2021年5月8日発行

日朝国交交渉20年検証会議第1回開催さる

 2021年4月29日午後2時より第1回検証会議がonline で開催されました。76人が参加しました。木宮正史氏の司会で、和田春樹氏が「2002年、我々の敗北、日本政府の失敗」と題して1時間15分の報告をおこない、以後質疑応答がありました。以下和田氏の報告の要約と質疑応答を報告します。なお和田報告全文も別途登録します。

和田春樹氏の報告 「2002年、我々の敗北、日本政府の失敗」

 日朝国交促進国民協会は2000年7月3日に発足した。協会は村山富市元総理が会長、三木睦子、明石康、隅谷三喜男の三氏が副会長、宮崎勇、細谷千博、山室英雄ほか、韓国朝鮮研究を代表する小此木政夫、小牧輝夫、木宮正史、水野直樹、田中宏、高崎宗司らを理事諮問委員にむかえ、国民協会の名にふさわしい顔ぶれであった。日朝国交交渉が8年ぶりに再開された直後であった。この年から翌年にかけて、英伊独などEU13ケ国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなど国連軍参加国が北朝鮮と国交樹立を果たし、6月には金大中大統領の訪朝、10月にはオルブライト米国務長官の訪朝もあった。かってない雪解け状態が生まれていたと言えた。そこで協会は超楽観的になり、「2001年のうちに、おそくとも2002年のワールドカップ開催までに」国交を樹立することが必要だし、できると考えていた。

 協会は、会長副会長らの平壌訪問を行い、研究会活動をおこなった。シンクタンク的活動であった。事務局長和田春樹の論文「『日本人拉致疑惑』を検証する」(『世界』01年1-2月号)は、安明進証言は信頼できない、証拠をもって拉致だと主張できるのは原敕晁一件であり、他は行方不明者として調査を求めるほかない、日朝交渉の中で慎重に拉致問題を交渉するようにすべきだと主張し、救う会全国協議会から抗議や非難をうけた。

 国民協会は小泉政府が進めている秘密交渉についてはまったく知り得なかった。だから、事務局長は2002年8月29日から9月24日まで、モスクワ大学集中講義のため日本を留守にした。首相訪朝を知っても、国内の協会関係者に連絡して、事態に対応するように要請しなかった。9月17日前後、国民協会の声は求められず、響くことはなかった。協会の平壌宣言支持声明は10月15日になって発表された。協会は小泉首相、田中局長支持の国民世論をつくるために何もできなかった。敗北したのは当然であった。

 だが、小泉政府の日朝国交正常化への挑戦が失敗に終わったこと自体が深刻な事態である。この点を検証する。これは一つの問題提起であるので、さらなる検証をお願いする。

 日朝国交交渉は金丸田辺訪朝、三党共同声明によって開始され、1991年―92年に8回おこなわれ、決裂し、以後長く再開されなかった。1999年村山元首相の超党派議員団訪朝によって再開が決まり、2000年のうちに3回会談がおこなわれたが、決裂に終わった。2001年1月北の外務第一次官姜錫柱と中川秀直元官房長官の非公式会談があり、北の首脳会談提案、拉致についてはそこで回答をだす、賠償でなく経済協力方式をうけいれるとの意向が伝えられた。2001年4月に誕生した小泉内閣は新外務省アジア大洋州局長田中均の提案を認めて、日朝秘密交渉を同年秋から開始した。こんどこそ日朝国交交渉を妥結にいたらせ、合わせて拉致問題の解決もはかるということが決断されたのであろう。当然ながら日ソ、日中の国交回復、日本ベトナム国交樹立の前例は研究されたと考えられる。「悪の枢軸」発言以来米朝関係が険悪化しはじめたので、米国に知らせず、外務省幹部にも知らせずに交渉をはじめた。拉致運動が力をつよめているので、官邸内の対北朝鮮強硬派安倍官房副長官にも知らせなかった。

