われわれは誰とでも話はしますよ、という返答をもらいました。代表団の団長はだれになるのかというので、それは日本に帰ってからの話だけど、私は二階幹事長が今一番の適任だと思う、と話しました。もし二階幹事長が団長になってわが国を訪問するのであれば、1990年の金丸信先生と同等の扱いをいたしますという約束を取り付けてきました。帰ってきて早速二階幹事長にその旨伝えて、是非訪朝団を組織してほしい、われわれが今までやってきた民間外交ではもう限界だ、これからは政治家が動かなければ日朝は解決しないし動かない。是非二階さん、あなたしかいない、是非頼むというお話しをしましたら、二階先生はその時は大変乗り気でした。よしオレが団長で行くぞという返事もいただきましたけれども、それからなんだか知りませんが、どんどん尻つぼみになってしまいました。ただ、今年のお正月に日朝国交正常化推進議員連盟の会長、衛藤征士郎先生から連絡があって、われわれはこれから訪朝の用意のための行動を起こすという連絡がありました。それはいいことですので、是非進めてほしいということをお願いしました。今年の4月8日に決議文を出すという話をうかがいました。「拉致問題の解決と日朝国交正常化を推進するための決議」だというので、「折角訪朝団の用意があるというのに、最初から拉致問題の解決のためにといったら、この時点で北朝鮮は受け付けないよ。まずは訪朝することが大事なんだから、拉致問題を抜いてくれ」と言って、表題だけ変えてもらいました。内容は「未だ拉致問題は解決できていない」という出だしで始まりまして、菅総理大臣の決意を尊重するという文章なんですね。これは安倍さんの意思を尊重するということとまったく同じ。国会議員の中にも、外務省の役人の中にも、本気で北朝鮮問題に取り組もうという覚悟がある人が見つからない。政治家からすれば、金丸信の末路は見ていますね。官僚からすれば平壌宣言に尽力し拉致問題を認めさせた田中均氏、彼の末路も見ているんですね。そういう意味で、見渡した限り、日本の政治家にはちょっと、悲観的な気持ちを持っています。

質問 金丸さんにお聞きします。金丸さんご自身が2年くらい前まで訪朝を繰り返していたのは、何を目指して活動しておられたのか、それについて北朝鮮側の反応はどうだったのか、ということについてお伺いしたい。

金丸 私の訪朝の目的は、金丸信の遺志を継ぐのが最大の目的なんですけれど、その他に日本の北朝鮮に対する報道等によって、真実が伝えられていないことがあります。一番は拉致問題に起因することですが、よく報道陣と喧嘩になりますが、あなた方報道にも問題があるよ。検証できない問題を、あたかも事実がごとく報道しすぎるのではないか。ですから私は、皆さん方にお話をして、もし興味があり北朝鮮に行ってみたいという人がいたら、私が連れて行きますよ。だから、見もせずに、行きもせずに、ただマスコミの情報だけで批判をするのはやめなさい。自分の目で見て、肌で感じて、それから悪いことがあったら堂々と批判していいですよ、と。何しろ、百聞は一見に如かずですから、一緒に行きましょうといって、ここ数年は50人規模でまったくの民間人を連れていっているわけです。私は行った人全員にレポートを書いてもらっています。

和田春樹氏の報告について

質問 拉致問題が何で運動勢力としてこれ程大きな力を持ち得たのかというのは、日本の右翼と結びつけた人がいたんだろうな、そこで佐藤勝巳さんは、かなり重要な役割を果たしたんだなということを伺いました。西岡力氏は拉致問題も慰安婦も両方やっているわけですが、佐藤勝巳さんも最後の方ではそういうことをやっていたということですが、私は右翼と拉致問題は必然的な結びつきにならないのではないかと思うんですが、今は相互に密接な関係を持って、お互いに依存し合って補完し合って、何でそういうふうになってしまったのか、日本の政治とか社会の問題もあると思いますが、何かこの2つをうまく論理的に切り分けて、区別して論じることができないのかなと思うのですが、その点はいかがでしょうか。

和田 この反対勢力をどう呼んだら良いのか悩みまして、「戦前未練派の保守勢力」とか言いましたが、「右翼」と簡単には言えないのです。右翼の中で一番戦闘的で、日本の今の現状を批判している雑誌は南丘喜八郎氏の『月刊日本』ですが、日朝国交正常化が必要だという論陣を一貫して張っています。ナショナリストという立場、日本を愛するという立場から日朝国交を支持する人もいるのです。右翼的勢力の中で拉致問題との結びつく動きが出たのは、前回蓮池さんが言われた「被害国カード」の働きです。要するに、拉致問題を言うことによって、日本は被害国である、日本の国民の人権が傷つけられた、日本国の主権が傷つけられている、日本は被害を受けた国であって、これをはね返すんだ、こういう考え方です。加害者は北朝鮮だとなる。韓国もやたら慰安婦問題で攻めつづけているから、結局韓国もまた日本の名誉を傷つける加害国だということになっている。韓国の力を恐れる気持ちも加わっているのかも知れません。ですから、「被害国である」というカードが北朝鮮、韓国を攻める大義名分になる。これを握った運動に団結することになっているのではないかと思います。