 2002年8月にいたり、田中局長の秘密交渉はめざましい成果をあげた。第一は、日朝国交の基本原則について合意にいたり、日朝平壌宣言をまとめたことである。第二は、拉致問題については、回答を首脳会談で出すことを北に約束させたことである。この報告をうけて、小泉首相は首脳会談のため訪朝することを決断し、まず、首脳会談を行うことがはじめて公式発表された。外務省幹部と米国に知らせ、8月30日朝安倍副長官に知らせ、午後に全国民に公表した。問題は、首相が首脳会談後にとるべき次のステップ、国交正常化への工程表をどのようにつくったかがわからないことである。

 9月17日、首相は高野紀元外務審議官、田中局長、安倍副長官とともに平壌におもむいた。有力な政治家に同行を求めなかったことは、政治決断をするに当たり相談できないことを意味した。首相は平壌宣言に調印し、拉致についての報告を受けた。会談後の記者会見で、首相は、まず平壌に来て何を達成したかを語るべきであったが、拉致問題から語りはじめた。「諸問題の包括的な促進が図られるめどがついた」、「問題解決を確実にするため正常化交渉を再開させる」と宣言したが、明確でなかった。ここは、はっきりと平壌宣言の調印で国交正常化に進む準備ができた、拉致問題の解決をはかって、次は国交樹立をおこないたい、生存拉致被害者を連れて帰ると述べるべきだった。

 首相は、国交樹立へ前進するつもりなら、帰国の飛行機の中で安倍副長官にやめてもらうという意向を伝え、それを実行すべきであった。羽田に帰った首相は国民向けに記者発表をしなかった。首相は拉致被害者家族にも会わなかった。翌朝家族のもとを訪問したのは安倍副長官だけであった。

 首相は、当然自民党の幹部には説明し、ついで野党党首にも会って説明した。自民、公明、共産の党首は全面的に支持を表明したが、民主党党首は否定的、社民党党首は支持はしたものの、動揺をあらわした。新聞の社説は,朝日が肯定的、毎日は消極的、読売はさらに消極的であった。世論調査は、朝日、読売ともに82%が会談を評価した。国民は小泉訪朝、平壌宣言を支持した。

 拉致被害者家族会と救う会は否定的、反発的であった。救う会の当初の反応は「万事休す」というものだった。多くの被害者家族は、死んだと言うなら、北朝鮮が殺したのではないかと考えて、怒りを爆発させた。横田早紀江氏は涙も見せず、次のように語った。「私たちが支援の会の方々と力を合わせて戦ってきたことが、大きな政治のなかの大変な問題であることを暴露しました。そのようなことのために、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています。本当に濃厚な足跡を残していったのではないかと、私はそう思うことで、これからも頑張ってまいります。まだ生きていることを信じつづけて戦ってまいります。」これは驚くべき決然たる、政治的な立場の表明であった。これは被害者家族の闘争宣言としては理解できるが、日本国民の闘争宣言にはなりえないものである。18日になって、救う会佐藤会長単独の声明が出た。北朝鮮が提出した「安否情報」は「まったく根拠のない」として、「死亡とされた八人は現在も生きている可能性が高い」と述べている。北朝鮮はうそつきであることを前提にして、北が死んだと言う被害者は生きている、ただちに全員を帰せと主張するこの声明は、以後の救う会活動の土台をつくる声明となった。

 外務省と家族会・救う会とのもみあいがただちにはじまった。政府が家族訪朝を実現する方向で調整していることがつたわると、救う会佐藤会長に断固拒否されてしまう。川口外相が、外務省に被害者家族支援室を立ち上げつつあると述べると、家族会、救う会からは拒絶され、内閣府に参与室が設置され、中山恭子氏が参与に就任することになった。9月25日、田中局長は公開質問状に対して回答し、事実調査チームを28日に出すと明らかにした。同じ日、佐藤会長が「現時点における私たちの立場」を出し、生存者を一カ月以内に帰国させよと要求し、安倍副長官中心のPTに一括した対応をしてもらいたいと述べた。ようやく9月27日になって、小泉首相が家族会と初めて会った。横田代表は、その席で生存者5人の一カ月以内の帰国を求める、安倍副長官を窓口にしてもらいたいとの要求書を読み上げた。

 この間にアメリカの動きが始まった。10月3日からケリー国務次官補が訪朝し、北にウラン濃縮を認めさせた。6日ケリーが来日して、官房長官と外相に訪朝結果を通告した。明らかに日朝交渉の進展にブレーキをかけてきたのである。

文藝春秋新聞広告 この状況で、小泉首相の日朝国交樹立へ向かう動きに反対する勢力の総反撃がはじまった。『週刊文春』、『週刊新潮』、『諸君!』と『文藝春秋』は9月末から田中局長を「売国外交官」と罵り、小泉首相を嘲笑し、国交正常化に努力してきた人々(村山、和田もふくめて)を「8人を見殺しにした政治家・官僚。言論人」とよび、「一死以て大罪を謝せ」と決めつけた。

 斉木調査チームが帰国したあと、10月のはじめ、政府は平壌に5人の一時帰国を要請することを決め、実施したのであろう。これは2002年の日朝交渉を失敗に終わらせる致命的な愚策であった。家族会と救う会は一時的帰国など一度も要求しておらず、一時的帰国に賛成するはずもない。帰国させて、日本側が5人を北朝鮮にもどさないことにしたら、北朝鮮は約束違反だとして、激怒したのは当然だ。この局面で約束をやぶることは致命的である。実際そのような結果になり、10月末の国交正常化交渉は決裂におわった。かくして小泉首相の2002年の日朝国交正常化への挑戦は敗北したのである。

 2002年の終わりには、小泉訪朝、日朝国交正常化をつぶした勢力は勝利の凱歌をあげ、その真の相貌をあらわにした。11月24日、救う会特別研修会で佐藤勝巳会長は基調講演した。必要なことは「北朝鮮の軍事独裁政権を内部から崩壊させることです。政治的、外交的に圧力をかけ、金正日政権が崩壊すれば、拉致の問題も、軍事的脅威も一挙に解決します。これを実行する勇気を是非とも、我が国の政府に期待を致したい。」

討論 司会者木宮正史氏

質問 和田先生は、モスクワに行って、東京にいなかったことが痛恨の極みだと言われました。実は私もこの時期は、在外研究でハーバード大学に行っていたので、日本の雰囲気がよくわからなかったのです。今の和田先生の迫真のご報告でその時代を追体験することができたように思います。皆さんも追体験されたものと思います。

 まず私の方から、三つほど質問をさせていただきます。

 第一は、この2000年前後の時期というのは、日米韓が、北朝鮮を国際社会の中に入れて関係改善を図り、問題を解決していこうとしていたのが、ブッシュ政権が出現して、米国の北朝鮮政策はどうなるのか、非常に不透明感が出てきた、そういう端境期にあったと理解しております。この時期に日本政府、国民において、何のために日朝国交正常化が必要なのかというコンセンサスをつくっていたのか、疑問を持っております。日朝国交正常化は戦後処理の最後の未解決の問題だということはご指摘の通りですが、他方で日朝問題は単なる外交問題ではなくて、公安問題だとして取り扱われていて、北朝鮮と関りあった日本の政治家がひどい目にあうということもあったわけです。それから拉致問題となると、それまで日本と朝鮮半島の関係は加害者被害者の関係だと考えられてきたのが、拉致問題が登場することによって、逆転がおこった。北朝鮮の側が加害者で、日本が被害者だとなった。被害者の立場はものすごく強いのです。また、それまでは北朝鮮の核問題はそれほど深刻な問題ではなかったかもしれませんが、この時期になると日本の安全保障にとって脅威になってきたのです。そういう中で、そもそも日本政府は日朝国交正常化の目的をどこに置いたのか、この拉致問題とか安全保障の問題も含めて一体どこまで行こうと想定していたのか。先生は、そこの点についてはあまり考えていなかったのではないかと否定的な見方をされているようですが、あらためて確認をさせていただきたいと思います。