質問 横田めぐみさんの拉致が判明した経緯を、説明していただきましたが、石高さんが『現代コリア』に論文を発表し、3ヶ月後佐藤勝巳さんが地元の会合で話をしたものの直ちに公表せずに、さらに3週間後に明らかにして行く、沈黙の3ヶ月があったことがわかりました。先生から見るとこれは何のための3ヶ月なのでしょうか。私も拉致問題を取材していて、安明進さんに関しては、今日の先生の話を聞いて改めて思いましたが、彼は後追いで横田めぐみさんを見たと証言し、その後われわれマスコミがその証言に引っ張られて大きな報道合戦になりました。その前の年に石高さんが2回取材したけど、一切その話はしていなかったというのも興味深い点です。安明進さんが当時金正日政治軍事大学で、横田めぐみさん以外に蓮池さんらしき背の高い人、赤いネクタイをしていた人が、市川修一さんではないかと何度も証言をしていることですが、後に蓮池薫さんに聞いたら、そんな大学はそもそもないと一蹴されてしまいました。安明進の証言は後で目撃情報として伝えられたものなのだと思いました。沈黙の3ヶ月をどう解釈されているかを質問します。

和田 これは非常にデリケートな問題です。石高さんは『現代コリア』に載せた情報について、最初には既に指摘した以上には説明していなかったのですが、後になって、実はこれはソウルの料理屋で情報機関の高官から95年6月23日に聞いた話だと言い出しました。そうすると、安明進にインタビューした1回目と2回目の間になるので、いくら何でもこんな詳しい情報を聞いたら、安明進に聞くのが当然ではないかと思えます。ですから95年6月に聞いた話だというのは、おかしいんじゃないか。95年6月に聞いた話を、あれほど力を入れた自分の本『金正日の拉致指令』に書かないのはおかしい。だから、この情報は本を書いた後に現代コリアの人々と石高さんが話し合ったところで出てきた情報を、話し合いによって石高さんの文章の終わりに入れて書かせたのではないかと、私は推測しています。この情報が明らかになったときに、辺真一さんがコリアレポートで、これは『現代コリア』がつくった情報ではないかという記事を載せました。それに対して、佐藤さんは反論の文章を出しています。どこから出てきた情報なのか、はっきり分からないわけです。『現代コリア』が、私たちが掴んだものですと言って世間に宣伝したら、自分たちは色眼鏡で見られているので信用されないのではないかと考え、情報を外に出して漂わせて、それが世間に受け入れられたら、ゆっくり私たちが最初に見つけたものですと言って乗り出していくという戦術をとったのではないかと、思っています。相当によく考え抜いた戦術的な発想のもとで、この情報が処理されているのではないかと思いました。

質問者 本当に巧みな戦術だなと今日改めて感じました。私は2003年頃に、石高さんがソウルで会ったとされる安企部の幹部に近い人、同じ幹部かも知れない人から、「オレが石高さんに伝えたんだ」と聞きました。この情報は韓国に亡命したのではなく、東南アジアで活動している北朝鮮の工作員から聞いたものを日本側に伝えたと言っています。さらに「安明進」というのは一つの代名詞として、工作員=安明進として表現しているんだという言い方をしていた。そういう意味で日本の拉致問題は、これまで日本国内でなかなか明らかにならなかったことを、安企部がこういうルートを通じて日本に発信し、佐藤勝巳氏が巧みにこれを使って自分たちの存在を高めたという部分でもあるのではないかと、改めて感じました。

質問 佐藤勝巳さんは仲間とけんかしては別れ、仲間とけんかしては別れで、最後には、遺著で救う会や家族会の悪口を書いているんですね。どんどん孤立して、仲間を切って自分1人になって亡くなっていった、そういう感じだったんですが、佐藤さんの運動スタイルについて、和田先生はどのようにご覧になるか、お聞きしたい。

和田 佐藤さんという人は、朝鮮問題をずっと考えてきた人で、努力もし、苦労もしてきた人です。組んできた人が、次々と離れてしまうということで、私は佐藤さんのところから離れてきた人と一緒に運動をしてきたわけです。私自身も佐藤さんからいろいろ批判を受けています。あるグループの人たちが間に立って、最後に私と佐藤さんの立ち合い演説会を一度やりました。2004年4月18日のことです。佐藤さんも自分の意見をいい、私も自分の意見を言ったのですが、結果として佐藤さんは、和田と討論して和田に勝ったというようなことを言っていたようです。私は佐藤さんを批判するよりも、私の考えはこういう考えだということを述べようということに徹していました。佐藤さんは結局、自分が考えていることは正しいと、根拠が狭いところのデータに基づいて自分の考えを立てて、それに固執することによって、どんどん人と対立していってしまった人ではないかと思います。しかし、佐藤勝巳現象は大きな問題であり、それを研究する必要があるということです。私が今日お話しした分析にもご意見を出して頂きたいと思います。

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