 二つ目は、小泉政権も、国民協会もチャンスをうまく生かせなかった。対応のまずさに原因があるのだというご主張はよくわかるのですが、やはり先生もご指摘されたように、この後すぐにケリー訪朝があって、北朝鮮の核開発が言い立てられる状況が起きるわけです。アメリカが日朝交渉を潰すためにどの程度意図的にやったのか、わかりませんが、結果的には、アメリカのブッシュ政権が日朝の動きを支持しないので、進められなくなったということではないか。現在でも、南北関係も日朝関係も米朝関係の中でしか変われない。アメリカの政策が変わらない限り日朝国交正常化はやはり難しかったのではないか。その点はどうでしょうか。

 第三は、戦後の日本のあり方は朝鮮戦争によって決められたということです。先日日本国際問題研究所で朝鮮戦争に関するシンポジウムがあり、先生のお弟子さんであるソウル大の南基正氏が主張しておられました。現状を見ると、朝鮮半島の状況が大きく変わることについて日本外交の動きが鈍い。むしろ大きく変わってもらっては困るという姿勢が主流ではないかと考えられます。2018年以降の一連の状況を見る日本の社会、政府の目はまさにそういうものであったように思われるのです。最近は日朝関係だけではなく日韓関係もかなりおかしい状況になっています。それまでは冷戦時代も含めて、38度線を境にある種の対応をするということが日本の安全保障政策であったのですが、最近はその線が対馬海峡あたりに南下しているというような言説が出ています。戦後の日本と朝鮮半島の関係を前提として、現在朝鮮半島の変化に対して日本が積極的に関わることが難しいという現実であるようです。この点についてどのようにお考えでしょうか。

和田 このことが始まった当時に全体的な考え方を明確にもっていたのは田中均氏だけだったと思います。田中均氏は、あの状況の中で日本がアメリカの同盟国でありながら、東北アジア地域の安全保障ということを考え、そして日本の国家的責任を考えると、やはり日朝国交正常化をしなければならないと見ていた。そして、そのことを総合的に考える、彼の言葉では「大きな地図」の中において考えるようにした。拉致の問題も、安全保障の問題も、それから経済協力の問題もひっくるめて、考えて、突破しよう、そういう考え方が田中氏にはあった。それで平壌宣言まで行ったのだと思います。しかし、小泉首相はそういう田中氏の考え方を受けて、その方向を支持して、秘密交渉をやらせるわけですが、田中氏のような明確な構想を自分のものにしていないのではないかと思われます。

 第二点について言えば、アメリカに知らせずに北朝鮮と秘密交渉をしたことは戦後日本の外交史上画期的なことでした。アメリカの制約のもとに置かれた、朝鮮戦争後の日本の地位を突破して、アメリカに知らせずに交渉したことは初めてのことではないですか。その先行例は田中首相の日中国交回復、それに続く日本ベトナム民主共和国の国交樹立だと思います。あれで田中さんは罰されたのだと思います。やはりアメリカとは違ったことを考えて、違った外交をやってみたんですよ。小泉さんのモチーフは「タブーをやぶる」ということで、それで頑張ったけれど、押し切れなかったということでしょう。アメリカの制約をおしやぶらなければ、独自外交はできない、それをこころみた空前絶後のケースだったと思います。

 第三点ですが、ご指摘の通り、近年新しい地政学的な見方が押し出されています。38度線を対馬のあたりまで下げて、韓国も北朝鮮もみな中国、ロシアの陣営に入る、日本はアメリカと台湾と結べばよいというような考えが述べられます。あちらは大陸国連合、こちらは海洋国連合だというわけです。これは「自由で開かれたインド太平洋」構想にもつながってきます。こういう考えはアメリカ人の中にあるのです。一度ハーバード大学の学者と地域の未来像について議論をしたときに、私が「東北アジア共同の家」を主張したところ、その人は大陸国連合と海洋国連合で共存できると言いました。だが、こういう考えで日本の安全保障はえられるでしょうか。北朝鮮は核武装しているのです。日本はその隣にいて、アメリカと中国が対立していくのです。私は朝鮮半島と対立することは日本の国益にとって致命的だと思います。あくまでも日本は東北アジア6か国の平和的な結びつき、連合を作って、平和を確保しなければならない。米朝対立の間に入って緊張を緩和し、さらに米中対立の間に入って平和を維持する。これが日本の生きる道だというふうに思います。

質問 「拉致問題の解決」と「国交正常化」は両方とも実現しなければならない課題だと思いますが、「拉致の解決なくして正常化なし」ということは正当な考え方なのでしょうか。拉致の問題は人権人道の問題で、国交正常化というのは政治の問題ですから、むしろ別のアプローチで取り組むべきではないのかと思います。それを一緒に話しても、問題の解決になるのか、非常に難しいと思います。

和田 日朝国交正常化は日本の国家としてはどうしてもしなければならないことです。最後の戦後処理の課題です。35年間植民地支配をしてきて、戦争に負けて朝鮮の解放を認めたのです。その清算をしなければならない。普通の世界ではどの国も隣の国と正常な国交を結ぶのが当然です。そして、植民地支配が終わった戦後の時代にアメリカ軍に占領されていた日本は、朝鮮戦争がはじまると、アメリカ軍が韓国を助けて、北朝鮮軍と戦う戦争の基地となりました。戦争の全期間中日本から飛び立ったB29が北朝鮮軍と北朝鮮を爆撃しました。日本は北朝鮮と戦ったわけではありませんが、北朝鮮から見れば日本は准参戦国、敵国という状態になっています。戦争は1953年以後は停戦状態のままですから、日本と北朝鮮のそういう関係がずっと続いていたのです。これをストップしなければならないという課題がありました。その関係は平壌宣言によってストップされたのです。拉致も工作船の侵犯もその後は起こっていないのです。
 国交正常化するさいには、それまでに起こった不正常な事態について解決を図るということは当然のことなのです。拉致問題について解決しなければなりません。拉致問題の解決とは、拉致を認めて、謝罪する。そして拉致したことに対して賠償を払う。拉致被害者が生存しているなら、全員を家族と共に帰国させる。死亡したという被害者については、その事情をできるだけ正確に説明して、関連する措置(遺骨の引き渡し、家族の現地訪問など)を実行する。そういうことが国交正常化のさいに果たされる必要があると思います。
 ところが生存者とその家族の帰国は国交正常化以前にはたされてしまっています。死亡したという被害者の状況の解明は十分なされていません。この解明は非常に難しい問題です。これは国家の深部でおこった問題です。北朝鮮が拉致してきた人を殺害している場合には、それを認めることは難しいでしょう。真実を明らかにせよとせまっても、言わないということが考えられます。だからこそ、解明を要求し続け、国交正常化後も続けていく必要があるのです。それにひょっとしたら生きていることにしたらまずいから、死んだと発表した人がいるかもしれないのです。その人を救い出すには時間がかかるのです。時間をかけて、救い出すチャンスをもとめるしかないのです。
 現状では北朝鮮は国交を正常化しないかぎり、拉致問題の交渉には応じないと思います。ですから、国交を正常化して、大使館を開いて、ゆっくりと交渉するしかないのです。これが拉致問題についての対処方針だと思います。

質問 当時のことを思い出しつつ、頭の整理ができました。小泉訪朝団の構成にも欠陥があり、「有力な政治家を欠いていた」ということを指摘されましたが、有力な政治家が加わっていたら、もう少し可能性があったのでしょうか。森喜郎さんあたりでしょうか。

和田 これぞまさに頭の体操です。小泉内閣の中で有力な政治家は田中真紀子氏だったのです。その田中外相が失脚してしまったあとでは、閣内には有力政治家はいませんでした。閣外で誰かをさがすとしたとき、森前総理にたのむということはありえないと思います。あるとすれば、党幹事長の山崎拓氏ぐらいでしょう。山崎さんはYKKの盟友ですし、2004年の小泉さんの二度目の訪朝を準備した人であり、日朝議連の会長にもなる人です。山崎さんと一緒に行って、二人で突破するという道もあったのではないかと思います。

質問 いま米中対立が強まる中、日本は戦後の決算として当然の課題である日朝国交樹立を進めることは主導的な外交を進めつつ、東アジアの平和構築に貢献する形で米中関係を緩和する役割を果たせる「妙策」です。その文脈の中で非核化と対北経済協力を進めることに努力することが重要です。国民協会は毅然として進みましょう。

和田 現状では大きな枠は米中の対立です。アメリカの力はどんどん落ちて行って、逆に中国の力はどんどん上がっているわけです。その米中がにらみあっているのです。日本としては列島をハワイのあたりに動かしてくれるものなら、まだしも、中国大陸のすぐわきに位置しているのですから、米中が対立すれば、日本の平和はありません。米中の間に二つの問題があります。米朝の対立と中台の対立です。米中の大きな対立をなんとか衝突にならないようにもたせていくためには、この二つの問題で戦争をおこしてはならないのです。中国がもうすこしリーズナブルな社会体制にかわっていくまでには、この二つの問題を管理し改善しなければならないのです。二つの問題の内、米朝の対立の方が解決しやすい。なぜなら、この点では米中の間に異論がないですから。そのためには日朝が国交を樹立して、経済協力をおこない、北朝鮮が苦境を脱して、経済が発展すれば、核兵器の問題について交渉を進め、非核化に前進するのをたすけることができます。米朝の戦争の可能性をなくすことができます。だからこそ2002年の平壌宣言にもどって、前進するときだとおもいます。

質問 報告は小泉=田中のプロジェクトが「失敗」した脈絡は整理されていたと思いました。ただ、どこに立ち位置を置くかで、「失敗」や「敗北」の位置づけ方も異なるように思います。日本の歴史的責任という観点からすれば、当時私にとって日韓条約方式を踏襲した日朝平壌宣言が衝撃でした。一方、現在、日朝国交正常化を進めるとすれば、両国首脳が署名した「宣言」に立ち戻るしかない(ただし、それすら容易ではない)というのが現状かと思います。その際、「立ち戻る」と言うことが何を意味するか、考える必要があると思います。具体的に言えば、「財産及び請求権の相互放棄」という原則をどう捉えるのか、ということです。10年ほど前に宋日昊担当大使に日韓条約と平壌宣言との違いについて質問したことがありますが、彼は、相互放棄したのは経済的な側面についてであって、人道的側面(人的被害、精神的被害)については全く別問題だ、という認識を示していました。それが宣言の「相互放棄」の意味だということであれば、私は理解可能です。特に日韓関係の矛盾とも照らし合わせれば、ここは曖昧にすべきところではありません。しかし、この解釈だと、日本政府は合意できるのか。「立ち戻る」と言うときに、この点をどう考えるか、大きな焦点だと思います。この宋日昊大使の立場は、あとづけのものという可能性もあります。この辺、どうお考えですか。

和田 ご指摘の点は国民協会の中でも深刻に議論された問題です。国民協会の創立総会で創立宣言を読み上げて下さった理事の鈴木伶子氏(日本キリスト教協議会議長)が平壌宣言には納得できない、日韓条約の継続のように見えると言われて、協会の平壌宣言支持の声明に賛同できない、理事を辞任するとして去られました。ですから、この問題が大きな論点だということはわかっております。板垣さんが早くから意見を出されていることも承知しております。9月17日以後、日朝国交正常化に前進せよという最初の声明は、板垣さんたちがまとめた500人の声明*であったことも承知しております。日本の政府は日韓条約と同じような方式で、同じような規模の経済協力をするという考えであったのは間違いないと思います。しかし、それではすまないので、村山談話にもとづいて、日韓条約にはないところの、植民地支配のもたらした損害と苦痛について反省謝罪するという文言を宣言の冒頭に入れたわけです。そのことを明記して、それに基づいて経済協力をするというふうにつくった。ここは北朝鮮としては動かすことのできない点です。ですから、経済協力の内容にも変化がおこるわけですが、経済協力では救われない植民地支配のもたらした個人に対する損害苦痛への対処、償いも協議の上で努力するのは当然ではないかと思います。そういうふうに平壌宣言は考えるべきでしょう。
 *2002年9月26日に発表された「日朝間における真の和解と平和を求める緊急声明」(板垣竜太、河かおる、駒込武、趙寛子とりまとめ)。

質問 和田先生は日露戦争についてもご研究なさっておられるわけですが、私は、佐藤克己さんなり、西岡力さんなりが中心のある種の民間の組織がどうしてああいうように力をもち、平壌宣言をつぶして、一挙的なバックラッシュをつくりだせたのか、ということに関心をもつのです。社会学者の説ですけども、こういうことは、日露戦争直後の日比谷焼き討ち事件に源流がある、あの時初めてモッブ、大衆の感情の爆発が外交や日本の国策を大きく左右するようになったと言うことができます。私はこれがポピュリズムだったのではないか、そういうものが何度も繰り返されてきたのが日本の歴史である、今後も同じようなことが繰り返されると思います。朝鮮半島は構造的に変わっていく中で、日本の中の世論はそれに抗うようなものとなる、否定的にみるものとなる、国民の感情構造にまで響く、外交上のリーズナブルな判断とは別の非合理性が日本の国策や外交を何度も挫折させた、そういうふうに考えます。外交とポピュリズムといえるでしょうか。いかがお考えでしょうか。

和田 日露戦争直後のあのような感情的爆発には理由があったというのが歴史家の研究だと思います。国民は戦争で大変な犠牲を強いられ、多くの人が死んでいるのです。あれだけ大きな犠牲をはらったのに、賠償もとれないのか、樺太も半分だけかと反発をしたのです。ところで、2002年の状況を考えると、中心的なところには、子供たちを拉致されて、死んだ、殺されたということになったのは許せないという横田早紀江さんの闘争宣言があるのです。関係しているのは10家族ぐらいですが、この主張に全国民が同情して、横田めぐみさんは生きていると考え、ただちに返せと言い続けていると見えます。なぜこうなったかということが問題です。この裏には佐藤勝巳氏たちの巧妙な働きかけがあったのはたしかです。しかし、私はここでもう一つの事情を指摘したいと思います。1995年の日本には、一つの大きな運動がおこりました。細川政権がうまれて、侵略戦争を反省するということが首相の口から表明されたことに危機感をつのらせた旧日本帝国未練派が総決起したのです。戦後50年の国会決議には植民地支配に対する反省謝罪をもりこめという主張が社会党系から出されていたのも、この人々の反発を一層高めていたのです。奥野誠亮会長、安倍事務局長代理の終戦50周年議員連盟が先頭を走り、加瀬俊一、黛敏郎、椛島有三らの終戦50周年国民委員会が続きました。これらの人々は、大東亜戦争は自存自衛、アジア解放の戦争であった、反省謝罪はみとめないとして決起したのですが、1995年には敗北してしまいます。国会決議は通り、村山談話も出てしまうのです。この勢力は96年から捲土重来をはかります。西尾幹治、藤岡信勝の「新しい歴史教科書をつくる会」に中川昭一、安倍晋三の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」がつづき、97年には「日本会議」の結成にいたるのです。日本会議は96,97年にはじまった拉致問題の運動に注目し、活動方針の第三にかかげています。拉致問題は日本人が被害者で、朝鮮国家が加害者だと主張するのですから、「加害者日本は反省せよ」という1995年の新国論をけとばして、日本の国家のプライドを手放しで擁護できることになるのです。それで1995年に敗北した帝国未練派が2002年には拉致問題に総結集して、村山談話に立つ平壌宣言によって日朝国交樹立することを粉砕したのではないかと考えます。

木宮 和田先生はいまこそチャンスなのだ、いまこそ日朝国交正常化へ進む必要があると言われ、自分もそう思いますが、それを困難にする制約条件はますます強まっているということも見ないわけにはいきません。国民協会がこのときにもっと力にならなければいけないわけです。今日は2002年の状況は歴史になりつつある問題でありますが、またただいま現在の問題でもあるということを再確認できたように思います。

日朝国交交渉20年検証会議第2回のご案内(略)

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